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どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

童貞は政治を語ってはいけないのか? ――ショッピングモールでつかまえて

黑夜给了我黑色的眼睛

我却用它寻找光明                ——顾城《一代人》

 

 

***

 


4 森友学園問題について言いたい事を言う放送《東浩紀×津田大介×茂木健一郎》

 

先日YouTubeにアップされたこの動画の後半で、16歳の男子高校生リスナーが「日本の選挙制度には問題がある。どうしたらよくできるか」みたいな質問をした際に、批評家の東浩紀とジャーナリストの津田大介から「いや童貞が政治や社会を語るなよww」的な返しをされていた(※1)。

 

かれらのことばが冗談かどうかはさておき、童貞は、ほんとうに政治や社会を語ってはいけないのか? ブログなのでもったいぶらずに結論からいうと、童貞には政治や社会を語る権利はあるが資格はないというのがぼくの意見だ。

 

これは一体どういうことか。

 

政治や社会を語るということは、たとえば「法とはなにか」、「政治とはなにか」、「権利とはなにか」あるいは「責任とはなにか」などといったことについて考えること(あるいはそうした諸問題に対する暗黙の合意の上で具体的なことがらを議論すること)である。そして、そうした根元的な問題にあまねく(そして暗に)通底しているのが「人間とはなにか」という問題なのだ。なぜなら、大胆にいえば、政治や法、権利などといったものはすべて人間がよりよく生きていくために作り出した制度であるからだ(※2)。

 

また、「人間とはなにか」と問いかけることは、人間を定義することにほかならない。定義とは、差異の確認である。つまり、ぼくたちがなにかを定義するのは、それ(ここでは人間)がいかに類似の概念/存在と異なっているかを明らかにするためである。逆にいえば、ぼくたちが定義を必要とするのは、つねに類似の概念/存在があることに気付いたときなのだ。

 

ちかごろ人間を再定義しようとする機運が高まっているのは、ほかでもなくロボット工学や人工知能の台頭とそれへの不安が原因なのであるが、そもそもぼくたち人間が人間の定義を必要としたのは、当然ながら自身を動物と区別する必要/欲望を感じたからである。人間は動物と(いかに)異なるのかという議論は、たとえば中国の戦国時代の『孟子』に早くも登場している(※3)。「人間とはなにか」という問題は(少なくとも東アジアの)道徳に関する議論にも通底しているといえるだろう。(もちろん、この問題がいまなお重要さをいささかも失っていないことは、べつにコジェーヴアーレントなどという固有名を持ち出さずとも明かなことだ)

 

ところで、いまを生きるぼくたちにとって人間と動物を感覚的に区別するのはさほど難しくはない。というのも、ぼくたちは物心がついたころから動物園、ペット、自然のドキュメンタリー番組などといった形で動物を人間とは異なるものとして対象化して消費/享受することに慣れ切っているからだ。それゆえ、いま人間を定義する、すなわち人間と動物を明確に区別する必要/欲望が生じるとするならば、それはたとえば「われわれはいまや動物よりも高度な知能を持つ生物となってしてしまったのだ」と誇らしげになる瞬間にではなく、むしろ「じつはわれわれもまたあの動物たちと同じなのではないか」と疑ってしまう瞬間にこそあるのだ。

 

そして、いまを生きるぼくたちにとって、この疑いが生じる最も普遍的な瞬間は、おそらく恋愛と性愛の差異の中に隠されている。というのも、性愛(/性欲)のディスクールは恋愛/友情のディスクールとは全く異なる地平で展開されるからだ。

 

ぼくたちは、小さいころから道徳教育などを通じてかけがえのない個人を尊重しようということをやたらに聞かされて育ってきたし、それはある程度人間関係の基本であると考えている。(もちろん、それを疑ったり否定したりすること自体はあまりに容易だ)友情や恋愛が本質的(あるいは理念的)にここを起点としているのは、その手の「さわやかでまっすぐ」なフィクションがいつまでも喜んで消費されることをみれば明らかである。

 

恋愛(/友情)のディスクールが、程度に差はあれ「かけがえのない個人」を起点にしている一方で、性愛(/性欲)のディスクール相手を交換可能なモジュールとして対象化することから始まる(※4)。そこでは本質的には「かけがえのない個人を大事に」などといった人間関係の道徳は必要とされていない。例などだれでもいくらでも挙げられるだろうが、たとえば一晩限りの関係は成立するのに、初対面の人と一度だけ昼過ぎの日比谷公園をぶらぶらするだけの関係がほぼ成立しないことを想起すればよい(※5)。

 

相手を交換可能なモジュールとして対象化すること、それによって「かけがえのない個人」という人間関係の道徳的基盤――それ自体かなり疑わしいのかもしれないが!――を一時的に捨て去ること。おそらくもっとも多くの人がはじめて「じつはわれわれもまたあの動物たちと同じなのではないか」と疑う瞬間は、ほかでもなく性愛のディスクールが前提として求めるこのふるまいの中にあり、同時にそれによって自分は動物ではなく人間であるという確信が根底から揺さぶられる不安の中にある。

 

童貞が無条件に嘲られたり、偉そうに政治や社会を語るななどといわれたりするのは、ほかでもなくかれらの生活感覚に人間性とは矛盾した動物性の台頭による根底からの揺さぶりが感覚的に欠けており、その点で「人間とはなにか」という問題およびそれが暗に通底している各問題系への接続が片手落ちにならざるをえないとみなされるからだろう。

 

むろん、その揺さぶりを実感する機会は性愛と恋愛(ある側面における動物性と人間性の差異のほかにも無数に存在する。しかし問題は、人々が(あえていうならば世の中の元‐童貞たちが)その他のすべての機会にもまして、性愛と恋愛の差異に揺さぶられること、もっといえばその矛盾を矛盾のまま自分のなかに共存させた状態へ到達することを決定的な契機だと認識していることにある。人間(ヒト科の動物ではない)に関する議論は、自分が動物なのではないかと本気で疑うところから始まるのだ。

 

いい換えてみよう。大自然に身を置くライオンやゴリラは、たとえば田舎の中学生が土曜日の午後にショッピングモールでデートをするような、生殖と全く無関係の恋愛を決して行わないだろう。(その意味で、しばしば恋愛の物語に触れたことのないものは決して恋愛をしないだろうといわれるのはもっともなことだ)

 

性愛と恋愛が矛盾をはらんで共存するというのは、とりもなおさずショッピングモールの中学生とジャングルのゴリラがシームレスにつながることである。童貞は、いわばショッピングモールの向こうのジャングルを知らないのだ。

 

さて、ここまでいってきたのは、端的にいえば童貞がいかに動物性へのおそれに欠ける(とみなされている)かであり、それはまた政治や社会の問題の根本に通底している「人間とはなにか」という問題のもっとも重要なカギとなる感覚の一つであるということだった。これこそが、かれらに政治や社会を語る資格がない理由である。

 

権利に関しては、これはそれほど複雑な話ではない。単に言論の自由参政権などといったことばを想起すれば事足りるだろう。

 

では、権利はあるが資格がないとはどういうことか。それはすなわち、社会的には正しいが、しかしそのふるまいによって浴びせられる数多の罵倒や嘲笑から、社会は決して守ってくれないということだ。換言すれば、童貞がしたり顔で政治や社会を語ることを問答無用に抑圧する公的な力はどこにもないが、しかし社会は周りの人々の嘲笑や憐みに対して例外なく永世中立の原則を貫いてくるということだ。

 

もう一度いうが、童貞が政治や社会を語るなと嘲笑されるのは、かれらに権利がないからではなく、資格がないからである。なぜなら、かれらは感覚的に性愛と恋愛(動物性と人間性)が矛盾をはらんで共存する状態へと到達しないままに、いつまでも土曜日のショッピングモールをさまよい続ける存在にほかならないからだ。

 

ただ、ここでもっとも矛盾に満ちているのは、ぼくもまたショッ(筆者急逝のため未完――編集者注)

 

  

 

1:なお倍速で通してみたが、個人的には前半(1,2)より後半(3,4)の方がかなり面白かった。

 

2:Frans de Waalの『チンパンジーの政治学』は、こないだ北京の本屋で安く買えたがまだ読んでいない。読んだら考え方が変わるかもしれない。

 

3:「人之所以異於禽獸者幾希,庶民去之,君子存之。舜明於庶物,查於人倫,由仁義行,非行仁義也。」『孟子』離類下 

 

4:ここでは、モジュールということばを、いくつかの部品的機能を集め、まとまりのある機能を持った組み立てユニットという意味で使用している(参照Wiki)。劇場版『スタートレック』でヴィージャーが人類のことを「炭素ユニット」と呼んでいたが、イメージとしてはあれに近いかもしれない。

 

5:ここではそうした商売があるかどうかということは問題にしていない。

積読という病

本棚に本を並べきれなくなると、とりあえず横向きに(表紙を下にして)積んでいく。そうすることで、まだ読んでない本が縦に横にたまっていく。

 

この状態、動作、あるいはそうしてたまった本を積読(つんどく)という。

 

積読は、基本的に手持ちの本を読み切っていないのにもかかわらず本を買ってしまうというたいへん無計画な人におこる状況なので、これはお金の管理ができないのと同じく一種の病である。

 

しかし、この症状はまださほど重大ではない。なぜなら、積読はあくまでも具体的かつ物理的な限界(金銭、空間…)によって制御されるからだ。たとえば、いまぼくは北京におり、日本における限界≒物価を優に超越しつつあるため、日本にいたときほど本の値段を気にしなくなった。

 

しかし、ぼくはいま部屋に本棚が一つしかないことと、調子に乗って買いすぎると持って帰れなくなる(あるいは送るのがかなり面倒になる)ことという物理的制約を受けているため、ある程度積読の症状を抑えることに成功している。

 

物理的抑制が有効に作用しているからこそ、積読は有限性を保ちうる。これは、逆にいえば、その物理的抑制が撤廃された瞬間、病魔はその恐るべき凶悪の面目を露呈するということだ。そして絶望的なことに、ぼくたちはもはや病魔を食い止められない段階へと突入している。その臨界点とは、ほかでもなく通販の誕生なのであった。

 

通販の誕生によって、ぼくたちは興味のある本を自分のアカウントへ無限に登録することが可能となった。これは、換言すれば、ぼくたちは物理的抑制に制限された積読の欲望を我慢することなくほしいものリストへと流し込むことができるようになったということだ。

 

こうして、もはや買ってすらいない(当然読んでもいない)書籍たちがどしどしと積まれていき、買っても買っても(そして、読んでも読んでも)ほしいものリストの本が減らないという絶望的な状況、これを積読2.0とよぼう。積読という病は、ウェブの到来によって物理的抑制への抗体を獲得し、圧倒的に強力なモデルへとアップデートされたのである。この状況を前にして、ぼくはもはや絶望以外のことばを見出しえない。

 

積読は、まだ食い止めることができた。だが、積読2.0に、治療法などない。

これは、アマゾンの世界進出によって拡大したパンデミックなのだ。

観光的に学ぶこと

先日、山西省に住んでいる友人の家へ1週間弱おじゃましてきた。客をもてなすこと自体たいへんなことなのに、くわえて、ぼくが初日から食あたりか何かによって2日ほどしたたかにお腹を壊してしまい、たいへん迷惑をかけてしまった。とはいえ、その間なにやらなぞの液状の漢方をいただいたり、友人のおじいさんとひまわりの種を食べながらのんびり抗日ドラマ(※1)をみたりするなど、不思議で有意義な時間をすごさせてもらった。それ以後の日程も含めて、ほんとうに感謝している。

 

こういった話は、しばしば留学中における「充実した」体験談のひとつとして語られることになるだろうし、実際に、少し調べればこの手の「充実した」話なんていくらでも読むことができる。大学もまた、留学を考えている人に「先輩の体験談」を読むように促してくる。

 

しかし、留学先からさらに観光へ出かけるという体験のなかでぼくが強く感じたのは、充実感でも成長でもなく、むしろ観光(客)のある種の限界であり、それは同時に交換留学(生)の本質的な限界でもあるということだった。端的にいうなら、それはつまり、観光客および留学生は、現地人(つまり村人)にはなれないということだ。

 

当然、それはぼくが友人一家のもてなしに満足がいかなかったからとかいう理由では全くないし、むしろ逆である。彼らはぼくが想像もしていなかったくらいにねんごろにもてなしてくれたし、帰るときにはお土産もたくさん持たせてくれた。その上、常々ここを自分の家だと思いなさいとか、今後友人が留守の時でも泊まりに来ていいとかいってくれた。

 

その言葉どおり、ぼくは観光へ来たにしてはかなり「アットホーム」なひとときを過ごすことができた。(へんな話だが、他人の家のトイレをあれほど存分に利用したのは冗談抜きで人生初だったし、またこれが最後であることを強く望んでいる)

 

しかし/だからこそ、ぼくはあの時自分が村人ではなく観光客なのだと痛切に自覚せざるをえなかった。なぜなら、ぼくの「アットホーム」なひとときは、いわばねんごろな準備の末に演出されたものであり、その準備こそがほかでもなくアットホームな村人=現地人のいとなみであるからだ。そして、ぼくたちは観光客である限りその準備に関わることはできない。よしんば準備らしきものに携わったとしても、その背後には、観光客のあずかり知らぬ準備の準備(あるいは準備の準備の準備の……準備)が行われていることだろう(※2)。

 

たとえいくら「アットホーム」な空間/瞬間に身をおこうとも、観光(客)は決して村人にはなれない(そして、あえていえば根無し草の旅人でもない)というこの関係性の限界は、さきほどちらりと言及したように、そのまま交換留学(生)の本質にもあてはまる。

 

数か月前に書いた「交換留学の本質」という記事を思い出してほしい(読んでいなかったら、そういうものがあるのかと認識してくれればそれでよい)。そこでいったのは、べつに勉強をしろだとか、友達をつくれだとかそういった話ではなく、むしろ、そもそも交換留学とは目的も「本質」もなんだかよく分からない宙吊りの経験であり、なおかつ海外を志向しつつも、もとある拠点(≒大学)は捨てきれないという奇妙な両義性をはらんだものであるということ、逆にいえば、この宙吊りの感覚や奇妙な両義性こそが交換留学の本質なのだということだった。

 

さきほどいった、観光客は村人にはなれない(そして、拠点のない旅人でもない)という関係性は、じつは2つの本質のうちの後者である奇妙な両義性をいい換えたものにほかならない。つまり、滞在先とは別に帰る場所を持つ観光客が滞在先の村人になれないように、1年や半年程度の交換留学生は、どう頑張っても決して現地の学生や学部の留学生にはなれないのだ。

 

たとえば、ぼくはいま北京大学で主に中文科の授業に出ており、学部生のように課題をこなしたり試験を受けたりしている(量は少なめかもしれないが)。ほかにも漢文の勉強会に参加したり、漢詩の朗詠会(なんかすごい字面だ!)に参加したりもした。そうして少しは友人もできたし、それらをネタにして「ぼくめっちゃ頑張った!」とか「もう充実しすぎィwww」みたいな話を展開することも可能かもしれない。(ぶっちゃけそれほど充実しているとは思っていないが)

 

しかし、ぼくは中文科の学生たちが、みんな入学時に配られる中文のシャツを持っていることを知っている(※3)。昨年秋に入学した友人たちは、「百年中文」と書かれたやたらにかっこいいシャツを持っている。そして当然ぼくはもっていない。中文科に所属していないからだ。

 

べつに、ぼくもかっこいいシャツが欲しいとかそういう話ではない。ただ、留学当初にそのことを知ったとき、ここでは学生証なんかではなく、そのシャツこそが村人の証としてきわめて象徴的に機能していることに気づき、またそれゆえに学生証(滞在許可証?)しかもっていないぼくは決して村人にはなれないということ、この限界にいささかむなしさを感じたのだ。(たとえなんらかの方法でぼくがそのかっこいいシャツを手に入れたとしても、むろん、それはもはや村人の証でもなんでもない)

 

その限界やむなしさを乗り越えるには、当然の論理的帰結として、ぼくも村人になるということ以外に選択肢はない。それはつまり、さっさと早稲田を退学して試験勉強をし、北京大学の正規の留学生のための試験に合格するということを意味している。しかし、「交換留学の本質」の中でもいった通り、やっぱりそうはできないというのも本心だし、結局日本でまた勉強することになるだろう。

 

たとえどれだけ「充実」していようとも、どれだけ現地人の中に「溶け込んで」いようとも、交換留学とはつねに学部生ではないこと、さらにいえば、現地(人)へ接近しつつも、それにはなれない/ならないことという両義性をはらんだ経験にほかならない。そして、その限りにおいて、1年や半年程度の留学(生)は、村人との間に決定的な差異(あるいは断絶)を持ちながら、村(人)へ接近すると同時にそれにはなれない/ならない観光(客)と本質的に共通しているのだ(※4)。

 

このようにいっても、おそらくこれを否定する交換留学生はいるだろう。彼ら/彼女らはおそらくこういうはずだ。自分の経験は観光客のように無責任で表面的なものではなく、もっと深くて、挑戦的で、「充実」したものなのだと。場合によっては、その具体的な体験がつぶさに語られるかもしれない。

 

むろん、ぼくもその経験そのものを否定するつもりは全くない。そうしたかけがえのない経験たちはきっと人生を豊かにしてくれるはずだ。

 

しかし、ここで最も強調すべきなのは、充実した経験や獲得した知見の深さを以てこのアナロジーを否定しようとするそのしぐさこそが、まさに交換留学(生)が観光(客)的であるという主張を強く裏付けてしまうというこのアイロニックな事実である。

 

前回の芝生に関するふざけた一風かわった文章でも取り上げた社会学者のマキャーネルは、いみじくも次のように述べている。

 

「観光客は、観光客が嫌いだ。神は死んだが、同僚よりも神聖にみられたいという人間の欲求は生きている。そして、同僚よりも秀でたいとする宗教的衝動は、マックス・ヴェーバーが見出した、労働のエートスにだけでなく、いくつかの余暇行為にも看取される。[……]観光についての観光的批判の奥底には、社会や文化のより深遠な理解について、他の「単なる」観光客を超えたいという願望がある。」(p10、強調筆者)(※5)

 

ここでは「社会や文化のより深遠な理解」だけが願望の射程に含まれているが、その願望が、より「充実した」観光的経験へも向けられていることは、たとえばむやみに「穴場」を求めたり、定番の観光地ではない、地元民しかいかないような場所(そこには飲み屋も含まれる)への観光体験に満足し、なおかつ誇らしげに語ってしまったりするぼくたちの精神的傾向を考慮すれば、容易に理解できる(しかしそれらの「穴場」は、観光客のまなざしにふれた途端、もはや無傷ではいられない)。

 

つまり「単なる」観光客よりも、より「充実した」経験をし、深い知見を獲得しようと試み、場合によってはそれを誇示しようとするのは、観光客のもっとも根源的な欲望の一つなのだ。

 

したがって、「単なる」留学生よりもさらに「充実した」経験を求め、やたらに誇示しようとする多くの留学生の欲望は、もっとも根源的な部分で観光客とつながっている。同様に、彼ら/彼女ら(むろん、ぼくも含まれる)が「充実した経験」を語るとき、その経験を織りなす対象へ向けられたまなざしは、「無責任で表面的な」観光客のそれとまったく変わらない。もう一度いうが、それを否定することには、おおかた自分の首を絞めること以外に何も効果がない。

 

観光客が「観光客らしくない」体験を求めるように、留学生は、つねにより「普通の留学生じゃできない」体験を求め誇示したがるが、結局どちらも村人=現地人にはなれない。そして、たとえ自分の努力や「充実度合い」を以てこのアナロジーを否定しようとしても、それは観光的経験のマウンティングとでもいうべき絶えざる欲望の連鎖を加速させ、かえって自身の観光(客)的たるゆえんを露呈するのみなのだ。交換留学(生)は観光(客)的だときいてムッとした人は、この厳然たる事実を前に慄然としなければならない。

 

さて、ここまでいってきたことは、端的にいえば、宙吊りの感覚と奇妙な両義性を本質として持つ交換留学(生)は、きわめて観光(客)に近似しているということだった。ぼくはもはや交換留学に関して、期間が1年なのか半年なのか、あるいは1か月なのかなどといったことに制度面以外の差異を見出す(さらには意識的/無意識に、そこに優劣を見出そうとたくらむ)ことになんら意味を感じない。留学生は、本質的に観光(客)的かそうでないかで分けられるべきなのだ。

 

そしてぼくは間違いなく観光客である。だから、村人といかにうまく関わるかを考えると同時に、観光(客)的な留学生として、(できればマウンティングの連鎖に陥ることなしに)いかに観光的に学ぶかを考えるべきだと思っている。観光客は普通、無責任で気まぐれで表面的である。だからぼくは、交換留学もまた、無責任で気まぐれで表面的であるべきだと考える。それは決して怠惰を意味しない(※6)。むしろ、村人=現地人(あるいは当事者)にはなれないという観光客の性質を意味している。

 

マキャーネルは、観光とは「社会の分化に対して執行される儀式」であり、「近代的全体性の超越を求める、ある種の集合的奮闘、近代性の不連続性を乗り越えようとする方法、近代性の断片を統一的な経験に取り込む方法」なのだといった(※7)。いま社会(たとえば「社会階級、ライフスタイル、人種的集団、エスニック・グループ、年齢層、政治・専門職集団」など)はおそろしく高度に細分化しており、絶えず複雑化しながら再編成されている。この状況についてあれこれ分析するのがぼくの目的ではないのでこれ以上なにもいわないが、マキャーネルがいったように、観光(客)はこうした分化や境界を超越する可能性をもっているともいえるだろう(※8)。

 

当然、だからといって「観光でみんな仲良く世界市民」みたいなことは微塵も思っていないが、いま非常に細分化した社会の枠組みを超えるものについて考える、あるいは枠組みを超えてものを考えるには、たとえ無責任で気まぐれで表面的だといわれようと、観光(客)的に境界を超えながら自分のなかでそれらを総合するほかない(少なくとも、それが最も主要な手段の1つではある)のではないだろうか。というのも、ここまで細分化してしまっては、あらゆるものごとに対して村人=現地人≒当事者でいるのは限りなく不可能に近いからだ。交換留学(生)が本質的に観光(客)的であるとするならば、その本質的な価値あるいは可能性もまた、この点にあるのではないだろうか。

 

観光的に学ぶこと。それは、留学に際してにわかに国家や社会的階級を代表しようときまじめになったりすることではない。むしろ、もっと気まぐれでフリッパントに振舞いながら、あちこちに引かれた境界線たちを無責任に飛び越えつつ、絶えず境界線を越えるものについて考えていくことなのだ。

 

 

※追記

では、観光(客)と交換留学(生)の違いはどこにあるのだろうか。あえていうならば、それは「学び」の有無にある。これはべつに狭義の勉強を表しているのではないし、観光(客)には学びがないという意味でもない。「学び」の有無とは、換言すれば、大学など何らかの教育/研究機関に所属しているかどうかということだ。

 

さらに即物的にいうと、たとえば北京大学の建物には、しばしば入口に観光客の立ち入りを禁止する張り紙や立て札が設置されているものがある(「遊客止歩」などと書かれている)。「学び」の有無とは、畢竟そこに入る資格があるか否かというその一点に尽きている。逆にいえば、ぼくは本質的にはその程度の違いしかないと思っている。しかし/だからこそ、単に観光に行くことと、観光的に「学ぶ」こととの間には画然とした相違が認められるべきだし、交換留学(生)の本質的な可能性をめぐる議論はこの差異を起点にしなければならない。

 

 

1:主に日中戦争をテーマにした一連のドラマのこと。内容は基本的に似たり寄ったりで、中国のとある集落に侵略してきた日本軍を現地の人民がやっつけるというものがおおく、だいたい常に放映されている。当然、みんながそれをみながら「日本人憎し」と日々怒りに震えているわけでもないし、ぼくの周りにいる若い人たちは、そもそもそうしたドラマを嫌っていたりさえする。基本的に、人々はネタとして消費しており、ときおりそれをベタに受け取ってしまう人がいる、という程度に認識しておくとよいと思う。

 

2:滞在中に友人宅で火鍋をごちそうになった。なるほど家族そろってお鍋などというと、たいへん「アットホーム」な感じがする。しかし別の日に、例のおじいさんが、この間友人の両親が火鍋の作りかたを自分に聞いてきたので教えてやったとぼくに誇らしげに語ってくれた。ぼくはそれを聞いてとても嬉しかったけど、一方でアットホームな瞬間とは、火鍋を囲むひとときにではなく、むしろ火鍋の作りかたを尋ねるその一幕にこそ存在したのだと感じた。

また、ある時には1泊2日の旅行へ連れて行ってもらった。出発前日にみんなで準備をしたが、その荷物はもともと家にあったものか、あるいは前もって買っておいたものだときいた。準備のための準備とは、たとえばこういうものを意味している。

 

3:厳密なタイミングはわからないが、友人から学生たちがそのシャツを着て入学式に臨んでいる写真を見せてもらったので、だいたい入学時かと思われる。

 

4:宙吊りの感覚についてもだいたい共通点が導き出せるだろうが、いまあまり適切な例がないことと、これ以上文章が長くなってもよくないので、ここではあえて取り上げない。

また、4年間在籍する学部の留学生は観光(客)的でないのか、という疑問があるかもしれないが、これに関しては、ぼくは学部の留学生じゃないので、よくわからないとしかいえない。ただ、制度上は村人である上、ぼくが知り合った学部の留学生はおおかた家庭環境や中等教育に関して中国的なバックグラウンドを持っており、そうした人々はあまり観光(客)的でないといってよいだろう。

 

5:マキャーネル 安村克己ら訳『ザ・ツーリスト』(学文社 2012年)

 

6:いまぼくが一番時間と労力を割いているのは間違いなく勉強だが、そんなことは留学の本質とは無関係なのでどうでもいい。「留学に来てめっちゃ勉強頑張った!こんなのはじめて!」などといってしまう人は、(たとえそうでなくても)日本でたいして勉強やってませんでしたと暴露してまわるようなものなので、そんな恥ずかしいことはあまりしない方がよいと思う。

 

7:マキャーネル(2012年)13頁。

 

8:この可能性を思想・哲学の文脈から照射しているのが思想家の東浩紀(『弱いつながり』、あるいはきたるべき『ゲンロン0 観光客の哲学』など)であり、あるいは「消費社会」、「アイデンティティ」などの概念から観光(客)の可能性を分析しているのが社会学者の須藤廣(『ツーリズムとポストモダン社会』など)である。個人的には、観光あるいはレジャーといったものに対する関心は、実践女子大教授で哲学者(?)の犬塚潤一郎の啓蒙による部分が大きい。

枯れきった深緑の草ぐさを、ぼくらはどうみればよいのだろうか?

日本でもニュースになったであろう中国の春節(=旧正月)もすでに終わりを迎えようとしている。一般的に、春節の祝賀ムードは陰暦の正月十五日(上元、新年最初の満月)の夜、いわゆる元宵をもって終わる。(※1)この日は元宵節とよばれ、お祭りが各地で開かれたりする。今年は今月11日が元宵節にあたり、10日夜から各地で祭りが行われるようだ。

 

では、春節から元宵節までの間人々は何をしているかというと、むろん人によるのだけど、今日では中国各地、あるいは諸外国へ観光にいくことがわりと多い(※2)。これは日本でもよく知られていることだろう。ぼくのいる北京大学へもずいぶん観光客がきた。北京大学は関係者とその同伴者以外は所定の手続きをしないと入れないので、学生証を持っているぼくは何度か見知らぬ観光客に頼まれて、あたかも同伴者であるかのように親密そうに振舞いながら校門を突破させられたりした。また、春節の間も休まず開いているわずかな食堂は、明らかに学生(あるいは職員)らしからぬ人々でごったがえしていた。

 

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そんな中、先日ふとみつけたのが以下の光景だ。

 

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これはぼくの寮の敷地内にある芝生の植え込みだが、なぜかすでに枯れきっていた草ぐさが世にもきれいな緑色に塗装されていたのだ。

写真ではわかりにくいかもしれないので、比較対象として同じ日に撮った北京大学内の芝生を見てみよう。

 

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さっきの写真と比べると、あまりに生気を失っており寂しげだが、もちろんこちらがありのままの姿にほかならない。いうなれば、さっきの写真の草は、ただの草ではなく、より草らしく加工された草なのだ。

 

これに関しては、おそらくここ数日間の出来事のはずなので、観光客の目を意識した行為だとみて間違いないだろう。というのも、ぼくらが住んでいる留学生向けの寮にはホテルが併設されており、そこもいま多くの観光客が利用しているからだ。

 

なので、ここで問題なのは、どうして枯れ草が深緑に染まったのかではなく、むしろそれは一体なんなのか、換言すれば、ぼくたちはそれをどのようにみればよいのだろうか、ということになる(とはいえ、緑のペンキで一気呵成に塗りたくってしまう感性自体、少なからず戦慄的であるが……)。

 

さきほどもいったとおり、この「深緑の枯れ草」の目的は観光的な演出にある。そこで、『ザ・ツーリスト(THE TOURIST)』(邦訳は安村克己ら訳、学文社、2012年)で知られる社会学者のディーン・マキャーネル(Dean Maccannell)を召喚しよう。

 

彼は観光対象を分析するにあたってたいへん有益な手段をいくつか提示しているが、その一つとして表舞台‐舞台裏の区別がある。つまり、観光地には観光客にみせられる――いやむしろみせるための――表舞台と、表舞台を演出するための準備がなされる場所、つまり観光客にはみせられない舞台裏があるということだ。これ自体はアメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマンが提示した(※3)ものだが、マキャーネルはこの両者は単なる2つの要素ではなく、シームレスな6つの連続体のうちの両極であるといった。以下簡単にまとめよう(※4)。

 

第一段階:いわゆる表舞台。たとえば一般的なレストランのホール。

第二段階:部分的に舞台裏風に飾り立てられた表舞台。たとえば壁に漁の網をかけた漁村っぽい雰囲気あるシーフード・レストラン。

第三段階:舞台裏にみえるように全体的にしつらえられた表舞台。マキャーネルは「テレビの月面歩行のシミュレーション」を例として挙げているが、彼もいう通り、第四段階との境界が曖昧だという「問題をはら」んでいる。

第四段階:観光客にみせるために開放された舞台裏。たとえば楽屋の公開サービス。舞台裏は公開された時点で機能的には表舞台となってしまう

第五段階:観光客に覗かれてしまってもよいように整備されているが、普通は公開されない舞台裏。たとえばレストランの厨房。

第六段階:いわゆる舞台裏。観光客はみることができない。たとえばスタッフの専用トイレなど。

※舞台裏の役割は、単に表舞台の準備のためだけでなく、表舞台の「確固とした社会的現実性[……]を保持する」ための神秘性を保証する――つまり、なにもかも可視的(過視的!)な現代社会にあって、みえないことが真正性を演出し、神秘性を担保する――ことにもある。それゆえ、「たとえ実際に秘密はなくても、それでも舞台裏とは、とにかく秘密があると信じられる」のだ。隠されるから秘密や神秘性がみいだされるのであって、その逆ではない。

 

このマキャーネルの6つの基準にしたがって見ると、くだんの枯れ草は観光客に見せるために演出された第一段階の表舞台であるということができる。むろん、ぼくたちはそんな当たり前のことを確認するためだけにマキャーネルを召喚したのではない。ぼくたちが考えねばならないのは、あの植え込みという空間自体がどの段階に属するかではなく、むしろ枯れた芝生が深緑に着色されていくきわめてスリリングな瞬間が一体どの段階に属するのか、という問題なのだ。

 

このことに着目すると、じつはこのマキャーネルの区分方法が片手落ちであったことに気付くことができる。つまり、この分類には、ある一つの場所がある時には表舞台になり、ある時には舞台裏になるという時間的変化への視点が完全に欠落していたのだ(※5)。 

 

これは至って簡単なことだが、重要な視点である。たとえば、閉園時間を迎えた遊園地を想像してみるとよい。閉園後のディズニーランドでは、おそらくメンテナンスやパフォーマンスの確認などが行われているだろう。そして、観光客はそれをみることができない。そのため、閉園後のディズニーランドに関しては往々にして荒唐無稽な都市伝説が語られることがある(※6)。それは、間違いなく、日中華やかな表舞台として機能していたディズニーランドが閉園とともに第六段階の舞台裏に転じたからにほかならない。そこが純粋な舞台裏である以上、秘密がなくても、秘密はあると信じられてしまうものなのだ。

 

また、さきほどメンテナンスといったが、その主要なものには清掃がある。清掃は普通、観光客に見せるためにするものではない。清掃とは、機能的に舞台裏に属するものだ。しかし、少し考えればわかるように、それは必ずしも単一の段階に属するわけではない。

 

遊園地で考えれば、それが行われているのが閉園後(第六段階)なのか、開園中(第五段階)なのかに分けることができる。つまり、開園中の園内の清掃とは、表舞台に一時的に登場した舞台裏(第五段階、見られても構わないもの)だということができる。そこでは、一つの場所に表舞台と舞台裏が同時に存在しているのだ。この表裏共存の状態は、観光対象の性質が空間/構造の差異のみならず、時間の差異にも依拠していることを表している。

 

開園中の清掃に関しても、ぼくたちはさらに分けることができるだろう。たとえば、よく知られているように、ディズニーランドでは園内の清掃さえパフォーマンスとして行われている。そこでは、清掃が見られてもよい(が、極力目につかないようにすみやかに遂行される)舞台裏ではなく、表舞台として見せるための舞台裏(第四段階)として存在している。つまり、この時清掃が機能的に表舞台となるのだ(あえて付け加えておくと、ぼくは別にディズニーランドが特別好きなわけでもないし、なんなら小学生のころ両親に連れていってもらったきりいっていない)。

 

遊園地とその清掃を簡単に見ていくなかで、ぼくたちは観光対象の表舞台‐舞台裏という性質が、単に空間的/構造的差異のみならず、時間的差異によっても決定され、なおかつ表裏の異なる段階に属する舞台が、ある種の時(空)間的偶然として共存しうることも確認した。冒頭でいった「深緑の枯れ草」を理解するには、およそこれで十分だろう。

あの芝生は観光客のまなざしを考慮してより草らしくされた草であり、いわば純粋な表舞台(第一段階)である。しかし、残念ながらぼくたちはそれらが深緑に塗りたくられた瞬間を目にすることはできない。なぜなら、その加工の過程は観光客には絶対に見られてはならない舞台裏(第六段階)であったからだ。それゆえ、塗装はおそらく人気のない深夜か早朝に行われたことだろう。

 

観光対象の表舞台‐舞台裏という区分が「ある場所で演出される社会的パフォーマンス」、つまり空間的/構造的な差異によってなされるとき、純粋な舞台裏(第六段階)はつねに観光客に対して閉ざされている。表舞台に立っているぼくたちが舞台裏をみることができないのは、そこにあるものが物理的に遮断/隠蔽されているからであり、ぼくたちは(実際にみていなくても)舞台裏があること自体は認識している。

 

一方で、一つの観光対象の表裏の区分が時間的差異に依拠している場合、ぼくたちが表舞台から純粋な舞台裏をみることができないのは、それが物理的に遮断/隠蔽されたからではなく、それが表舞台への転換と同時に消失してしまうからだ。換言すれば、表舞台‐舞台裏という性質が時間性によって決定されるとき、両者が純粋であればあるほど(つまり第一段階か第六段階に近いほど)、相互に消失し合うという特徴を持つのである。

 

もしかすると、読者の中には、そもそも観光対象はそんなに単純な状態で存在していないといって批判する人がいるかもしれない。たしかに、ふつう観光対象は空間的/構造的な表裏の舞台と時間的な表裏の舞台の両方の側面を持ち合わせているものだ(ホール、営業時間、バックヤード、キッチン……)。

 

しかし/だからこそ、ぼくはここで「深緑の枯れ草」に注目したい。というのも、ここには空間的舞台裏がほぼ存在しないことによって、純粋かつ高度に時間的な表裏の舞台の展開をみることができるからだ。芝生の植え込みという空間が時間性によって表舞台へと転換したのであって、そこに隠蔽すべき舞台裏などない。そこには、芝生しかないのだ。(あえて厳密にいえば、業者の倉庫がそれにあたるかもしれないが……)

 

枯れきった深緑の草ぐさを、ぼくらはどうみればよいのだろうか――それは、観光客へ向けられた華やかな(?)表舞台であり、同時にその時間性によって隠蔽すべき舞台裏を消去することによって、舞台の表裏を決定づける時間性という要素への気づきをもたらしてくれる場所なのである。

 

 

 

 

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ふ、ふむう……

 

 

註 

 

1:詳細は、たとえば松浦友久編『漢詩の事典』(大修館書店 1999年)605頁以下。また、ぼくがかつて編集人をつとめていた同人誌『乾文學』三月特別號に趙君という中国人留学生のエセーの翻訳とぼくの解題を掲載したことがある。見てくれるとぼくがたいへん喜ぶ。

 

2:春节假期热门景区客流爆棚,有游客在寒风中滞留三四个小时_中国政库_澎湃新闻-The Paper (2月8日閲覧)観光地が飽和状態になり、各地でトラブルが発生しており、事前に通知するなどの対策もうまく効果を発揮していない。予約数やチケットの販売量の管理などの対策を急ぐべき、という旨の記事。

 

3:アーヴィング・ゴフマン 石黒毅訳『行為と演技』(誠信書房 1974年)。

 

4:マキャーネル 安村克己訳『ザ・ツーリスト』(学文社 2012年)122頁以下。

 

5:マキャーネルは表舞台‐舞台裏という区分に対して「観光経験の理念的両極」(p122)と述べており、(広く読めば)この批判はあたらないという人がいるかもしれない。しかし、かれの分析に時間的差異への視点が欠落していたのは、第五段階の舞台裏として「キッチン、工場、船内」(p123)という空間的状況に続いて「交響楽団のリハーサル」という時間的状況を列挙していながら、じつはそれが唯一時間的な差異によることを明記しなかったことからも明白である。ここまでこの点にこだわる理由は、本文でいった通りこれが単純であり同時に重要な視点だからだ。(マキャーネルはその後に「ニュースの漏洩」も挙げているが、情報は単に空間的でも時間的でもないだけでなく、可視的でもあり不可視でもあるという至って不思議な性質の持ち主であり、今回の議論では処理しきれないのでここでは取り上げない。)

また、この問題は、この本の邦訳が「高度近代社会の構造分析」であるように、マキャーネルの方法が多分に構造主義的であることに起因するのだろうし、構造主義的な議論に対してもっと時間をみろというのは少し卑怯な気もする。とはいえ、表舞台‐舞台裏の区分に時間軸を導入するとよりよく整理できるのは間違いないし、なによりぼくたちは芝生について考えねばならない。ここで怯んでいるわけにはいかないのだ。

 

6:たとえば、閉園後のディズニーには怖い都市伝説が…秘密のイベントとは!? | これはヤバい!ジブリやディズニーの怖い都市伝説(2月8日閲覧)など参照。

 

 

そこには、虚構しかない。――小説的、没現実的な空間2

天安門へいった。

 

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天安門を知らないという方はおそらくいないと思うが、簡単に説明すると、天安門とは北京市の中心部に位置する城門で、かつては故宮(いわゆる紫禁城)の正門だった。ここの楼上で毛沢東中華人民共和国の建国宣言を行ったり、中国の国章に天安門が描かれたりするなど、いまや中国の象徴となっている。(ちなみに政府があるのは天安門の奥ではなく、ここの西側に隣接する中南海という場所だ。天安門の奥、かつての故宮には故宮博物院がある)

 

この有名な天安門広場だが、実際にここになにがあるかを知っている人は日本だと意外に少ないのではないだろうか。そこで実際に地図を見てみよう。

 

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天安門広場の地図。

画像:http://www.onegreen.net/maps/HTML/25816.html

 

これが天安門広場の略地図だ。地図だとあまり大きさが伝わらないかもしれないが、じつは南北880メートル、東西500メートルとかいう頭のおかしい規模を誇っている。なので、人民大会堂(中国の国会議事堂)から国家博物館(地図中では「革命博物館、歴史博物館」と表記されているが、いまは国家博物館という)まで歩いて移動するだけで結構疲れてしまう。

 人民英雄記念碑というのは、革命や戦争に殉じた「同志」たちをまつる無名戦士の墓(ベネディクト・アンダーソン的な)で、その南の毛沢東記念堂はその名の通り毛沢東をまつった建築で、毛沢東の遺体が安置され、一般公開されている。

 

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上から、国家博物館、人民大会堂、人民英雄記念碑、そして毛沢東記念堂。

 

さて、勘のよい方なら気づいたかもしれないが、先日記念館について熱く語ったぼくがここで天安門を取り上げた理由は、この広場にある国家博物館を紹介するためだ。天安門のあたりにある博物館といえば故宮博物院のほうが有名かもしれないが、じつはここにはもう1つ大きな博物館がある。故宮は有料だが、こちらはなんと無料で入れてしまう。たいへん素晴らしい。

 

例によって金属探知機を通り抜けてから入館する。この博物館は、建物内で北区と南区に分かれている上に全4階建てで地下1階もあるというたいへん巨大なつくりになっているので、そんなにじっくり見なくても、全てまわると5時間くらいかかってしまう。おまけに夕方4時半には閉まるので、ぼくは一度でまわり切れず、後日もう一度いかねばならなかった。

 展示は基本的に企画展示で、体裁も落ち着いており、まさしく論文的で典型的な博物館という印象を受ける。(詳しく書いていると終わらなくなるので省略するが……)今回重要なのはむしろ常設展のほうで、これは「古代中国」と「復興之道」の2か所に分かれている。前者は北京原人とかの話から清王朝までの歴史を博物館的な文化財の展示によって淡々とたどっていくものだが、清末から現代までをたどる後者は打って変わって、抗日戦争記念館を彷彿させる激しい展示を展開している。早い話が、北京原人まで遡って共産党政権へ歴史を接続し、その正統性を主張しようという魂胆なのだろう。

 

ぼくが「復興之道」を見たのはほかの全ての展示を見た後だったのだが、入ってすぐに「第一単元 天地開闢以来の大事変」と書いた大きなパネルがどどーんと目の前に現れたのにはさすがに面食らった。

 

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前々回の記事で見たように、抗日戦争記念館は「満州事変で日本軍の侵略を受け、われわれは国共合作して立ち上がったのだ」的な始まりを見せるのだが、こちらでは「帝国主義の列強の侵略を受け、マルクス主義に目覚めたわれわれは五四運動(北京から全国に広がった日本帝国主義反対運動)によって立ち上がり、団結して共産党を結成した」ということになっている。

 

この違いは、とりもなおさず「日本を倒したわれわれ中華民族」と「資本主義に打ち勝った共産主義のわれわれ」という、2つの国民国家の歴史的起源としての「われわれ」が多重人格的に共存していることを表している。

 つまり、戦争記念館であれば、日本を打倒したことが最も重要であるため、物語の始点、つまり「われわれ」が立ち上がったのは満州事変以後になっており、1945年9月3日の戦勝記念日(日本がポツダム宣言に署名したつぎの日)が決定的な日になっている。一方で、国家博物館の「復興之道」では、日本と中国の戦いよりも資本主義と共産主義の戦いに主眼が置かれており、「われわれ」が立ち上がったのは1919年の五四運動および1921年の共産党結成においてであり、最も決定的な日は1949年10月1日、つまり国共内戦に勝利して中華人民共和国が成立した日になっている。戦争は国民党との共闘であったため、戦争記念館ほどには大きく語られていない。こうした「われわれ」の分裂は中国だけでなく日本や韓国でもみられる(※7)ことであり、(素人ながらも)いまの外交関係(とりわけ東アジアの関係)を考える上でたいへん重要な問題であると思う。

 

少し話がそれてしまった。「復興之道」の展示に戻ろう。展示は前後半に分かれており、前半が列強の支配から共産党の成立、国民党との闘争、それから太平洋戦争までを描き、後半が国共内戦から中華人民共和国の成立を描き、経済成長を経ていまに至るという流れになっている。戦争記念館ではすっとばされていた戦争以後が語られていたが、悪名高い大躍進政策や、中国最大の内戦ともいわれるイデオロギー闘争である文化大革命は当然のように抜け落ちていた。例によって新しい絵画や銅像、モニュメントがあちこちに設置されており、中学生の団体も来ており(巨大な博物館のほかの展示室では一人も見かけなかった)、最後には期待通り感想を書くノートが設置されていた。

 

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展示の一例。

 

ここでみなさんは、きっと不思議に思われることだろう。なぜなら、かつて提示した小説的な記念館と論文的な博物館という見立てでは、国家博物館の「復興之道」を説明することができないからだ。ぼくたちは、ここでこの見立てを一度崩さなければならない。

 

とはいえ、少し考えると問題はそれほど複雑ではないことがわかる。もう一度天安門広場の地図を見てみよう。そこにあるのは人民大会堂と国家博物館、人民英雄記念碑、それから毛沢東記念堂などだった。現代をいきるぼくたちにとって、天安門広場といえばこうしたものが存在する象徴的なイメージが定着しているが、当然ながら、もともといまのような状態であったわけではない。

 下の写真は清の時代の天安門および広場を写したものだ。明や清の時代には、天安門は故宮の正門として機能しており、勅書の公開、科挙の合格者や裁判の結果などを発表する場所だった。広場はいまよりもずっと狭く、広場というより大きな丁字路といった方が適切かもしれない。当然、天安門に皇帝の肖像が掛けられるといったことはなかった。

 

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清の時代の天安門広場。奥にみえるのが天安門

画像:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4bad45ac0100a9bj.html

 

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 清朝期の天安門広場の地図。

画像:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4bad45ac0100a9bj.html

 

20世紀になると、天安門は北京を掌握した権力者によって利用されていく。かつては孫文蒋介石の肖像がここへ掛けられ、戦時中は日本軍が「建設大東亜新秩序」というスローガンを掲げたこともあった。また、スターリンの死に際して彼の肖像写真が掲げられたこともある。意外なことに、結構いろいろなことをやっているのだ。

 

天安門広場が現在のかたちになったのは中華人民共和国が成立した現代(※8)になってからで、1954年と1958年の二度に渡る天安門広場拡張計画によるものだ。1954年には丁字路の先にあった長安左/右門、中華門および丁字路の外側にあった役所や倉庫などの建築が撤去され、広場が拡張されたほか、人民英雄記念碑が建設された。

 1958年には建国十周年を翌年に控えたこともあり、さらに大規模な拡張計画が提案、実施される。この時、広場の総面積は44ヘクタールも増加し、東西に人民大会堂と中国革命博物館および中国歴史博物館(つまり、のちの国家博物館)が建設された。そして約20年後の1977年、毛沢東の死去に際して毛沢東記念堂が建設され、天安門広場はほぼ現在の形に至る。

 

もちろん、天安門自体がもともと政治の中心地に位置していたことは間違いないのだが、こうしてみてみると、中国の象徴として現在の地位を築き上げるのは随分最近になってからだということがわかる。

 つまり、毛沢東の肖像をはじめ、人民大会堂や国家博物館、人民英雄記念碑、それから毛沢東記念堂といった天安門広場にある象徴的なものは、全て中華人民共和国成立後に天安門(広場)を機能的/地理的な中心から象徴的な中心へと転換させるべく徐々に付加されていったものなのだ。(もちろん、この性質転換が可能だったのは、ここが五四運動の現場になるなどもともと象徴的な性質を帯びていたからでもあるのだが)

 

 大胆に換言すれば、現在の天安門広場は、共産党によって象徴性を塗りたくられた虚構の空間にほかならない(当然ながら、ぼくはここで虚構という言葉をうそ・まがいものという意味で使っていない。むしろ、物語的想像力に満ちた、という程度の意味で使っている。というのも、ぼくは国家にはそうした物語的想像力が必要だと思っているからだ――念のため)。

 したがって、天安門広場にある国家博物館は、博物館であるという前にまず天安門の意図的な象徴化の過程で生まれたことを念頭に置かねばならない。さきほどもいったように、共産党政権を歴史に接続し、正統性を主張することが、ここでは最も重要な目的だった。(そう考えると、国家博物館は王朝が交代するたびに国家事業として前の王朝の歴史書が書かれるというこの国の伝統の変相した形態だといえるかもしれない)いうなれば、国家博物館とは、論文的な博物館的空間に小説的な物語的想像力が介入した場所なのだ。

 

天安門広場との関係から見ることで、ぼくたちは国家博物館にある「復興之道」という異質な空間についてある程度明らかにすることができた。天安門広場には博物館がある。しかし、その周りは虚構=物語で満ちている。いや、それ自身もまた虚構を抱え込んでいる。

 

つまり、そこには、虚構しかないのだ。

 

最後に、もう一つ論点を付け加えよう。

ここまで見てきたように、「復興之道」の構造的異質性について理解するためには、たんに小説的記念館/論文的博物館という二分法で整理するだけでなく、天安門広場という場所との関係性の中で見る必要があった。

 とはいえ、たんにこの両者の関係だけを見てしまうと、どうしても「共産党のプロパガンダだ!」とか「中共の偏った歴史観だ!」みたいな世にも残念な話になってしまいがちである。しかし、ここまで話を進めてきたぼくたちは、この関係性から1つ興味深い考察を引き出すことができる。

 

盧溝橋と抗日戦争記念館の関係を思い出してみよう。そこからは、もともとあった盧溝橋(じつは、かのマルコ・ポーロも褒めたとかいう伝説もある由緒正しい橋だ)のそばに強い物語性を持った小説的な戦争記念館が建設されることによって、現実の橋が記念館の熱気に気圧されるかのように地味な空間に成り下がってしまう(こういってよければ現実が埋没してしまう)という状況を見て取ることができた。

 一方で、天安門は、共産党の歴史の中で幾度も虚構的な象徴を付与されることによって、論文的な構造をもつ博物館に小説的な要素が介入するという状況を生み出した。

 

つまり、一見どちらも「洗脳だ!」とか「共産党のプロパガンダだ!」とかいわれがちな戦争記念館と国家博物館の「復興之道」の展示だが、それが建築された空間およびその場所に流れた時間に着目すると、じつは全く正反対の構造および関係性を持っているのだ。

 

表面的には「共産党のプロパガンダ」かもしれないが、その裏には小説的/象徴的な空間と論文的/無‐象徴の空間とのきわめてスリリングな相克関係が展開されている(※9)。ぼくらは、単純な記念館/博物館という二分法に安住せずに、常に外側の空間および時間との相関関係によって展開される場としてこれらの展示に対峙しなければならない。

 

「悲憤慷慨」も「無限の反省」も、すべてはその先にある。 

 

 

 

 ****

 

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お酒がとうとうなくなってしまった。みんなからっぽだ。

ぐぬぬ~。酒のみて~。

 

 

註 

 

7:東浩紀「ダークツーリズム以後の世界」(東編『ゲンロン3』(ゲンロン、2016年)所収)24頁以下。なお、ここではドイツの思想家イマニュエル・カントの、国際関係論を構想するにあたり、国家をもつ民族はひとつの人格とみなしてよいという主張に対し、東氏は文学者の加藤典洋の『敗戦後論』(講談社、1997年)を引用しつつ、昨今の外交問題は、それぞれの国家が1つの人格を持つのではなく、むしろ人格分裂をおこしていることにあると述べている。その時、分裂の契機となるのは「戦争や虐殺」といった大きな傷であって、それが言説の場を歪めるのだという。(たとえば日本は敗戦という傷を抱え、韓国は植民地支配と朝鮮戦争という傷を負っている)

そうであるならば、国家博物館の「復興之道」と抗日戦争記念館の展示は、とりもなおさず中華人民共和国が列強による国土分割と、日本の侵攻という2つの傷を抱えていることを示している。また、中国に関する問題をさらに複雑にさせているのは、この国が文化大革命という第三の傷を抱えているためだといえるのかもしれない。政府は公式見解で文革を完全否定しており、いまなお多くが謎に包まれたままになっている。しかし、改革開放以降、経済の民主化グローバル化が進んだ80年代以後の人は、多くの面においてそれ以前の人々とは全く異なる価値観を有しているとされており、ここにも「われわれ」が再定義されるような断絶を見て取ることができるのかもしれない。なお、80年代以降台頭してきた「中産階級」の実態を掴むにはジャーナリストのふるまいよしこ『中国メディア戦争――ネット・中産階級・巨大企業』(NHK出版、2016年)などが参考になる。

 

8:中国では、近代や現代という時代区分を表す言葉が日本と全く異なる射程をもっている。一般的に、日本では1878年明治維新(あるいは1853年の黒船来航)から1945年の敗戦までを近代と呼び、それ以降を現代と呼んでいるが、中国では多くの場合、1840年アヘン戦争から1919年の五四運動までを近代と呼び、それから1949年の中華人民共和国成立(これ以降の体制を中国では「新中国」と呼んでいる)までを現代と呼び、それ以降は当代と呼んで区分している。(それゆえ、たとえば批評家の柄谷行人の『日本近代文学の起源』は『日本現代文学之起源』と翻訳されている)しばしば、中国人にとって近代という言葉の意味が日本人のそれと一致しないのは、かれらにとって近代が不名誉で触れたくない時代であったからだという人がいるが、たとえその感情が本当であったとしても、むしろ、たんに時代区分の意識の差にあると考えるべきだろう。

また、この時代区分の差異は、中国(人)にとって終戦が日本(人)ほどの断絶を意味していないことを表している。もしかすると、読者のなかにはこのことを意外に思う方がいるかもしれない。しかし、それは日本にとってアヘン戦争や五四運動が大した断絶として存在していないことを考慮すれば至極当然のことのように思われる。もちろん、この時代区分を生む断絶の違いは、少なからず注七における「人格分裂をおこす傷」の問題と関連している。

 

9:とはいえ、読者のなかには、国立の歴史博物館とは得てしてそういうものだと考える方がいるだろう。それに、そもそも歴史を語るという行為そのものに選択と価値判断という批評性が存在している以上、歴史を扱う博物館と記念館の差異を語ることは無意味なのかもしれない。しかし、ぼくはそれでもなお(少なくとも中国においては)博物館と記念館との構造的な差異にこだわるべきだと考える。なぜなら、たんに中国の記念館と博物館はあまりにも様相が異なっている上に、本文でもいった通り、こうした展示施設は、構造的に区別することによって初めてそれらが存在する空間およびそこに流れた時間との関係性において把握できるようになるからだ。

交換留学の本質

日本では(新暦では)もう年の瀬だが、中国で年越しといえばもっぱら春節(旧暦の正月)を指すので、あと2日で2017年を迎えるというのに、年越しの雰囲気が一切感じられない。おまけに春節ひと月前のこの時期は、ちょうど試験の時期に当たっているのでたいへん忙しい。とはいえ、ぼく自身は試験も課題もとりあえず一段落ついたので、せっかくだからなにか書いてみようと思う。

 

ほんとうは先日天安門広場にある国家博物館へ2日間ほどかけていってきたので、それをもとに前回の論考の続きを書きたかったのだけど、天安門に関する文献が上手く集められそうにないので――日本から送ると、きっと税関に引っかかるだろう!――今回は仕方なく、折り返しを迎えた/迎えてしまった交換留学についてあれこれいってみることにする。

 

留学にいった/いっている人、あるいは留学生と関わりのあるひとはすでに知っているだろうが、大学院生を除けば、留学には大きく分けて4つの種類がある。語学留学、交換留学、ダブルディグリー(Double degree、双学位、以下DD)、それから正規の学部生(本科生)として入学するものだ。(大学以外の研究機関に所属するものもあるが、ここではそれは考えない)

 

語学留学は、いうまでもなく現地の語学学校や、大学にある語学教育センターに通うもので、たとえば早稲田には日本語教育センターがあり、北京大学にも対外漢語学院というものがある。語学留学へいくと、こういったところで専門的な語学教育をうけることになる。

 

交換留学も、わりと一般的だと思う。留学先の大学で「現地の学生」と一緒に授業へ出る。当然同じ課題をこなし、同じ試験をうける。大学とかでいやというほど目にする「ぼく/わたしめっちゃがんばった!」系の留学体験記は、だいたいこうした語学面でのハンデに由来する。さほど習熟していない外国語で臨むのだからそんなのは当然だろう。なんならぼくもたいへんだった。

 

DDというのは、聞きなれない人もいるかもしれないが、簡単にいうと留学先の大学の学位も取れてしまうプログラムのことだ。これは大抵それぞれの大学同士が提携して行っているもので、たとえば早稲田は北京大学と提携しており、同学の国際関係学院へ1年留学して(上手くいけば)学位ももらえるようなプログラムを用意している。逆もあるのかもしれないが、文学部のぼくの身の回りには、北京大学からDDで早稲田に来た人はあまりいない。

また、これの大きな特徴はカリキュラムがとても過密していることと、選択できる授業の種類に限りがあることだ。それこそ早稲田のDDだと、日本で何を学んでいようと北京大学ではだいたい国際関係の授業しか取れないようだ。(もちろん、それに関心があればたいへん魅力的なのは間違いない)

 

それから正規の学部生として来るもの、これは留学(生)に関係なければ意外と知らない人も多いかもしれない。しかし、いまぼくが主に出入りしている北京大学の中文では、交換留学生よりも正規の学部生の方が圧倒的に多い。実際、交換留学生の友人は数えるほどしかいないが、学部生の友人はすでに結構できた。日本にいたときから感じていたが、学部生として来ている彼ら/彼女らは(なかんずく語学に関しては)かなり強い。それだけ学習歴も長かったりするのだが、もうとにかくすごい。

 

さて、こうして簡単に4種類の留学形態を整理してみたわけだが、こうやって見ると、わりとそれぞれタイプが異なっていることに気付くことができる。そこで、それぞれの留学形態に関して、相互に代替不可能なもの――つまり、そのプログラムにしかないこと/もの――をかりに本質と考えるなら、語学留学の本質は、当然ながら専門的な語学教育だといえる。むろん、DDの本質は学位だろう。

 

ならば、交換留学の本質とはなにか。

 

かつて読んできた交換留学生の体験記には、だいたい「勉強めっちゃがんばった!」「友達めっちゃできた!」「視野が広くなった!」「いろんなこと深く考えた!」などと書いてあって、おおかた「だから、留学最高!」といった感じで締められていた。それは間違いなくたいへん素晴らしい経験だし、だから、留学は最高なのかもしれない。

 

しかし、ここで重要なのは、それは交換留学の本質では全くないということだ。なぜなら、勉強も海外の友達も「広い視野」も「深い考え」も、全て他の留学形態(あるいは海外インターンなど)で代替可能だからだ。もっといえば、本当にそれらが目的なら、交換留学なんかせずに学部生として4年間在籍したほうが明らかによいに決まっている。現に、北京で知り合った学部の留学生の中には、ぼくと同い年やそれ以上で1年生をやっている人がしばしばいる。

 

「DDじゃ北京大学で文学できないし」と考えて交換留学を選んだぼくは、いま、その考えが少なからず甘かったかもしれないと考え始めるようになった。身も蓋もないことをいえば、本当に北京大学で文学を学ぶことが目的だったのなら、ぼくはさっさと早稲田を退学して試験勉強をし、北京大学の学部の留学生の試験を受けるべきだったのだ。中国の大学なら、早稲田の1年分の学費でゆうに修士くらいまでいける。とはいえ、やっぱりそうはできないというのも本心だし、たぶん帰国したらまた日本で勉強するのだと思う。

 

交換留学の本質とはなにか。そこでは、べつに専門的な語学の教育を受けられるわけでもないし(たぶん、北京大学の対外漢語学院にはぼくよりも中国語の上手な学生だっているだろう)、学位が手に入るわけでもない。その上、本質を追求しようとすれば学部の留学生という上位互換的な存在にぶち当たってしまう。つまり、交換留学生とは目的も本質もなんだかよくわからないきわめて宙吊りの存在なのだ。

(誤解を招かないように急いで付け加えておくと、ここで目的がないというのは、決して個人単位で目標や目的がないといいたいわけではない。たとえどういうものであれ――それこそ「なんとなく」とかであっても!――だれかしら交換留学に目標や目的を持っているはずだ。ただ、ここでいいたいのは、そうしたものはだいたい学部生として入ることによってより望ましい形で達成されるということだ)

 

また、そうであるならば、「海外の大学へ(語学留学やDDでなく)交換留学にいって、キャンパスライフを堪能したい!」という感情は、とりもなおさず「海外の大学へいってみたいけど、でも自国の拠点を捨ててまで4年間学部生やるのはイヤだ/できない」という欲望の裏返しでしかないといえるだろう。

 

いうなれば、交換留学生とは、目的も「本質」もなんだかよく分からない宙吊りの経験であり、同時に海外を志向しつつもやはり自国の拠点(≒大学)は捨てきれないというこの奇妙な両義性を持ち合わせた存在にほかならない。いや、逆にいえば、この宙吊りの感覚や奇妙な両義性こそが交換留学の本質なのだ。これが、折り返しを迎えたぼくが暫定的にたどり着いた結論だ。

 

むろん、ほかならぬぼくもまたその1人なので、これを批判するつもりは全くない。ただ、交換留学とはそもそもそういうものなのだということ、ぼくたちはここに自覚的になることから始めなければならないのではないか。だから、この宙吊りの感覚や奇妙な両義性に盲目を決め込んだまま、したり顔で語られる「充実した」交換留学の「体験記」は、たとえどれだけ興味深くて「ためになった」としても、ぼくにとってはあまりにも無邪気に見えるし、それゆえにたまらなくつまらないのだ。

 

では、この奇妙な本質に自覚的になったとして、そこからぼくたちはなにを得られるのだろうか。勉強も、海外の友達も、「広い視野」も、それから「深い考え」も、みんなこの本質の先にある。だから、それも一方では正しい。だが、これを踏まえた上で、あえて交換留学だからこそできることを考えるなら、それは想像力、つまり多世界解釈的に発散する可能世界への想像力をはりめぐらせることだと思う。

 

交換留学生は両義的である。ぼくらは海外で現地の学部生みたいなことを1年ないしは半年だけして帰ってくる。ぼくは幾度となく自分が学部生だったら、そしてこれがあと3年続くなら……と考えた。一方で、帰ったら卒論どうしようとか考えてもいる。その時はじめて、ぼくは日本での学生生活を中心にしていまの経験をとらえているのだと気づいた。

 

交換留学生は宙吊りである。ぼくらはDDの留学生のように、プログラムから必然的に導かれた大学や授業へいっているわけではない。ぼくには、文学に志した交換留学生として、上海の復旦大学や台湾の国立台湾大学のようなほかの有名な大学や、都心から遠く離れた静かな大学で学ぶという選択肢があった。ぼくはしばしば自分が北京大学ではなく、そうしたほかの大学へ文学を学びにいっていたら……と考えた。一方で、友人を前に北京大学へきてよかったなどと考えたりもしている。時々、なんだか自分でもよくわからなくなる。

 

「あの時こうしていれば、きっとこうだったかもしれない」という可能世界的な過去/現在の蓄積は、一刻一刻が偶然性に満ちている(ことに自覚的である)からこそ意識にのぼるものだ。高度に宙吊りな日々がぼくらにもたらすのは、かつてなく多方向に分岐した可能世界への想像力であり、それは奇妙な両義性によって強化されるだけでなく、おそらくこれからの留学生活――そして日本へ帰ったあとの生活――にも実感を伴って作用するだろう。ぼくはそれを(たとえば「亡霊」などではなく)あえて豊かさとよびたい。

 

学位も言語教育もないし、学部生ほどの徹底もない。しかし/だからこそ、より想像力をはたらかせ、それによってより豊かに生きられると思う/思っていたいこと。交換留学の本質とは、意外とそんなものなのかもしれない。

小説的、没現実的な空間

盧溝橋にいった。

いうまでもなく、ここは1937年7月7日に日中戦争(こっちでは抗日戦争という)の契機となった盧溝橋事件(こっちでは七・七事変という。日付を明記したのはそれゆえでもある)が起こった場所で、北京の西南の郊外にある。北西のやや外れに位置する北京大学からは結構遠くて、地下鉄を二度乗り換えて、最寄り駅からさらに三十分余り歩かないといけない(一応バスはある)。下の写真、上の丸が大学で、下の丸が盧溝橋の位置だ。

 

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わざわざここへ来たのは、別にさきの大戦について、あるいは平和について深く考えるためとかそういうまじめな理由ではない。むろん、そういう思いもないではないが、どっちかというと、以前紅色旅遊(中国共産党が推進するプロパガンダ観光、レッドツーリズムとも呼ばれる)についてちょっと勉強したことがあったので、せっかくだし留学中に見にいってみようくらいの気持ちだった。それに、ここには中国抗日戦争記念館(以下戦争記念館)という、そこそこ有名な記念館もあったので、ついでに見てみようと考えたわけだ。

 

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※画質が絶望的に悪いのは、中国で使用するために購入した携帯が、かなり安物(五千円くらい)だからだ。僕はただ、無音で写真を撮れるという一点においてこれを使用している。以後、ご了承いただきたい。

 

地理的な理由から、先に記念館へいった。記念館の前には、この謎のモニュメントと中国の国旗が立っているやけにだだっ広い広場があって、そこから記念館へいくためには、検問所風のゲートに設置された金属探知機をくぐってゆかねばならない。これは天安門広場国立博物館、それから中国美術館なども同様で、たしか上海の東方明珠というテレビ塔もそうだった。二年前に上海で初めて見たときはさすがに結構面食らったが、だいたいこれに引っかかっても警備員はなにもいわないか、せいぜい「ライターは持ってないか?」とか聞いてくるだけで、これも「ないよ」と一言いえば通れてしまう。だから今回も、携帯、時計にベルトまで全装備のままずんずん突入した。警備員のお姉さんはにこにこしていた。僕もにこにこした。

 

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ようやく玄関へたどり着くと、中から中学生たちがぞろぞろ出てきて記念写真を撮り始めた。こういう政府公認の観光スポット(紅色景点という)には、学生や会社などの団体訪問が多いらしい。彼らもその一つなのだろう。

 

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中へ入ると、いきなりめっちゃ強そうな金のおじさんたちが聳え立っていた。写真じゃ伝わりづらいが、かなり大きい。一応、玄関に撮影禁止のシールが貼られていたのだが、観光客たちは気にせず写真を撮っていたし、警備員も咎める様子がなかったので、僕も遠慮なく撮りまくった。ここだけでなく、全体的に中国はこうした場所での撮影にかなり寛容である。これは、とてもよいと思う。

 

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これが展示場の地図で、入口左側、「偉大なる勝利、歴史への貢献」と書かれた壁の両脇を通って、時計回りに八つの章に分けられた展示室を見ていくことになる。全体的な流れを簡単にいうと、満州事変や日中戦争の緒戦によって「民族危急(一章)」に陥ったが、「国共合作(二章)」によって「抗戦(三章)」し、「日本軍の惨絶な暴行(四章)」にも屈せず戦い(五章)、「国際的な支援(六章)」の助けもあって中国は「歴史的勝利(七章)」を収めた。これからは「未来を向いて(八章)」平和のために歩んでいこう、とこういう内容だ。

 

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展示物は当時の新聞や写真、武器などがある一方で、絵画や銅像、蝋人形まである。

 

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あと、このように至る所にテクストと写真つきのパネルが展示されている。むろん、全てのテクストをじっくり読んだりはしないが、一周まわるとなるとかなりの分量になる。さしずめ、立体的(VR的!?)な教科書といったところだろうか。

 

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そしてこれが割と有名なガラスの床のコーナーだ。かつての日本軍が使用していた武器や日本の国旗が床の下に配置されていて、先へ進もうとしたら、必ずこれらを踏んでいかねばならない。とはいえ国旗に関しては、別にそんなに何枚もないので、わざわざ踏んでいかなくても通れるのだが、やはりみんな律儀に国旗の上を通っていく。かつて写真では見たことあったが、やはり生で見ると中々に気味が悪かった。

 

僕がここへ来たとき、ちょうど団体訪問の軍人と思しき二十人弱のやたらと屈強な男たちが後ろからぞろぞろやって来て、僕は激流に落ちた枯れ葉のごとくあえなく呑み込まれてしまった。彼らは国旗に書いてあった文字(たしか神州がどうのこうのと書いてあった)を指しながら「日本人はヘンな漢字の使い方をするなあ」とかいって、みんなで国旗を踏みながら写真を撮っていた。さっきの写真は彼らが去っていった後に撮ったものだ。

 

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これはガラスの床よりも前にある南京事件のコーナーで、間違いなくこの戦争記念館の中で一番生々しくて、痛々しい。なんだかんだいって他の所だと、リアルを通り越して不気味な蝋人形や、かなり威勢のいい音声ガイドたちが最低限度の滑稽さを担保してくれるのだが、ここにはそんなものはない。ここだけ写真も異質だし、なんといってもされこうべが異常な存在感を放っている。その上、この一角だけ写真パネルや展示物が観覧者を取り囲むような設計になっているので、僕たちは否応なしにあらゆる方向から惨状と暴力に対峙しなければならない。

 

さて、南京事件に関していうと、中国と日本の間、それから日本の中だけでもかなり論争が起きているのは多くの人が知る通りだ。写真にある「殉難した同胞300000人」という言葉に関してもいろんな人がいろんなことをいっている。別にそれに関してあれこれいうのが僕の目的ではないので、ここではこれ以上なにもいわないけど、たとえば南京事件のこうした一角について、あるいは戦争記念館の他の展示に関して、「それは歴史的事実ではない!」とか「洗脳だ!」などと批判する人はきっといることだろうと思う。

 

残念ながら、僕には全てのことが「歴史的事実」かそうでないかを明確に判じることはできない。ただ、一つだけ明らかなことは、そもそもここの展示内容が客観性を担保された事実である必要など全くないということだ。なぜなら、ここは博物館ではなく記念館なのだから。

 

「体系的な分類/逸話的な総合」という二分法によって韓国の戦争記念館を分析してみせた美術家で映画監督のパク・チャンキョンは、記念することとは「記憶の再構成」にほかならず、そこでは「記憶する個人の関心、慣習、状態のみならず、記憶する集団の明確な政治目的や、そこで好まれる文化など」が介入すると述べた。同時に、記憶とは「いつもそれ自体を信憑性のあるものとみなさなければならない」ものであるがゆえに、「戦争記念館は戦争をフィクションとして再構成するという点を(意図するとせざるとにかかわらず)最大限隠蔽しなければならない」のだといった(※1)。

 

これは、逆にいえば、戦争記念館が(文物や写真を多量に配置するというまことらしい演出によって)隠蔽しているものは、そこが戦争をフィクションとして再構成する場にほかならないという事実である。戦争記念館には、客観的な事実やバランスの取れた歴史観などはそもそも必要とされていない。それが要請されるのは、まさに博物館においてである。大胆に換言すれば、記念館とは小説的であり、博物館は論文的である(※2)。

 

したがって、中国の戦争記念館に対して「それは事実ではない!」などといさんでみても意味はない。それは、司馬遼太郎の小説に対して「史実と異なるじゃないか!」などと憤慨するのが無駄なことと同じで、つまり記念館とは、そもそもそういう場所――つまり、記憶する集団の目的や文化、あるいは記憶させる人の意図によって、共同体に身を置く人々の記憶を再構成させる場所――であると認識するところから始めなければならない。(当然、最大限にまことらしさを保証しようとする限りにおいて、という留保付きではあるが。)

 

また、小説的な記念館と論文的な博物館という構図を念頭に置けば、わりと興味深い点に気付くことができる。すなわち、この戦争記念館や南京にある南京大虐殺記念館、それから延安にある革命記念館など、中国共産党に関する主張の強めな展示館は、得てして記念館と名付けられている。たとえば、下の写真は戦争記念館の最後の部屋に掲示されているものだが、毛沢東と鄧小平の間にいるはずの華国鋒がちゃっかり消されていたり、なぜか胡錦濤とか習近平とかまで並んでいたりする。ここまで来れば、この記念館が教科書というより小説という方が適切であったと気付くことができる(皮肉的にいえば、教科書的という言葉もまわりまわって正しかったりもする)。

 

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もちろん、中国に記念館しかないわけではない。北京だけでも、オリンピックの主要会場(つまり鳥の巣)の近くに中国体育博物館があるし、他にも石刻芸術博物館や汽車(=自動車)博物館など、いくつも博物館がある。どれも記念館とはいっていない。してみれば、彼らはある種の思想性の有無によって記念館と博物館という呼称を明確に峻別しているのだともいえるだろう。

そうであるならば、戦争記念館の展示に対して「お前は歴史を分かっていない!」風の批判をすることは、単に的外れであるのみならず、こういってよければルール違反ですらある。僕たちは感情的になる前に、一度わざわざ記念館と名付けられている意味を落ち着いて考える必要があるだろう。

 

もう一度いうが、記念館は小説的である。そこで語られているのは、記憶を再構成するための物語であり虚構なのであって、そもそも客観的な事実たらんとしているものではない。そして、僕たちは、それを無条件に批判することはできない。なぜなら、博物館と記念館は互いに全く異なるルールのもとに作られており、そうした批判は基本的に博物館のルールに属するものだからだ(※3)。

 

戦争記念館の話を終える前に一つだけ論点を追加しておくと、優れた物語とは、常に語り手を再生産するものである。面白い話や、ひどいが印象に残る話を聞けば、また誰かにいいたくなる。また、批評などは再生産の典型だろう。拙い話は大方無視されるか忘れられるのが関の山である。

どうしてこういうことをいうかというと、僕が戦争記念館で見たのは、ほかでもなく語り手が再生産されていく瞬間だったからだ。(誤解を招かないように補足しておくと、僕は物語の優劣は、主観的な善悪とは完全に独立して存在すると考えている。なぜなら、優れているが悪である物語や、正しいのだが拙い物語は、残念なことに世の中に数多に存在するからだ。)

 

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※上半分は名前、年齢、所属に電話番号など個人情報満載だったので意図的にカットしている。

 

全ての展示室をまわった後で、僕たちは二冊のノートの前に到着する。感想を書けということなのだが、適当にめくってみると、なかなかに凄いことが書かれてある。

おそらくさっきの中学生たちが書いたものであろう。写真右側の書き込みは十四歳の少女によるもので「まさに抗日戦争のような災禍による圧迫によって、中国は立ち上がり、中国人の思想は進化した。歴史を心に刻み込み、国の恥を忘れてはならない。(判読不能)先人たちの白骨と鮮血によって素晴らしい未来への道が切り開かれたのである云々」などという意味だが、(言語の違いはあるにせよ)十四歳の少女が「先人の白骨と鮮血」とか書いているのを見るとさすがにはっとしてしまう。

 

ただでさえ展示を見終わったばっかりでだいぶ気が滅入っていたというのに、ここでまた、玄関ですれ違い、入口で無邪気にピースしながら集合写真を撮っていた彼らのうち一定数の子たちがこうして新たな語り手として再生産されていくのかあと考えると、もはや気が滅入るどころの騒ぎではない。それに、こうして文章を書いてしまった僕もまた、戦争記念館の物語の持つ再生産の力に支配されてしまったのだといえるだろう。つくづく、僕たちは重過ぎる遺産を背負ってしまったものだと思う。

 

とはいえ、僕の身の回りの中国人はみんないい人たちばっかりだし、なんならかつて上海の料亭で、突然とあるおじいさんにさきの戦争に関して小一時間しかられたこともあったが、半分以上なにいってるか分からなかったけど頑張って合いの手入れてたら「よしよし、お前は話の分かるやつじゃ」的な感じで謎に褒められて、それから妙に良くしてもらったこともあったので、(政府・国家のレベルではなく)個人的なレベルでは割合楽観的ではある。結局なんとかうまくやっていくしかない。投げやりなのではなく、本当にそうだと思う。

 

そして、話はようやく盧溝橋へとたどり着く。長かった。でも、冒頭に「盧溝橋へいった」と書いた通り、もともと僕がいこうと思っていたのは盧溝橋であり、戦争記念館はあくまでついでにいこうと思っていたに過ぎなかった。

 

 

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 盧溝橋と

 

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 欄干の獅子

 

戦争記念館の物語の力強さ(それは必ずしも善であるとは限らない――念のため)、人の多さに比べて、実際に戦いが行われたはずの盧溝橋はあまりにひっそり閑としていた。石碑がいくつか立っていたけど、ほとんどが全長はいくらで、いつの時代に建設/修繕されたというような退屈な情報ばかりだった。橋を渡ったところには、橋の欄干に象ってある獅子のフィギュアを売っているお店があったが、誰も立ち寄る気配がなかった。おまけにここで釣りをするなとかいう趣味のかけらもない看板が貼ってあるし、オリジナルである橋の欄干の獅子たちも、みんなどこかしら欠けていた。

 

なんだ、意外に普通じゃないか。本来、観光地とはそういうちょっとした失望感が伴うものなのかもしれない。でも、戦争記念館の熱気や人の多さに比べて、そこから徒歩五分程度の盧溝橋がかくも露骨にさびれ、風化していたのはなんだか寂しかったし、写真で分かる通り、その日は天気がすこぶる悪かったので、それも相まって随分どんよりとしてしまった。

 

名所や旧跡に博物館や記念館が併設されている例は珍しくないが、普通、観光地は総じて盧溝橋とは逆の経験をもたらすものである。僕たちは、名所や旧跡にいくと、だいたい「わあ、ほんものだあ」とひとしきり感動したり写真を撮ったりした後、その足で近くに建てられている小さな博物館や記念館にいく。

そこでは、よっぽど関心がない限り、僕たちは足早に一周し、出口の近くで必要に応じてお土産を買い、そしてすぐに次の観光地へ向かう。たとえちょっとした失望感を伴っていても、観光とはやはりその場所にいくことが重要なのであり、多くの場合近くの記念館はついでにすぎない。

 

中国共産党の紅色旅遊というプロパガンダ観光の政策によって大いに注目されている一連の観光地の中には、こうした強い物語を持つ記念館が併設されているものがわりとよくある。これはこれで、小説的な想像力によって訪れる人の記憶を再構成し、語り手を再生産するという点で非常に大きな役割を果たしてはいるのだが、一方でそうした記念館は、その物語の力強さゆえに、しばしば本来ある観光地と記念館の力関係を逆転させてしまう――いやもっといえば、物語の過度の充実のために現実そのものを埋没させてしまう――のではないだろうか。僕たちは、こうした特殊な記念館の特性を、ひとまず仮に「小説的想像力」それから「物語による没現実性」と名付けておくことにしよう。(今後またこの手の観光地にいくかもしれないので……)

 

当然、これは僕の無責任な思いつきに過ぎないのだが、それにしても現実の盧溝橋の埋没具合は異様だった。実際そこには、あの時僕を取り囲んだ屈強な軍人たちもいなければ、こどもたちがたくさん歩いていたわけでもなかった。

 

そこにいたのは、ただ数人の行人と犬を連れたおじいさんだけだったし、もちろん、誰も自撮り棒なんか持っていなかった。

 

 

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先日、清華大学の近くにある萬聖書園という本屋さんにいってみた。

本の種類はまあまあで、社会学とか西洋の思想や文学がやや多めだった。

中に一匹ねこがいた。だからいい店だと思った。

 

 

1:パク・チャンキョン「鏡と沼、分断表象のメディアと芸術」(東浩紀編『ゲンロン3』ゲンロン、二〇一六年所収)六十頁。

 

2:ありうべき反論に対して予め何点か補足しておくと、小説的/論文的という見立ては、展示内容の真偽に対してではなく、むしろ構造的な次元(つまり展示の体裁)において機能しており、同時に受け手のメンタリティーに関する形容として用いられている。事実を淡々と展示する記念館があれば、誤りや嘘が書いてある博物館も(あってはならないが)あるかもしれない。しかし、それは誤りや嘘が書いてある論文が(あってはならないが)あり、ノンフィクション同然の小説があるのと同様で、内容の真偽はともかくとして、論文はその体裁において常に厳密な精確性を要請されるのに対して、小説は常に虚構として存在している。もう一度いうが、記念館の展示に事実ではないといって憤慨するのは、小説に対して体裁が論文的でないといって怒るようなもので、的外れ以外のなにものでもない。

 

3:一応付け加えておくと、僕は記念館の虚構を感情的に受け入れられないこと自体はなんら悪いことだとは思わない。共同体に属する者であっても感じ方はそれぞれだし、ましてや外部者などそもそも記憶の再構成の対象ですらないのだから、感情的に受け入れられないこと自体は当然である。問題はむしろ、それをそうといわずに、下手に「やつらは事実を捻じ曲げている」とかいってしたり顔で批判してしまうその精神的傾向にある。