暁命堂雑記

ときどき書きます。

和敬風呂縁起

 

 無論、この小説は虚構である。虚構であるが、私の実体験に根差している事は言うまでもない。混雑した和敬塾の共同風呂の有様は、大方この小説に有る通りである。寮生など、利用した事があれば大体共感頂けると思う。

 

 私は自身の傾向として、余り滑稽に走る事はない。尊敬する知己の草原君や、哲学者青木氏、好男子で東大生の中村氏、東京大学社会学那須氏、実業家を目指している森上氏などとは、屡私の身に合わない位高尚な話などする。自身の日記ではそれなりに身辺の事を真面目に叙述してみたりなどする。

 

 然し、私は自分をそれ程良くできた人間だとは思わないし、真面目だとも思った事はない。けれども、相対的に見て、私は多分に欲情の淡泊な性分であるとは思う。丁度金井、古賀、兒島三氏の「三角同盟」の如くである。従って、お風呂で聞く他寮生の傲慢で欲深い言説に辟易する事も屡有る。大胆に言えば、唾棄すべき鬼畜の様に思われる事さえある。一方では、彼らを斯様に斬り捨てるには、私は余りに未熟にして高尚ならず、欠点の多い人物であるという事も自覚している。その自覚故か、日頃日記や詩文を以て感動を自然に純粋に、さも趣深げに叙述しようとする一方で、感動や経験を多少歪曲して述べたくなる事がある。この小説内にあって笑われないのは虎君だけであろう。「余」は傲慢にもお風呂のあらゆる人物をからかっているが、畢竟「余」も、其の完璧ならざる傲りを読者に笑われるのである。(否、是非とも笑って欲しいです。)

 

 目に映るものを悉く滑稽の大壺にぶちこみたい。そんな思いからできたのが、『浮世風呂』と『吾輩は猫である』とを混ぜて半分に割り、シャワーのお湯で薄めたようなこの拙文なのである。

和敬風呂

 

 

 

 脱衣所の重い扉をぎいと押す。余は、この瞬間必ず男臭は汗臭と殊なる事を実感する。入口附近の棚から皓白たる敷物を取りて湿つた床に置く。這裏に散乱する白布は明らかに菌床と化している。余は潔癖では無いが、風呂上がりの玉の如き足を之れに委ねるのには流石に閉口して了う。脱衣所には大きな窓が二つ許存在する。今は何れも全開で、外から丸見えの状態となつてゐる。しかしここは男子寮である。裸体の一つや二つ等は物の数ではない。窓の外では猫の虎君が香箱を作ってゐる。余は彼に一瞥をくれつつ脱衣する。風呂の入り口には他寮[i]の者共が列を為してゐる。無論全裸である。彼らが別段美しくもない肉道を作るのは、年長者を先に通さんが為である。この男子寮では、だうも年長者が過度に威張り散らしてたまらぬ。余は獨り風呂へ来たものだから、当然入る順序等は不問である。肉道を驀地に突破する。

 風呂へ入る。室内は意に反して混雑してをり、瀑布の如き騒騒しさである。席は辛うじて空いてゐる。余は榻を丁重に洗い、尻を預ける。無思考に湯を出した所、水温が馬鹿に高い。見ると四五度を超えてゐる。屹度、先の使用者は心頭を滅却し得た道心者に違いない。赴粥飯法を奉じ、食堂に五観文を掲示する和敬塾である。風呂で修業を行う者がゐても不思議はない。

 余は石鹸に手をかけた。頭髪を清めつつ、弓手に坐す男をちらと見る。この男、先程から孜孜として獨り隠し處のみを洗つてゐる。目は琅玕の如く光熙を放つてゐる。些か薄気味悪いが、余程大事なのだらう。その更に隣には、先程の肉道達と年長者とが喧囂として話してゐる。「先日銀座の倶楽部にゐる色に会いに徃つて來たんだが、だうも女つてえのは金がかかつて仕方ねえ。女二人のおかげで、一晩でざっと十五万が邯鄲の夢枕さ。おまけに酒代も嵩むから、たまつたもんぢやあない。辰五郎も吃驚だぜ。」等と云ふのは年長者、態度も下腹も立派なものだ。隣の肉道共はただただ、へえへえ言つてゐるのみである。

 彼らのみならず、風呂の騒擾を作り出すのは大方この手の物語である。謂はば、酒池肉林を以て喜見城と為す類のものである。だうやら、洗ふが如き赤貧を伴とする窮措大は、最早常にあらざるやうだ。学徒とて、今日では富を得れば相応に乱れるものである。実際、大学の存在意義は近代のそれから可なり離れてゐる。二六時中学問に励みては、葦編三絶を常とし、十年一弧裘の清貧に甘んじては、質実剛健を旨とするやうな豪傑はをさをさ現れない。学徒にあつて学問は必ずしも絶対的価値を有しない。いみじくもそれを顕著に表すのが、肉道共と年長者との会話なのかも知れない。

 弓手の男は相変わらず隠し處を磨き続けてゐる。眼光は矢張り煌煌としてゐる。それはさて置き、その奥には二人組の男――だうやら先輩と後輩とのやうだ――が何やら物語してゐる。和敬塾の新歓に関するやうだ。

 

「しかし先輩、大声と云ふのは一体全体どうしてあるのでせう。」

「マア、あれだ、和敬のアイデンテヽエみてえなもんだ。」

「アイデンテヽエですか……六つかしいですナア。」

「さうだな。マア、俺は四年だから之れ位考えてゐるが、お前は未だ一年だ。さう六つかしく考えんでも良いだらう。」

「あつしは色色考えた結果、だうも之れは普段の話の種になるだらうと思つてゐたのですが。」

「さうだ、其れは間違いねえ。」

 

 盥漱してゐた余は、派手な爆裂音を伴って口腔より噴射される水を禁じ得なかつた。殊に余のゐる乾寮では、和敬塾の慣習に関する議論に於いて「伝統」と「アイデンテヽエ」とを用ゐる事は単に思考停止を換言したに過ぎないと云ふ見解が普遍的である。自然最も一笑に附す可きラジツクとなる。和敬塾裡で無暗に伝統の語を持ち出す者は、大方伝統と慣習との別さへ附いてをらぬ。簡単に云ふと、可視的で、受動的に継承し得るのが慣習であり、抽象的で、能動的に保守す可きなのが伝統である。和敬塾は慣習が完備されてゐる物だから、だうも無思考に生きる事が出来て了ふのである。獣の如く絶叫し、恭悦して達成感等と云つてをるのは、畢竟、陋習の忌むべき桎梏の陥穽に没してゐる状態に一般である。告朔の餼羊とは訳が違ふのである。

 アイデンテヽエなんぞも大して相違は無い。ちと蟹文字を使つて利口になつた積りなのであらう。これはアイデンテヽエに限つた事では無いが、近頃巷に蟹文字が跳梁し過ぎて弱る。余にはちとハイカラ過ぎて身に合わぬ。和敬での議論の際にアイデンテヽエを奉じる彼らの説く所は大方斯くの通りである。即ち「和敬塾は只の学生寮ではない。ここが『塾』である以上、特有の性質は不可欠である。(故に先輩は威張る可きなのである)」と云ふものである。初めて「ただの学生寮では無い」と云つたのは、和敬塾を創立した前川喜作翁である。然しただの寮では無いから、年長者が無駄に威張つて見せよとは、或ひは狂気じみた事――それこそ普通の学生が更にやらぬ事――を為せとは、喜作翁の絶えて言わざる所である。碌に勉強もせずに夜通し筵に哄然としてゐながら、すまし顔で和敬のアイデンテヽエ等と云ふのである。其れ程差別化したければ、此處は珍しく一つの法人の管理の下に五つも寮が有るのだから、五寮毎の特色を歴然と劃すれば良い。東は運動に集中せしむ。西は音楽美術などの芸術に傾注せしむ。南は政治塾にする。北は実業家の卵許り集める。建築が新たしいのだから、事務所の一、二つなんぞ提供すれば良からう。乾は無論学問である。筆を以て剣に替ふ措大が住む。自然入寮者も「西で舞台美術に傾倒しやう」とか「乾で寸暇を惜しんで学に励まん」等とて分化せられるだらう。その上で寮単位の交流が有れば余程面白からうと思うのだが。而るに、当然ながら之れは湯中の空論である。余は彼らの云ふ「ただの学生寮」が如何なるかを存ぜぬから、和敬のアイデンテヽエたり得る物を声高に断言する事はできぬ。然し敢へて其れを希求せんと欲すれば、五寮編成の活用は軸となるかも知れぬ。

 斯くも心中に獨り贅する間に全身を洗い果てた余は、湯船に向かつた。湯は混濁してゐる。西洋の蹴球者にエヂルだとかオヂルだとかそんな者がゐたやうな気がするが、眼下に波打つは男汁である。満腔を之れに潜するは流石に躊躇われたので、余は湯船の縁に腰掛けて脚湯をしてゐた。湯船の邊には席に坐せずに飽和した者達が列を為してゐる。間もなく湯を被るのに、熱心に前髪を整える者、跪座して居眠りする者、投手の動作を為す者、皆全裸である。裸で投球してゐる者など、希臘にある円盤投げをする男の石像を彷彿するが、あれ程鍛え抜かれてはいない。寧ろ日本の民家にある狸の像に野球帽を被せた物が印象としては近い。

 暫く脚湯をしてゐると、俄かに余を呼ぶ声がする。見れば、知己の赤田君である。彼は徐に余の弓手に坐し、同じく脚湯を始めた。彼は哲学家で、何時も恐ろしく読書に励んでゐる。余と會ふ度毎に神秘主義がだうだとか、プラトオンがだうだとか講釈して見せるので、余は陰かにプラトオン先生と呼んでゐる。彼の、其の濃くて整つた顔附や、ラオコオンの如き隆隆としたる筋骨は、矢張り古代希臘的である。あれ程黄巻青帙の間に起臥し、杳杳冥冥の体で思惟してゐるのだから、何れ神秘の境に遊んでゐたとしても不思議はない。余は、西洋哲学はからきし分からぬので適当に老荘なんぞを以て返してみるのである。

 

「マア一寸聴き給へ。プラトオンによるとだな、理性を越えた所に神秘的な境地と云ふのは確かに存在するのだよ。之れは換言すれば、絶対的境地だらう。」

大鵬九万里の天ですな。」

「恐らく、理性を突き詰めないと其處には到達しえないと見えるね。」

「夫れ知にも亦、聾盲あるが如しと云ひますからナア。考えなくてはならんのでせう。」

「然し、理性だけぢや駄目だ。何か直覚的で衝動的なものが契機として必要だらう。」

「契機と云ふと……。」

「一つには、芸術が有ると思ふのだが。」

「芸術ですか。」

「さうだ。君でも分かる物で云ふと、ダヰンチのラ=ヂヨコンダはだうかね? 実に神秘的な目付をしてゐるだらう。神秘的な領域に身を置かねば、とてもあんなのは描けないだらうね。」

「何、周文の寒山拾得なんぞの方が、余程訳の分からぬ顔附をしてをりますぞ。それに、絵画以外の芸術ではだうです? 例えば文学なんぞ、だうでせう?」

「文学か、確かにさうだ。今時斯く云ふ者は稀だが、あれは確かに芸術なんだ。遠く万葉や古今へ徃かずとも、鷗外や漱石など可なり神秘的で卓越した芸術をする者はゐるんだよ。然しあれだ、今時の大方の文学はとてもぢや無いが、芸術とは云ひ難いもの許りだね。文学とは本来、内容と同様に、否寧ろ其れ以上に美を追求せねばならない物なのだよ。」

「つまり、何を書くかと同じ位だう書くかに意識を傾注すべきなのですな。」

「時に因つては、寧ろどう書くかの方が大事かもしれない。絵画がさうなのと一般だ。處が現代の文学を見給へ、殆どの物は内容の奇抜を以て動魄を狙はんとするか、結末の感銘を以て流涕を誘はんとするかに心血を濺いで、文学の芸術性を全く等閑にしてゐると云はざるを得ないね。」

「其れを云ふと、二年の井瀬君は少しく古めかしい文を書くやうですが、あれなんぞだうです?」

「何、適当に字引を睚眥して漢字をひねくり回しては獨り今鷗外か何かになつてゐる積りだらうが、あれは駄目だ。でたらめに漢語を連ねれば好い訳ぢや無い。あゝ云ふのを、漢語では『乱七八糟』、つまり乱れに乱れて糟塗れになつた物と云ふのださうだ。先の君の寒山拾得に関してもさうだが、訳が分からぬ事と神秘的な事とは全く別物だよ。天地の差だ。ただ、厄介な事にどちらも見かけは杳然としてゐるのだがね。」

「大方は偶無く、大象は形無しと云ふ訳ですな。して、芸術以外に吾吾が神秘の境に近付く手段は有るのでせうか。」

「戀愛なんぞ、だうだらう。肉欲と云ふより寧ろ精神愛、プラトニツクなものだ。あれは、明らかに精神が理性的限界を超えてデイオニユソス的状態になつてゐると云へないかい?」

「成程、舌上に竜泉無く、腋下に清風を生ぜざれども、内は陰かに厶つてゐると云ふ事ですな。確かに、堅物の井瀬君なんぞが表向き闃然としてゐ乍ら秘かに女性の事を考えて懊悩してをるとでもなれば、之れは随分と傑作ですな。」

「全くだ。彼の事だから一念万年の思いで苦悩してゐても、恬として上辺はアポロ的、正に露地の白牛の気で済ましてをるのだらう。」

「まさに神秘的、絶対的ですな、先生。プラトオンも屹度裸足で駆けて徃くでせう。はゝゝゝ。」

「否、それは違ふね、神秘主義と云ふのはだな……」

「おやおや先生、随分とのぼせていらつしやいますな。そろそろお上がりになつた方が宜しいでせう。」

「確かに……さうだな。では、お先に失礼するよ。」

 

 赤田君は不満気だつたが、直ぐに軽く湯を浴びて風呂を出た。余は未だ脚湯をしつつ赤田君との会話を追想する。赤田君の哲学的言説は実に晦渋を極める。余は且つ流し且つ聞きと云ふ体である。恐らく赤田君も余の老荘且つ禅的言説を碌に聞いていまい。畢竟、風呂の話は湯靄と共に消散するものである。已にお隠し君も肉道達も上がつてゐる。余も上がる事としやう。

 余は軽く湯を浴びて風呂を出た。脱衣所は可なり寒い。肌が慄然とする。余は鏡の前を席巻しつつ矢張り酒と肉欲の話を続けている彼らを横目に、持参した拭いで全身の水を取る。我惸獨にして不羣などと陰かに嘯きつつ、余は替え衣の袋を開けた。

 パンツが無い。石造りのダヰデが脳裏に浮かぶ。窓の外では、虎君が変わらず香箱を作つてゐる。虎君は大きく欠伸をした。

 

(平成二七年二月八日)

 

[i]  和敬塾は東、西、南、北、それに乾と名の付く学部生向けの五寮と、院生の住む巽寮と から構成されている。私の住むのは乾寮で、ここで他寮と云うのは巽を除く他の四寮の事である。