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どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

「役に立つの?」といわれたら

初対面の人に文学を、特に中国の古典文学をやっているといったら、よく「それって役に立つの?」と聞かれる。そうでなくても「なぜ/なんのためにやってるの?」とか。もちろん人文系をやっている人と話してるとそんなことは全くないし、とてもスムーズに話がすすむ。

 

そして、面白いことに、敢えて文学ではなく中国語を勉強しているのだといったら、だいたい「へえ~すごいねえ」といわれる。そして決まって「中国語はいま/これから役に立つからねえ」といわれる。

 

僕はいま中国の北京へ留学に来ているけど、こっちではそんなことは全く聞かれない。台湾でもいわれなかった。文学をやっているというと、基本的に「へえ~すごいねえ」みたいな反応が返って来る。とはいえ、交友範囲はまだそんなに広くないけれど。

 

もちろん、だから日本はダメだみたいなことをいうつもりは全くない。(むしろ中国/台湾が少し特殊なのだと思う)僕にそう聞いてくる人の気持ちも分からないではない。でも北京に来て、「文学って役に立つの?」と全く聞かれなくなってからは、却ってその問いのことを考えるようになった。

 

アラビア語や中東情勢を勉強している今のルームメイトは、「結局楽しかったらいいんじゃない?」といった。このご時世、中東情勢はもしかすると「役に立つ」方なのかもしれない。

 

そもそも「役に立つ」って何だろう? しょっちゅう「それって役に立つの?」と聞かれていると、まるで役に立たないものは存在してはいけないような気がしてくるが、当然そんなことはない。なぜなら、僕たちは役に立つから友達を作るわけではないし、役に立つから酒を飲むわけでもないし、ましてや役に立つから遊ぶわけでもないからだ。

 

僕たちは、実に多くの「役に立た」ないことをしながら生きている。このことに気付くのはとても重要だけど、でもそれは文学をやる理由にはなっていない。

 

ではなぜ文学をするのか、あるいは文学は「役に立つ」のか……ということはいったん置いといて、僕は、「役に立つの?」といわれた時に絶対にいってはいけないことが三つほどあると思う。

 

一つ目は、「そんなもん分からんやつには分からんでいい」といい切っちゃうこと。ぶっちゃけ僕もそう思う時もないではないが、世の中には漢文とか文学とか分からない人の方が圧倒的に多い。それに僕自身ほんとうに分かってるのかいささか怪しい。そうであるならば、そういう問いかけに対して「バカには分からんでいい」みたいな物言いをするのは、対話の放棄でしかないし、「分かる」者同士での会話に閉じこもるのは、担い手として極めて無責任だと思う。

 

二つ目は、「役に立つかなんて知らない、好きだから、やりたいからやるんだ」ということ。僕は、これは動機としては極めて結構だと思う。何をするにあたっても、根本ではやりたいからやるのだという気持ちは大切なのかもしれない。

 

でも、それで納得するような人はそもそも「役に立つの?」とか「なんでやるの?」などとは聞いてこない。そのように聞いてくる人は、多くの場合感情的な水準で文学なんて役に立たない(からいらない)と思っている。そういう人に対して同じく感情をぶつけてみたところであまり意味はない。そうして、結局「分からんやつには――」という結論にたどり着くのなら、それはやはり怠慢でしかない。僕らに求められているのは、感情をぶつけるだけで互いに察し合える会話の能力ではなく、感情を共有できない人と対話する能力である。

 

三つ目は、「いやいや、文学の知識=教養は社会で役に立つよ、ビジネスに役立つよ!」などといってしまうこと。意外と文学部の教授とかでもこういう人がいるけれど、これはたとえ建前でもいってはいけないと思う(※1)。なぜなら、「役に立つ」ということと、人文知の優劣とでは、目標および価値基準が全く違うからだ。

 

歴史を少し見てみると、それぞれの地域・時代によって「役に立つこと」が全く異なっていることに気付くことができる。日本だけで見ても、とにかく剣術が出来ることが「役に立つ」時代もあれば、それに加えて儒学の知識が豊富なことも求められた時代もあった。あるいは詩歌をいくつも諳んじることが出来るのが「役に立つ」時代があった。いま世の中で「役に立つ」とされていること(いわゆるコミュニケーション能力とか)は、結局歴史の偶然によってここ数十年間重要性を賦与され続けてきたにすぎない。

 

一方で、おおかた人文知の優劣の基準は一貫して明確だ。残ればいい。僕たちが大昔に偉大な文学や思想が存在したことを知れるのは、当然ながらそれらが優れていたために伝えられ、時に古典として残されてきたからだ。大富豪の淀屋辰五郎を知っている人よりも俳人松尾芭蕉を知っている人の方が圧倒的に多い。つまり人文知は、「役に立つ」という基準が常に変わっていく中でいかに長く生存できるかをその価値基準として持っているのだ。

 

むろん、ここでいいたいのは「だから人文知のほうがエラいんだぞ!」とかいう話ではない。たとえ歴史の偶然であるにせよ、いま「役に立つ」ことは現代社会にとって非常に重要だし、それは文学をやっていようと何をやっていようと、現代を生きている以上否定できない。だからスマホをいじりながら「現代はダメだ、孔子様の時代がいい」とかいうのはもってのほかだ。

 

僕がいいたいのは、むしろ、互いに価値基準や目指しているところが全く異なる以上、人文知の能力といま「役に立つ」もの、例えばビジネススキルなどとは決して混同してはいけないということだ。それは両者に失礼である。

 

たしかに人文知が社会、あるいはビジネスで役に立つことがあるかもしれない。有名企業の社長が論語ニーチェを読んでいたみたいなことは割とよく聞く。しかしそれはあくまで結果的に効果的に作用したにすぎない。三千年前から、人文知はビジネスに奉仕するために積み重ねられてきたのではないし、これからもそうではない。

 

また、この点に関していうと、中国や台湾で文学をやっているというとなんか褒められるのは、おそらく十九世紀末頃まで文学に精通していることが最も「役に立つ」ことの一つとみなされていたからなのかもしれない。これほどの長い間、人文知の優劣と社会にとって「役に立つ」こととが非常に接近していたという点で、僕は、中国/台湾は少し特殊なのだと思う。

 

さて、こうしてここまで偉そうなことをいってきたが、実のところ僕も「役に立つの?」という質問に対して満足に説明できたことがない。たとえ「役に立つ」という言葉を人文知へぶつけること自体がそもそも愚行なのだということが分かったとしても、そしていろんな文学者の意見を読み、聞いたとしても、問題はそれだけで済むほど単純ではないし、もしかするといつまでも解決できないのかもしれない。

 

「役に立つ」ことがこれだけ重要視される二十一世紀の日本においてわざわざ数千年前の古典を、それも外国の古典を学ぶことに果たしてどんな意義があるのか……当然ながら、これは「好きだから」で済ましてよいことではない。ある意味絶滅危惧種(!)として、このことは理性的に、対話に堪えうる言葉で説明できるようにならないといけない。

 

文学は役には立たないかもしれない。でも、世の中は役に立たないことで満ちている。しかし/だからこそ、僕たちは外を向いて、役に立たないものたちのために理性的な言葉を尽くさないといけない。それが、今を生きる文学者のあるべき姿だと思うし、そういう者に僕はなりたい。

 

 

(追記)1:先日先輩から、先生方がそうおっしゃるのは、そうしないと人がこないからだと諭された。おそらく、先輩の目にはぼくの言説が大変青臭いものに映っただろう。それは間違いないし、ぼくも否定する気はない。しかし、多少の青臭さを承知の上であえていえば、ぼくはこうした指摘は二重の意味で誤謬を犯していると思う。

 

ひとつめは、いまの時代「社会で役立つスキルを学べること」を学部選びの最も重要な基準にしているような学生は、普通わざわざ文学部を選ぶはずがないということだ。なぜなら、いま「社会に役立つスキル」とされているのは、いわゆるコミュニケーション能力や、マーケティング、ビジネスの知識であり経験である(それが本当に有用なのかは、ぼくはしらない)。それが文学部の学びの中で鍛えられていくことは往々にしてあるだろうが、普通、大学に入る前に「役に立つことを学びたい」とだけ考えている人は、もっと直接的にそうした分野を学べる学部を選ぶだろう。

事実、大学へ入ってもうすぐ三年が経過しようとしているが、ぼくの身の回りには、文学とか思想や文化、あるいは歴史とかが好きで入ってきたひとか、単に偏差値/試験の点数の関係で「入ってしまった」人のどちらかしかいない。極端なもの言いをすれば、「大学でビジネススキルを習得し、圧倒的成長をして社会の即戦力になりたいから文学部を選んだ」みたいな人は一人もいない。似たような人がいたとしても、学部選択とは完全に無関係だろう。

 

ふたつめは、たとえ「文学は社会の役に立つぞ」ということが、「社会の即戦力」になれるようなスキルを求める学生を集めることに一定の効果があったとしても、それをすでに文学部へ入った/てしまった学生にいうこととは全く関係がないということだ。(大して効果はないと思うが)そういうことをいうならば高校生にいうべきなのであって、大学の文学部生にいっても人は増えもしなければ、減りもしない。なので、ぼくはむしろ「一見社会に直接関係しないようだけど、しかし/だからこそ尊くて、それゆえに逆説的に社会と関係を持てるようになる」くらいの啖呵を突然授業中とかに切ったりして欲しいと思っている。

とはいえ、たとえば早稲田の文学部のように2年生から各専修に分かれる場合、学部内でパイの取り合いが起こることがある。こういう時に授業内で「役に立つ」とアピールしておくことは、入学時には就活とか「役に立つ」とかなにも考えてなかったけど、1年たっていささか不安になってきたであろう一部の層を取り込むのには役に立つ。その程度のことでしかない(こういうもの言いがすでにして青臭いのかもしれないが!)

 

ぼくの尊敬している教授は、「文学とか思想とかは役に立つのか」という問いに対しては、いつも「そんなもん、ないと寂しいじゃないか、ガハハハ」とかいって適当にお茶を濁したあとに、ときおり神妙な顔つきで「でも、そんなことよりもっと重要な問題があるだろう」などという。

 

解決なんてできないかもしれない。さきは長いな、と思う。

『乾文學』八月特別號公開!

※八月特別號PDF版のダウンロードはこちらからどうぞ

 

いま僕が生活している和敬塾という寮で『乾文學』という文芸誌を時々作っているのですが、このたび最新號の八月特別號を公開しました。

今回は「和敬塾の再定義」という特集を組んで、いま和敬塾という共同体が抱えている諸問題を受けて僕たちはどうするべきなのか、ということを議論してみました。

そもそも和敬塾は「共同生活を通した人間形成」を理念として掲げており、その理念のもといろんな行事を企画したりしています。しかし最近はいろいろと問題が出て来ています。簡単にいうと、これまでなら「ふむ、元気でよろしい」みたいな感じで見過ごされて来たものがだんだん許されなくなってきて、いろんな方面から厳しい目が当てられているというわけです。

そういった現状をうけて、運営側や一部の学生があれこれ制度や枠組みを変えようと試みていますが、「和敬塾の再定義」も大体そのようなものの1つだと思ってもらって構いません。

今回の戦略は、端的にいうと理念に注目すること、いやむしろ理念を読み替えることでした。つまり、いま和敬塾にある諸制度は確かに理念に則っているかもしれませんが、当然ながら理念から必然的に導かれたものではないわけです。そこで、和敬塾の所有する物的、人的資源を一度俯瞰した上で、「共同生活を通した人間形成」なる理念を達成するために有効な手段を提示し、いまの諸制度を相対化すること――もっと言うと「そういう理念を掲げてるなら、(いまあるようなものじゃなくて)こういう風にやったほうがいんじゃない?」と言って見せること――これこそが今回の戦略であり、特集の出発点となった考えでした。

『乾文學』で展開されている和敬塾の議論は総じてかなりハイコンテクスト(≒身内ネタが多い)で、当事者でないとピンとこないことがあるかもしれませんが、それでも僕は和敬塾関係者でない人に読んでもらいたいです。なぜなら、だいたい誰かしら似たような事象を抱えているからです。というのも、普通ハイコンテクストな議論を理解するためには何かしら自分の身の周りの近似した事柄と関連させるものですが、そう考えた時「そこそこ流動性があって、なおかつちょっとした慣習みたいなものもある共同体」に属している人は結構多いのではないかと思います。(学校、サークル、会社など……)

ですから、和敬塾で問題とされているものを適宜自分の周囲のものに置き換えることで、一連の議論は自身の問題として読み替えることが出来るようになるわけです。『乾文學』における和敬塾の議論が適当に一般化したりせずに常に徹底してハイコンテクストであるのは、そこに理由があります。つまり、和敬塾に関していえば、徹底してハイコンテクストな議論を展開することで逆説的に一般性を獲得するのではないか、という風に僕は考えています。

 

 そういうわけで、今回の八月特別號「和敬塾の再定義」は、ぜひとも多くの方に読んでもらいたいので、もし興味があれば、こちらからPDF版をダウンロードしてください。

また、「和敬塾の再定義」の趣旨についてもう少し詳しく知りたい方は以下に序文を転載しておきますので、ちょっと長いですけど、ぜひそちらもご覧ください。

 

***

 

 卒業生特集を組んだ三月から今までの間に、和敬塾の状況は大きく変化した。数年前、新入生に大きな声を出させることをやめた乾寮を猛烈に批判した各寮が、今年度は次々と大声での挨拶や自己紹介を廃止して、今春の和敬塾は随分と静かになった。それでも入塾生の数は年々過去最低を更新しているし、新入生を痛め付けて「脱落しなかったやつだけが俺たちの仲間」みたいな元気で無茶な考え方もできなくなってきた。新入生を脅かそうとして、上級生が俄かにスーツを着散らかしたり、髪を金髪に染め出したりするという滑稽な情景も殆ど見られなくなった。こうして一部の人の言葉を使えば「ゆるくなった」和敬塾の諸制度は、かつてない速度で根底から瓦解しつつある。誰が何と言おうと和敬塾は変わってしまった。和敬塾の「伝統」は、そして「和敬右翼」は遠からず滅びることになるだろう。

 和敬右翼だけではない。「伝統」という制度から距離を置いてこれを批判し、時に冷ややかな視線を向けることによって、和敬塾内で(インテリ風としての)立場を確保して来た「和敬左翼」たちもまた、「伝統」の急速な瓦解により、意味を失いかけている。「和敬の『伝統』は虚構だ」という批判は、もはやむなしさしか与えてくれない。無論、これらの思想が全く消滅するとは思わないし、「滅びる」という言葉の誇張であることもまた当然である。しかし、「伝統」を巡るある種の二項対立は成立しなくなってしまったのだ。以後、行き詰まりを見せている「伝統」を無邪気に奉じたとしても、それは「伝統」の縮小版であり、「伝統」の陳腐な模倣にしかならない。(本来の「伝統」が好かったという意味では決してない)反対に、「伝統」に対してこれまでと同じような問題意識を持ち、同じような批判を続けたとしても、せいぜい「指示対象なき言説の連鎖」(*1)に終わるのが関の山である。

 では、来るべき「伝統」なき時代にあって、僕たちはどのように和敬塾生として生きていけばいいのだろうか。いや、そもそも和敬塾とはどのような場所なのか。いま、和敬塾は再定義されなければならない。

 僕は最近、漢詩人工知能の関係をテーマにものを考えて来た。その暫定的な成果は本號に論考として掲載してあるので詳細はそちらを参照してもらいたいが、人工知能の領域から再定義ということを考えると、少し興味深い点に気付くことが出来る。

 近年よく耳にするディープラーニングという技術は、入力されたデータの特徴を自ら発見出来る点で画期的だとされている。いわば、世界のどこに注目すればよいかを自ら判断出来るようになったということだ。これに対して人間がしてやることは、人工知能が抽出した抽象的な特徴の集積=概念に対して「それはねこである」、「それはどらやきである」と名付けてやることであり、これを定義付けという。

 この定義付けの過程を念頭に置くと、再定義とはすなわち抽出する特徴を変更することだと言うことが出来る。換言すれば、目の前に広がる世界に関して、これまでとは別の部分に注目しておきながら、一方でこれまでと同じように「これが○○である」と言ってのけることにほかならない。つまり、これまで和敬塾に関して注目されてきた要素(東京、男子寮、体育祭、厳しい上下関係などなど)とは全く別の要素に注目――それは往々にして発見を伴うだろう――して、特徴として取り出しておきながら、しかも至って恬然たるさまで「これが和敬塾だ」と言い切ること。これが和敬塾の再定義であり、今回の特集の概要である。

 さて、僕たちはこのようにして少し変わった角度から再定義ということそのものを定義してみたのであるが、それでは、これを和敬塾で行うということはどういうことを意味するのだろうか。これはつまり、「和敬塾の再定義」という議論が、これまで和敬塾で繰り返されて来た「新歓」や体育祭、もっと言えばいわゆる「伝統」に関する議論の数々に対してどのような位置づけを持つのか、と言い換えることが出来る。そして、それを明らかにするためには、僕たちはあらかじめ少し迂回しなければならない。

 

 かつて「和敬塾の『伝統』は三年で形成される」と言った塾生がいたそうだ。僕はその人のことを知らないし、発言の裏も取れない。だけど僕は、それはまったくその通りだと思うから、これを自分なりに解釈して話を進めていこうと思う。

 和敬塾(/各寮)の「伝統」が三年で形成されるということは、新潮流が三年で自明化することだと言い換えることができる。これはどういうことかというと、和敬塾(/各寮――以後略)で何か新しいことを始めた場合、当初は塾生全てが当事者であり、言わば「改革者」である。しかし次の年には四年生が卒塾し、新入生が入塾してくる。そもそも新入生にとっては、二十年の継続がある事柄であろうが昨年始まった試みであろうが、(先人が取り立てて問題にしない限り)新たな共同体に入るにあたって与えられた環境という点で同じものでしかない。こうしてある新潮流が三年の継続を果たした時、和敬塾内は、それをいわば環境として自明化する塾生がおよそ四分の三を占めることになる。(個人がそれを肯定するか否かは別問題である)環境に生きる者が環境の創造者を上回る。かくして「改革」は「伝統」となるのである(*2)。またもう一年経てば「伝統」がますます強固なものとなることは、もはや言うまでもない。

 和敬塾のこの一連の流れは一見とても流動的だが、その実さほどさらさらしておらず、たまにじれったいまでの停滞性をみせたりもする。と言うのはつまり、和敬塾は構造的条件として塾生が絶えず入れ替わるものであるけれども、どういうわけか時折和敬塾流動性が機能しなくなることがあるのだ。これは、経済学者の安冨歩が言うように、社会=共同体の構成要素が人間そのものではなく、各人間をつなぐコミュニケーションであることに起因している(*3)。つまり、「酒! 筋トレ! 合コン!」と耳にするが早いか身体が反応してしまうような(素質を持った)学生が毎年少なからず入って来るようでは、確かに人間は流動的に入れ替わっているものの、そこで交わされるコミュニケーションのパターンは全く変わることがない。こうして個人の流動的な交換が行われるにもかかわらず、共同体が流動性を失っていくこと。ここでは、これを流動性の固体化」と呼ぼう。昨今のように、「伝統」が伝統そのものであるかのように錯覚されていってしまった仕組みはここにあったと言っていい。

 和敬塾の構成要素としてのコミュニケーションがひどく固体化してしまったために、その流動性が異様に長い期間に渡って機能不全を起こしてしまったのが、「伝統」をめぐる和敬塾の諸問題の原理的な要因であった。そうであるならば、いまここにおいて塾生の意識を変えようと制度をあれこれいじってみた所であまり意味はない。和敬塾を変えるには、むしろ、これまで主流であった人々とは全く異なるコミュニケーションや発想のパターンを持つ人を大量に取り込むしかない。そうやってはじめて制度改革が意味をなすのだ。

 こうして僕たちは、共同体の条件的な流動性と、それが固体化=機能不全を起こすことによる「伝統」の定着という現象を確認したわけだが、すでに述べたように「伝統」もまた可変的であり、まさに今瓦解しつつある(ゆえにこの流動性は、流動と固体化を交互に繰返す半固体的流動性と換言してもよい)。では、逆に和敬塾において不変である要素は存在するのだろうか。これを考える時に最も鍵になるのは、塾の理念である「共同生活を通した人間形成」である。

 この理念はどういうことかというと、残念ながら僕にもよく分からない。しかし、僕はこのよく分からないという点においてこの理念の重要性と普遍性を強調する。なぜなら、よく分からないことによってそこに無限に解釈の可能性が生まれるからだ。

 当然ながら、世代も故郷も考え方も異なる全ての大学生に普遍の目標なんて存在するはずがない。このよく分からない理念が真に理念たり得る所以は、まさに塾生それぞれが「共同生活」を通して自由に「人間形成」を考え、解釈し、実行することを受け容れるその寛容性にある。換言すれば、和敬塾生は(時に意識しない形で)「人間形成」の名の下に教養講座や学問を行い、酒を飲み、激しく暴れ、セミナーや講演会に参加し、騎馬戦で闘い、ナンパや合コンで浮付き、尚且つ「文學し」て来たのである。この点は決して変わることがない。和敬塾の中心概念である「和敬」も同様に分かりづらい上に重要であるけれども、僕はこの解釈自在性と文化の全体性の担保という二点から「共同生活を通した人間形成」という理念が一番重要であり、最も意識して奉じて行くべきだと考える。「和敬塾の理念はよく分からないから無視していい」と無邪気に叫ぶ者は、理念を「無視して」行ったはずの行為ですらその「良く分からない理念」の内に併呑されてしまうという厳然たる事実を前に慄然としなければならない。

 曖昧な理念を奉じて随意に思考解釈、創意工夫して塾生と相交わり、時に「伝統」を形成しようと試みつつ、それが決して恒久の確立をみないこの半固体的流動性――言い換えれば、理念と塾生(同士のコミュニケーション)の衝突による、「伝統」という制度の自律的生成――これこそが和敬塾の文化的特性にほかならない。

 

 ここで最も重要なのは、理念と塾生の衝突という基盤の上に成立する「伝統」が本質的に可変的であると同時に、常に複数であるということだ。厳密に言うと、僕たちが「伝統」と呼んでいるものは、流動的な和敬塾の中で、何となく伝統であるかのように見なされたもろもろの要素の集合をぼんやりと包摂する概念にほかならない。それは、和敬塾の伝統とはなにか、という問いに対して決して統一的な解答が得られないことが如実に物語っている。

 ちかごろ和敬塾では、閉塞的な現状を受けて「新しい伝統をつくろう」だとか「和敬塾は生まれ変わるのだ」だとか、そう言ったいさましい言葉が安易に叫ばれることがしばしばある。しかし、こういう時、「伝統」とはそもそもどういうものなのか――何が「伝統」を構成するのかではなく――ということが思考の対象となることはまずなく、多くの場合「新しい伝統をつくる」ための方法自体がきわめて曖昧なままに議論が進められてしまっている(これは、少なからず僕自身への自戒をも兼ねているのだが……)。

 もう一度言うが、「伝統」とは複数の「伝統的」要素の総称である。してみれば、「新しい伝統」をつくることとは、とりもなおさず「伝統」という語のもとに包摂されて来た各要素の一つ一つを批判的に検証し、それを全く別の要素に交換してやることにほかならない。(そして、その交換の契機となるのが、ほかでもなく不定期に作用する半固体的流動性なのであった)

 ここで僕たちは、「新しい伝統」をつくることが、さきほど確認した再定義という行為と全く同じ過程を要請していることに気付くことになるだろう。つまり、「新しい伝統」を作ることとは、単に「伝統」の再定義の言いかえでしかなかったのだ。では、和敬塾の再定義と「伝統」の再定義とはどのような関係にあるのだろうか。

 ここでは、次頁の図にある通り、「伝統」もまた和敬塾を構成する特徴的な要素の一にすぎないことを確認すれば事足りるだろう。すなわち、「伝統」の再定義の先に和敬塾の再定義がある。「和敬塾の再定義」を標榜する僕たちの議論と従来の和敬塾での議論との関係は、大体このように把握してもらえればよい。

 これまで見て来たように、和敬塾の再定義とはすなわち、和敬塾にある無数の要素を包摂する範囲(の枠)を変えながら、もう一度「これが和敬塾だ」と言うことであり、「伝統」の再定義もまた、その範囲の中で行われるものにほかならない。今回の特集の目標は、和敬塾で見過ごされて来た要素の発見と抽出を通して、同様に余り注目されていなかったり、そもそも発見されていなかったりした諸問題や矛盾を暴き出すこと、そしてそれらを議論の俎上に載せることである。今回特集で収録した諸論考や、ある種の思考実験とも言える小劇場設立計画の提案は、そのようなものとして読んでもらいたい(*4)。

 

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 序文で述べるべきことは主に以上の点に尽きるのだが、最後に和敬塾を再定義するためにもう一つ論点を加えておこう。

 さきほど「伝統」の再定義の先に和敬塾の再定義があると言ったが、これは必ずしも両者の明確な順序関係を意味しているわけではない。端的に言えば、和敬塾の再定義という問題が、「伝統」およびそれを構成する個々の要素に対してあれこれ議論するようなこととは全く異なる地平に存在しているというだけのことだ。ゆえに、今回の特集では「伝統」に関してはほとんど触れられていない。(序文でやたらと「伝統」に触れたのは、それゆえでもある)

 とはいえ、『乾文學』は今回新たに西寮の学生一名と北寮の学生一名を迎えることとなり、いうなれば乾寮内での小さな試みから徐々に和敬塾の「伝統」へとなりつつある。従って、僕たちは『乾文學』が「伝統」となることによる可能性を、換言すれば、『乾文學』はいかに「伝統」を再定義しうるかということを考えなければならない。

 何度か初代編集人の那須優一や僕が言ってきたように、『乾文學』とは「公園」のような言論空間である。公園とは、少年が友人同士で野球をしたり、男女が愛を深めたり、家族が憩いを求めたりする長閑な場所でありながら、同時に知らない人にボールを拾われたり、犬の 散歩仲間がふと出来てしまったりするような、唐突さと偶然性――無数の要素が有機的に連鎖した結果としての偶然性――に満ちたスリリングな空間でもある。『乾文學』は、どういう 形であれ、そこに足を踏み入れる全ての人にそうした唐突で偶然性に満ちた出会いや発見を もたらす場所であり得るし、そうでなければならない。

 大切な人と交わりながら、時に一人ふらりと立ち寄った時――その「時」はしばしば無自覚に訪れるだろう――突然思いがけない出会いや発見を果たしてしまうような空間。そこには闘技場の熱狂=一体感はないが、公園の分散=随意性がある。これまでの「伝統」的な諸要素は、ほぼ例外なく全ての塾生を強制的に巻き込み、闘技場型の熱狂によって人々をつなげていくことを目指す「大きな物語」として機能していた。そこでは、「物語」を称賛するか拒否するかによって塾生の中で大きく線引きがされており(個人の仲の良し悪しは必ずしも一致しないが)、自他共に「物語」への距離感を明確に意識しながら生活することが要請された。

 しかし『乾文學』によって再定義されうる「伝統」では、毛色の異なる個人を包摂する共同性は、闘技場型の熱狂とそれに対する絶えざる嫌悪=批判の二項対立にではなく、公園型の分散、そしてそこに由来する偶然の遭遇という、ゆるやかであり、時に唐突なつながりに求められることになるだろう。公園のようにゆるやかで曖昧でありながら、その内に戦慄的な瞬間を秘めた共同性を実現すること。そのために今必要なのは、塾生間での偶然の出会いや発見を生み出す場であり、従来の枠組みではつながれなかった人たち――例えば各寮に現状少しはいるであろう、「文學する」という言葉に反応してしまうような人びと――をネットワークする枠組みである。当然『乾文學』はその中心たり得るが、唯一絶対の手段ではない。『乾文學』を起点として様々な派生的要素(日華交流会の企画など)を散りばめることで、知らず知らずのうちに巻き込まれてしまうような、ゆるくてスリリングなネットワークが和敬塾内に張り巡らされること。これが『乾文學』が実現し得る公園的な「伝統」の可能性である。

 

ここで最も重要なことは、公園は管理人の一存によって一色に塗り固められるほど単純な場所ではないということだ。つまり僕の言葉は、それが公園で発せられたが故に、発せられたその瞬間忽ち公園に取り込まれ、そこを構成する一部分――いわば公園に飛び交う一球のボール――へと相対化されてしまわざるをえない。今回の特集および本號そのものは、出発点に僕の思想が色濃く反映されていることは言うまでもないが、その全貌を見れば、それがいかに偶然性に満ちた雑多な空間であるかに気付くことができるだろう。そこで僕たちが投げたボールがどこに向けられ、どういう軌道を描くのかは、編集側はもちろん想定しているが、読者のみなさんによって僕たちが全く予想しなかったことが発見され、思わぬ所へボールが届けられることも充分あり得るし、僕たちはむしろそういう事態を強く望んでいる。

 塾生及び関係者には、当然ながら和敬塾の今後と「伝統」とを考えながら本號を読んで、ボールをあちらこちらに投げたり受けたりしてもらいたいが、矢張り和敬塾関係者でない方にもぜひとも同じ様に読んでもらいたい。なぜなら、既にお気づきの方も多いと思うが、ある程度の流動性を孕む共同体における「伝統」(慣習と言い換えてもよい)の形成とその再定義いう問題は、何も和敬塾に限ったことではなく、むしろ和敬塾の例は、社会に少なからず存在するそうした諸問題の象徴的な縮図であるとも言えるからだ。

 

 それでは、ようこそ僕らの公園へ。これが、僕らの夢見た和敬塾だ。

 

平成二十八年七月三十一日 東京目白台にて

 

 

 

 

 

1:メディア史研究家で文芸批評家の大澤聡は『批評メディア論』(二〇一五年 岩波書店)の中で次のように述べている。

  

  「もはや問題は誰がその言辞を提出したのかではない。人物の実在/不在ですらない。小林(秀雄――引用者註)の立論を誤釈した人間が一定数存在する事態を前提とした言説が流通し、それによって現時点で『批評無用』が活発に論議されているという共通了解が立ち上がった、そして実際に膨大な発言を呼び込んだ、この構造こそが重要なのだ」(九十二頁)

  

  例えば、これを和敬塾に当てはめると次のようになる。つまり「現在和敬塾には『伝統』と呼ばれる諸制度があるが、これは和敬塾の歴史に比べると比較的最近に出来た慣習でしかなく、とても『伝統』と呼べるものではない」という時、人々はそこに強固な「伝統」の存在を前提として想起する。しかし、今やその「伝統」そのものが急速に解体されつつあるために「和敬塾には『伝統』があるが」ということを前提に出来なくなってきているのだ。前提となる対象が喪失されてもなお、それを指示対象として展開される批判的な言説が本質的に空虚であるのは当然で、(少なくとも今後の和敬塾に関しては)この手の議論を重ねても大して意味はない。これが「指示対象なき言説の連鎖」である。

 

2:「伝統」をより明確に理解するために、僕たちは以下のように考えることができる。つまり伝統的であることと、「伝統」があることとは全く別である。例えば、和敬塾が伝統的だとされるのは、それが六十年以上の継続を持つからであるが、和敬塾の「伝統」つまり伝統であるかのように思われているものは、本質的にはたった三年程度で形成されてしまう制度でしかない。してみれば、歴史は浅いが「伝統」はある、という事態が何の逆説性も持たずに成立するのだ。

 

3:安冨歩複雑さを生きる』(岩波書店 二〇〇六年)一〇二頁。

 

4:特徴的要素の抽出と、それを包摂すること=定義することという構図があまりピンと来ない人のために、これを少し具体的に考えてみよう。

  例えば、今「和敬塾」という言葉を聞いて人々が想起する要素は、だいたい騎馬戦、体育会系、飲酒などであり、これらが「和敬塾」という範囲の中に包摂された特徴的要素であると言える。一方で、避難訓練という要素はどうだろうか? これは、確かに和敬塾内に存在するものの、それによって和敬塾が特徴付けられることはない。避難訓練自体、毎年行われているのにもかかわらず、おそらく「和敬塾といえば?」と聞かれて避難訓練を特徴として挙げる人はまずいない。これこそが、特徴的ではないが、しかし和敬塾に存在する要素であり、図で言うところの「和敬塾」の範囲の外にあった「抽出されなかった」要素にほかならない。従って、和敬塾そのものと「和敬塾」という範囲は別物だと理解してもらいたい。

  また、ここで再定義、すなわち範囲の描き替えということを考えてみよう。例えば、もしも和敬塾避難訓練が、どういうわけか地域ぐるみのとてつもなく力のこもった一大イベントとなってしまい、「和敬塾といえば?」と聞かれた際に「いや、避難訓練でしょ!」という言説が多く生まれるようになってしまった場合、人々はそれが和敬塾の特徴だと見做さざるを得なくなる。つまり「和敬塾」という範囲に包摂されてしまうわけだ。こうしてこれまで「和敬塾」という範囲に包摂されていなかったもの、つまり人々が和敬塾の特徴的要素として注目してこなかったものが新たに特徴となってしまう時、和敬塾は再定義されるのだ。

夜食論

 

夜に食らうと書いて夜食と言うが、単に夜に食べれば好いというわけではない。それは常に夕食の後に行われることにおいて夜食たりうる。つまり、夜食とは節度ある三食の後に押し寄せる過剰なる一撃のことである。夜食が過剰である理由は至って単純で、それは夜食が、ヒトが動物として生きていくにあたり完全に不要な栄養補給の営為だからである*1

 

それでは、人はどうして夜食を取るのだろうか。また、夜食とはいかなる営為なのだろうか。僕はここに夜食の本質を解明し、これが潜在的に持つ可能性を提示してみようと思う。

 

当たり前のことを言うようだが、夜食が過剰な栄養摂取の営みであるということは、裏返せば普段の三食は必要な栄養摂取のための営みだということである。もう少し言うと、普段の三食が、本質的に空腹という生理的=動物的な欲求を出発点として、その上に様々な意味(味、芸術的細工、交流など)を積み上げていくものである一方で、夜食はその過剰さゆえに、いわば欲求が満たされている状態から出発しなければならない。つまり夜食とは、普段の三食とは根本的に異なる始点をもつ営みなのである。従って、僕たちは初めにその始点を明らかにしていかねばならない。

 

それでは、ここからは議論の抽象化を避けるために僕自身の印象的な夜食体験からこれを帰納的に考えていくことにする。

 

僕はゲンロンカフェでアルバイトをしている。そこでは毎晩のように有名な批評家や知識人が議論や討論をしており、時折僕の身の丈を優に超える高度な議論が展開されることがある。業務の側らそれらの議論を聞いている時、内容が超越的であればあるほど、俄かに自分も彼ら超人たちに近づいてしまったかのような高揚感=錯覚を抱いてしまう。とはいえ、勤務中は何かとやることもあり、帰り道も途中まで同じスタッフの方と帰るので高揚感=錯覚は決して長続きしない。

 

バイトが終わり、他のスタッフの方々と別れて山手線を降りると、普段なら乗り換える地下鉄はすでに終電が終わっており、僕は三十分以上歩いて帰ることになる。辺りに行人は少ないが、鉄道の工事をしていたり、車が通っていたりするので、真夜中でも大通りは静かではない。不快ではないが寂しくはならない絶妙な喧噪の中で独りとぼとぼと歩いていると、ふとさっきの高揚感=錯覚がむくむくと込み上げてくることがある。印象的、感動的な一言を反芻し、超人性を分けて貰ったかのような幸福な錯覚が身を包む。それがある一定の程度を越えた時、僕は突然、超人思想よろしく何かよこしまなことがやりたくなってしまうのである。(『罪と罰』のラスコルニコフを想起してもらいたい)僕は普段の冷静な時に限って、これを「エセ超人状態」と呼んでいる。つまり、これは初めて「エセ超人状態」になった時の話である。

 

「エセ超人状態」に突入した瞬間から、僕はなぜか何かよこしまなことをしたいという以外に何も考えられなくなってしまう。そして、大体こうなった時に僕は最初にブックオフの前を通るのだが、この時店はいつも閉店した後である。中を見れば店員が閉店作業を行っていた。そこで僕は閉店したブックオフで買い物をするという実によこしまな行動の一部始終を想起してみたのである。

 

「すみません」

「お客様、すでに閉店時間を過ぎておりますが……」 

「そんなものはない」

「いやですからお客様……」

どう見ても素面にしか見えないこの謎の青年に戸惑う「凡人」達を横目に、僕は驀地に本棚へ向かう。何とよこしまな事だろう!

 

 ここまで考えて、僕は店の前に立った。予想通り、店員はかなり怪訝そうな目をしてこちらを見ている。三秒くらい見つめあったあとで、僕は急に「超人」らしからぬ逡巡を覚え、このよこしまな行動を一旦やめることにした。それ以降実際に店の前に立ったことはない。

 

 ブックオフを過ぎてもまだまだ帰り道は長く、よこしまな事をする機会は相応に残っている。僕はこうして歩き続けるのだが、辺りには殆ど人もいないし、多分いたからどうというわけでもない。矢張り何となくよこしまなことをしたいと思いながら、それが段々よこしまなことをしなければならない、気が済まないとこんな気分になってきた。暗闇の色をして流れる神田川を見ながら、何か投げ込んでみたい、何ならいっちょ飛び込んでみようかとか思ってみたが、欄干から見下ろすと川からやけに不吉な異臭がしてこれも何だかいやになった。相変わらずどこにも人はいないが、警察ばかり徒にあちこち往来している。そうして僕は、何だかんだ言って結局このまま何もよこしまなことをせずに部屋へ帰ってしまいそうな気がして、段々不安になってきた。それからものの二十分も歩けば、初めの幸福な尊大さも徐々に息を潜めてきて、とにかく何かよこしまなことをしなければ救われないような気がしてならなくなってきた。

 

 こうして僕は一人ラーメン屋の戸を叩いた。そこには、入試の時僕の隣でコアラのマーチを食べていた髭もじゃの男にそっくりな謎の男が一人ラーメンをすすっている以外には誰もいなかった。何なら店員もいなかった。途方に暮れていた所、やがて店員が中から出てきて、僕はラーメンを食べることに成功した。

 

 僕はラーメンがそれほど好きな訳ではない。友人と食べに行くことはあっても、自分から行こうとはまず思わない。ましてや、終電が終わるような時刻にものを食べるなんてことは尚更ない。それでも僕がこうして真夜中にラーメン屋に入った理由は、他でもなくこれが僕にとって非常によこしまな行為だったからだ。

 

 実に下らないかもしれない。実に馬鹿馬鹿しいかもしれない。おまけに僕はその時大して空腹だった訳でもなかった。しかし、「超人」の錯覚に酔いしれて、「超人」たる所以を発揮しようと試みた結果、かくも遺憾なき月並みの面目を露呈してしまった情けない僕の目の前に現れたあの平凡なラーメンの一杯ほど、僕に深い甘美さをもたらしてくれたものはない。その時、もはや自分が超人ではないことには気付いていた。だけれども、あの時思い立った以上何かよこしまなことをしないではいられなかった。とはいえ自分には閉店中のブックオフに入ることすらできない。それでもなお、よこしまなことがしたいという「凡人」よりも惨めな僕を救済したのは、普段なら見向きもしないラーメンそのものだったのだ。夫れラーメンとは、常に大匙一杯の背徳感と自己嫌悪とを加えることで初めて完成するものなのである。

 

 僕たちは、この体験から夜食の成立する瞬間を見出すことができる。つまり夜食とは、本来取る必要のない栄養を摂取することである。それゆえに、夜食は本来何か食べたいとは思っていない時に食べられるべきである。換言すれば、夜食とは別に何かを食べたい訳ではないが、しかし何かを食べないではいられないという屈折した衝動によるものでなければならない。僕はこの本質的な屈折性に、普段の三食(の根本)には絶えて見られない高度に人間的な様相を見るのである。してみれば、夜食とは三食に準じて「四食目」とされるべきものではない。なぜなら、普段の本質的に動物的な三食には見られない極めて人間的な食文化の可能性を僕たちに提示しているからである。夜食とは、普段の食生活では絶対に味わえない全く異質にして新鮮な人間的喫食体験なのである。

 

 また夜食の出発点であるこの屈折性は、人間的であるがゆえにこれと特定しうるものではない。僕が夜食を発見したのが、たまたま「エセ超人状態」後の幻滅を満たす瞬間であっただけで、これがいわゆる「やけ食い」であっても何であってもいい。要は、身体は全然欲していないのに、何故か食べずにはいられないという屈折的で強い衝動のなすがままに真夜中にものを食べること、これである。ただ残念ながら、そういう時間帯に口に入れられるものは大抵身体に悪いものばかりである。しかし――むしろだからこそ――夜食は人々を類稀な恍惚の境地へと誘うのである。

 

 

 

*1:僕はここで一日の最後に採られる第三の食事として夕食を定義している。また僕が本文で夜食をかように定義するにあたり、単純に空腹=欲求を満たすために夜食を採る一部の人はやはり疑問を禁じ得ないと思う。しかし僕は、ひとり欲求を満たすがためだけに夜間の喫食を事とする人には、到底爽快な朝食なんて訪れないことを知っている。その意味で僕は、その手の夜食を単に普段の三食に準ずるものとしてしか扱わない。そしてこの見解は、多分に僕自身の経験に基づくのであるが……。

 余は石だらけの土手のやうな處を歩いてゐた。夜である。ぢやり〳〵と歩きながら、余は何やら考へ事をしてゐた。凡そ世のくさ〴〵の美は、形式美と内容美とに別れると云ふ者があるが、そんな事はない。よしんば別れた處で、それが、騎士の持つ剣と楯とのやうに別れたまま物體の性質となることなんぞある筈が無い。余はずん〳〵道を歩いてゐた。

 真黑な空の中に滿月が出てゐて、その下をつがいの鳥が飛んでゐた。道には余の他には誰もゐないし、左手には月に照らされて、遠く見えなくなる位迄河が廣がつてゐた。風は、反對側の遠い山脈の彼方から吹き下りて來る樣だつた。

 余の考へてゐたのは何も難しい事では無い。美しいものを畫なり詩なりに描いても、腕が悪ければ醜くなる。筆を知らぬものに新粧に倚る飛燕を畫かしめた處で、その美が市井の婦女にも及ばないのは當然だし、詩の韻律や言葉を誤れば、矢張り中身も外身も遺憾無き月竝の面目を露呈して了ふに違ひない。余は段段いら〳〵して來た。

 相變はらず明月は河に入りて两鳥は還り、斜風は地に接して一途は曠しい樣であつた。山は圓い木の一本〳〵が白い光に映じて奇麗だつた。道は、どこまでも果てる事のないやうに思はれた。河が潺湲と流れてゐた。水はさら〳〵と美しい音を立てた。余は、目を閉じていつまでも河の音を聽いてゐやうと思つた。

 つまり、形式美と内容美とは、互いに獨立するものでは無く、寧ろ渾然一體となつてゐるのである。その交はりが複雑なのだから、時時どちらか片一方しか見えなくなつて了ふのである。例へば小説なんてだうだ、今や讀む者は殆どが内容美ばかり見て、外側はまるで無視してゐるでは無いか。余は更にぷん〳〵腹を立てた。この雙つの美は、少くとも互いに妙合せねばならぬ。美はごちや混ぜなのだ、さうに違ひ無い。

 そこ迄考へた時、突然目の前に大きな男が現れた。と云ふより寧ろ、余はぶつかりさうになるまで男に気付かなかつたのである。男は余をぬうと見下ろして「ぢやあ、澤山混ぜてみやう」と云つて、早足で何處かへ歩き出した。余は、はつとしたが、そのまま男に附いて徃つた。

 間も無く、余等は土手の下にある古びた饂飩屋に着いた。饂飩屋の中は狭かつたが、奥行きが妙にあつた。窗から差し込む斜光も縷縷として頼無く、天井にぽつんと提灯のやうな明かりがめら〳〵と燃えてゐるだけで何となく陰氣であつた。机も長くて白いのが雙つ竝んでゐた許りで、奥の厨房には例の男とまう一人別の男が彼方此方動き廻つてゐた。余が坐つた斜向かひには、見知らぬ老人が白い鬢を口や顎の鬚と繋げてもぢや〳〵とさせてゐた。老人が厠に立つた後で、余はがちや〳〵と騒がしい厨房に向かつて月見饂飩を所望した。

 饂飩が來た。しかし例の男が持つて來て、余が饂飩だと思つたのは、白い丼に這入つた卵かけ御飯だつた。湯気を上げる白米の上で卵がぷる〳〵と搖れてゐた。ただ、机に醤油が無かつたので余は随分弱つて了つた。手を叩いて醤油、醤油と云ふと、あの變な男と同じ顏付をしたまう一人の別の男が、老人の卵御飯と一緒に醤油を持つて來た。余が醤油をかけてゐると、老人が帰つて來た。老人は雙つの眉をぴく〳〵とさせたが、直ぐに醤油をかけ始めた。

 御飯は卵と好く混ざり、米の圓い粒粒は一つ〳〵が陸離として琥珀のやうであつた。箸を差込むと、米はもす〳〵と音を立てヽ離れ、中からぼわ〳〵と湯気が現れた。絶妙な温度と、醤油の香ばしさが堪らなくて、余は忽ち丼一杯を平らげた。丼の底には二匹の黃色い蛇の姿が描かれてあつた。時を同じくして老人もまた平らげたやうで、余等は滿足げな表情を浮かべながら同時にとんと丼で机を突いた。

 ところが、丼の中には湯気を上げる白米がびつしり這入つてゐて、矢張りその上に卵がぷる〳〵と搖れてゐたのである。老人は瞠目しては頻りに汗を拭いてゐた。余は水を二杯飲んで、それからかつと括目してみたが、矢張り卵は搖れ續けてゐた。余等は再び醤油をかけて、陸離とした卵御飯を食べた。味は變はらなかつたが、かなり苦しかつた。一杯目の倍程の時間を掛けて、漸く丼を平らげた。矢張り底には黃色い蛇が二匹ゐた。ちり紙で口邊の卵を拭き取りながら老人を見ると、彼もまた安堵した表情で口を拭きながらこちらを見てゐた。老人の鬚は卵でべた〳〵してゐた。

 だが一息ついて丼を見てみると、中にはまた白米がもり〳〵と積もつてゐて、窗から入る真白な斜光に復た照らされた卵が黄色いまヽで悠悠とその上を動き囘つてゐたのである。厨房はがちや〳〵してゐた。余は頻りに汗を拭きながら老人の方を見た。老人は愕然として、顎の位置が定まらない樣子であつた。その後余等は何度醤油に手を伸ばしたか知れない。白い机には、卵で出來た丼の底の跡が無數に附いてゐた。鬚が卵だらけになつた老人は、軈てあう〳〵と聲ならぬ聲を上げながら椅子から轉げ落ち、そのまま厠までばた〳〵と這つて徃つた。

 醤油を手に持つて、だうしやうと思案してゐると、がちや〳〵してゐた厨房が突然森閑として、物音一つしなくなつた。厨房の方を見ると、二人の男はきつと首を廻して、此方を凝視して來た。強い視線に割れて了ひさうな氣持ちがしたので、余は慌てヽ目を反らした。すると俄かにかたつと云ふ音がして、男が一人厨房の彼方からばた〳〵と驅けて來た。目や服や手が黄色いやうな濁つた變な色をしてゐた。余は思はず卵御飯の這入つた白い丼をひつくり返して、底を上にして置いた。底にも蛇がゐた。余は底を上から两手で抑えた儘、だうにも動けなくなつてしまつた。

 

詩人

 先日ある授業を受けていた折に、先生が突然李白になった。少し虚ろな目になりながら彼方此方を歩き回っては頻りに長吟している。柳の様な二束の口髯をしくしくと情けなく垂らし、それぞれが歌に合わせて根元からわさわさと揺れ動いていた。三盃通大道、一斗合自然と中国語で言いながら僕の横を通った時、次は何だっけなと考えていたら、どんと僕の席を叩いて「君、それじゃいかん、風雅の道に逍遥こうではないか」と言った。声も無くぼんやりながめていると、忽ち髯を上下に振り、続きを歌いながら教室を出てしまった。

 月が好かったので、寮の屋上で酒を飲むことにした。空気は冷冽として僕の皮膚をちくちくと刺した。透明な白酒の中に、円くて皓い月がゆらゆらと揺れている。少しばかり風雅の道にぶらつこうと思って、君と長吟してみた。何となく後は続かなかった。

 杯の中に月が無くなったので、二杯目を接いだ。また月がきれいに出てきた。何だか大きくなっている気がした。杯を上下に振りながら花間一壺酒と言って見ると、やけに楽しくなってきた。僕は酒の泡沫をのべつ幕無しぺんぺん飛ばしながら矢鱈に長吟した。月がさかずき一杯に広がってきた時、寮友が上がって来て、夜中に歌うのはよせと言って来た。僕は無視して三杯目を接ぎ、また君と声を響かせた。

 黄河之水天上来と言った時、急に頭から水を浴びたような気になって身震いをした。辺りも随分濡れている様に見えた。杯の中には小さな波紋が且つ生じ且つ消えながら月をもみくちゃにしていた。雨、と思って天を仰いだ時、月はもう空一杯に広がっていて、僕が月だと思って見ていたものが実は空だった事を知った。

 月の様な色の空は迢迢として果てしなく、盆槍と明るくて何だか夜か朝かも分からぬ按排であった。遠くの方まで絶巘が連連としていて、上の方は岩ばかりで厳めしかったが、麓へ目を遣ると、ところどころに樹が生えていた。河が流れている。本当は大きいのかもしれないが、そこから見ると潺湲と流れる小川に一般であった。暫くの間、少し虚ろな目をしながらそこを去るともなく低徊しては、遠くを眺め遣って酒を飲んだ。すると何だか世の中に僕一人しかいないような気がして随分と楽しくなった。杯を干し、目を閉じて君と声を伸ばすと、何処までも響いて行くらしかった。声が随分と遠くなったので目を開けると、鼻の下辺りから二筋の髯がしくしくと情けなく胸の辺りにまで垂れているのが見えてぎょっとした。風が吹いて、髯は俄かに紡錘形に広がった。

翌朝目が醒めると、酷い寒気と頭痛がした。雨は降り続けている。褥にくるまっていると、寮友が粥を持って来た。僕は寝返りを打って背を向けたまま、何時までも狸寝入りをしてやまなかった。

 

電氣

 寮の六畳の自室に歸つて外套を脱ぐと、奥の窗際にある寐床の上に見知らぬ女が獨り寐てゐた。茶地に黑い猫と其の足跡が無數に描かれた掛布團をすつぽりと被りながらじつとこちらを見てゐた。邊りがまう随分と暗くなつてゐるために薄盆槍としてゐるが、然し相當に日焼けしてゐるやうで、一見するに何處に眼が有るのかがはつきりしなかつた。布團の下には肩が露わになつてをり、服を着てゐないのだらうかと思つた。私は女性用の服を所持してゐないので、だうしたものかと困惑した。「きみ、窗を開けてゐて寒くはないかね」と私は云つた。部屋の窗は網戸になつてゐて、先程から黃色い窗掛けがやけにふわ〳〵してゐるのである。外套を右腕に掛けた儘、私は窗の方へ徃き、女の上を橋のやうに伸びあがつて、寐床の奥の窗を閉めた。「布團があるですので、寒さは、大丈夫です。」と女は布團の中をかさ〳〵と動きながら云つた。

 外套を掛けて椅子に座つた時、やつと部屋が真暗な事に氣附いた。私が電氣をつけねばと思つた時、女が突然「それはいけませんです」と云つた。オヤだうしてだねと訊くと、たゞ「電氣はいけませんです」と云ふのみであつた。見ると、矢張り同じやうに女は布團を被りながら私を見てゐた。私が布團に這入つても、女は私を見續けてゐた。

 突然降り出した雨が窗を叩き、泡沫となつて雨樋をだら〳〵と流れて徃つた。窗から見える大きな樹はびつしょりと濡れてぐつたりとしてゐた。私は睡郷へと赴きかけたものゝ、女は中中眠らうとしない。眠らぬのかと云つても「夜だと眼が冴えて了ふのです。」と云ふばかりである。さう云はれると私もなぜか急に寐附けなくなつて了つたので、何か物を食べやうと云つて布團を出た。女も附いて出て來た。私は何か食べたひ物はあるかと云つたが、食べる物は大して何もなかつた。冷蔵庫にだつて何もなかつたが、私は中を探すふりをした。すると女はがさ〳〵と音を立てゝ何處かへ徃き始めた。何だと思つて見ると、女は小さな尻をこちらに向けながら――そして何故かその尻もこんがりと日焼けしてゐた――赤子のやうに這つて部屋の出口に向かつてゐた。「出ちやいかん、この時間帯寮内は女性立入り禁止なんだ」と云つたが、然し女は出やうとしてゐた譯ではないやうだつた。見ると、女は扉の脇に置いてある茶色い小さなごみ箱を見下ろして、俄かにそれを漁り出した。私は突然目前で堂堂と昔の日記を盗み見られたやうな心地がして、慌てゝ「それはごみ箱だから、食べられるものは無いよ」と諭した。女は「私、嫌いな物はありませんです。」と云つた。さうか、それは好い心掛けだと私は納得したが、然しごみ箱を漁られるのには閉口したので、女をごみ箱から離して、たま〳〵あつたどら焼きを食べる事にした。どら焼きはこんがりとした焦げ茶色で柔らかく、糖分の多い表皮は明かりの少ない部屋の中にあつてもつや〳〵としてゐた。女は私の前で膝を前に出して座り、矢印のやうに两脚を左右に投げ出した格好をしてゐた。女は两手でどら焼きを持つてもそ〳〵と少しづゝ食べてゐたが、一口齧る度に五分ばかりは咀嚼して食べた。食べてゐる處を私に見られるのが堪らなく厭なやうで、極端に前かゞみになりながら、これまた確り日焼けした首を私に向けて、私の見えない處で食べやうとしてゐた。随分と辛さうだつたので、私は部屋の扉の方を向いてやる事にした。

 然し女が何時までたつても食べ終わらうとしないので、私は段段薄氣味惡くなつて來た。まう一時間はたつたやうな氣がした。どら焼きを食べるのに一時間もかかる筈がない。だが、私が食べ終わつたかと訊いても「まだです。」と云ふばかりで、またもそ〳〵と食べ始めるのであつた。私は何だか怖くなつて來た。一刻も早くこの女を置いて何處かへ逃げないといけないと感じた。後ろからは、相變はらずもそ〳〵と音がする。私が逃げ出さうと氣を固めた時、女は「電氣はいけませんです」と云つた。さうだ、電氣を附けてやらう、電氣を附けて、急いでたれかの部屋へ避難すれば好い。私はさう思つて、女が何やらごによ〳〵と騒ぐのも無視して扉の左の壁に附いてゐる電氣のボタンを押した。

 「ちくしやう、この野郎」と云ふ聲がしたが、驚いた事に振り返つた先に女はゐなかつた。やがて欠けたどら焼きの下から一匹の雌が這い出して、私の两脚の下を潜り抜けて、一目散にかさ〳〵と扉の下の小さな隙間を通つて、何處かへ消えて了つた。

鹿

 紂王が球琳金華に偃蹇たる煙火の裡に塵埃となった爲に、人間は忽ち周の世になつた。雪谿の既に溶けて了つた春先の事である。革命の知らせを受けた兄弟はいそぎも懇ろにせず、須臾のうちに軀に七穴を開けむばかりの勢いで胸裡に膨れ上がらむとする正義を抱へたまゝ、棲家を飛び出した。二人は康衢の好奇の眼も顧みず、糊口の憂慮の念も催さないで千里も一日と驅けに驅け抜いて、たう〳〵或る日の夕刻首陽山へ辿り附いた。

 周は不義の國であつた。周の文王は殷によつて西伯に任ぜられた。つまり周は殷の諸侯であつた。諸侯でありながら主君を殺すのは不義の至りである。加之、文王の子武王は、父の葬儀も丁重にせぬ内に文王の威光を頼りて紂王を誅した。此れもまた不孝の極みである。此處に於いて、兄弟は周の粟を食らふを好しとせず、二人して山中に逃げたのであつた。

 ざく〳〵と一刻ばかり只管石径の斜めなるを歩き續けた二人は、少し戸惑つてゐた。邊りに食べられさうな物が絶へて無かつたのである。天は宵に近い。首陽まで驅け續けた肉體は疲弊し、喉も渇いてゐた。邊りに生えてゐたのは、東月の斜光に些か燦燦として照る靑苔か、何だかよく分からぬ背の高い針葉樹位であつた。それから、それから石も澤山あつた。弟は團子の樣に圓圓とした石を拾つて盆槍然と眺めてみたが、やがて杳然とした深林の奥目がけて投げ捨てゝ了つた。

 ぼちやと云ふ音がした。弟は目を瞠つて、くらい林の奥を覗き込んでみた。まう一度投げ込んでみると、矢張りぼちやと云ふ音がした。邊りが暗いのもあるが、木木の先に何が有るかは絶へて分からぬのであつた。とは云へ、此の先には水があるに違ひなかつた。二人は欣喜して、互ひに慫慂し合ひつゝ林間を走つた。

 間も無く木木が無くなつて、湖に辿り着いた。暗中目測に堪へぬの感はあるが、せい〴〵奥行十間足らずの樣だつた。二人は岸にこゞんで、がぶ〳〵と水を飲み始めた。枯渇した身に這入る清水ほど美味いものは無い。美味いよ兄貴なんぞと云ひながら、二人は何時までも飲み續けた。

 昧爽岸邊で醒めた二人は、自身の更に幸運なるを悟つた。昨晩は水を得た喜びと暗さと疲勞とで氣附かなかつたが、二人の目前に一軒の蝸牛廬があつたのである。人のゐる氣配は無い。戸口には蓁蓁と薇が生えてゐるのが見えた。すでに廬を結ぶ手間も無くなつた。飲食の心配も無い。此處でかうして細細と隠遁しておけば、市井では兄弟が義士として人口に膾炙し、あはよくば來者の傳へ聽く處の者となつて徃くのでは無いだらうか。二人はそんな事を考へながら薇を二三束むしり取つて中へ這入つた。

 外から足音がするのを聞いて、二人は薇を齧る手を止めた。外を見ると、一人の老婆が此方へ向かつて歩いて來てゐた。老婆は背が圓く非道く尖つた眼をしてをり、くすんだ黃綠の襤褸を着てゐたが、それは黃綠と云ふより寧ろ全ての色を混ぜて水で薄めた樣な下品で汚い色だつた。背は稲穂のやうに垂れてゐたが、筇は突いてゐない。諸手を腰に當てたまゝ歩いて來た。

 「吾吾は不義の國である周を嫌い、周粟を食らふを好しとしなかつた義士である」兄は、老婆から何も云はれぬ内からづか〳〵と歩み寄り、いやに胸を張つて云つた。弟も慌てゝ兄に續き「義士である」と、稍荘厳に繰り返した。老婆は暫く上目遣ひに二人を睚眥してゐたが、そのまゝの表情で乃ち「周粟を拒むくせに周の薇は食らふのぢやな、望み通り來者の傳へ聽きて笑ふ處の者と爲れるぢやらうて」と云つた。兄弟は、薇をどさと落として了つた。老婆は續けて「わしの見ぬ處でだうしやうと勝手ぢやが、間違つても殺生を起こさうなんぞと考へるでないぞ」と云つて何處かへ去つて徃つた。

 それから數日間、兄弟は薇の束を捨てゝ、盡日物を食らふ事無くじつと堪へた。或る払暁、突然霞が廬を掩蔽した時、二人は空腹に堪へられなくなつて外へ出た。廬の外には春霞が一面に廣がつてゐるので、腕を伸ばした先に何があるかは絶へて分からぬのである。とは云へ、腕の先には指があるに違ひない。それ位邊りは白色に滿ちてゐる。兄は實に弱つたと許りに肩を竦めているが、隣の弟はやけに鼻息荒く佇んでゐる。霞を食らふを得たりと云つて、鼻から口から烈しく呼吸をしてゐる。深く霞を吸つてみると、豈にはからんや、舌上には僅かに水の甘味が漂ひ、その甘味の消えぬ間に鼻腔の奥や咽頭の邊りに妙に冷冽な感覺がして、それが忽然として胃の中へ蓄積して行くのである。とは云へ、後世に云ふ仙人の食らふ霞は、本來は霊木や霊地なんぞの氣を表すもので、春に浮く本物の霞ではない。兄弟は、云はゞ初めて倒錯した形に於いて霞を食らつた者であつたのかもしれない。兄は、より多くの霞を食らはんと欲して闇雲に驅ける弟の音を聞きつゝ、頼り無い滿腹を得るまで食事をしてゐる。足音が消えた頃、矢張りぼちやと云ふ音がした。

 次の朝には、兄弟は湖の畔で、こんもりと盛り上がつた蒼色の苔のもとにこゞんでゐる。霞が露になつて表面は些か燦燦としてをり、見るからに柔らかである。二人は苔を少し摘まんでみた。すると苔はもす〳〵と音ならぬ音を鳴らして剥がれていく。掌を轉がる苔はふんわりして、中には空氣と水とが豐かに含まれてゐる。さうして底の方には薄く土が附いてをり、其處は至極湿潤でありながら微かにざら〳〵してゐる。口に入れると、苔は根菜の葉の樣に極端な苦味を伴つてとろけ、一方で恰も口内に依依とした樣で留まらむとする土の優美な甘味が相對的に際立つて感ぜられる。微笑む弟の顏を見た時、齒と云ふ齒が不氣味なまでに鮮やかな綠に染まつてゐたので、兄は俄かに恟然として了つた。

 銀色の女鹿が軈て杳然とした深林の奥から歩いて來ても、二人は湖の水で渇きを癒さむとしてゐる。鹿は月の樣に輝いて豐満を極め、だらしなく乳をぽた〳〵と垂らしながらこゞんだまゝの二人の下へ近附いて來る。立ち止まつた鹿の足元には小さな乳溜りが出來てゐる。兄弟は無言のまゝ見つめ合つてゐる。二人は長らく獸肉から離れてゐる。豐かに肥え太つた女鹿は、二人にとつて至高の魅惑である。二人はどの樣にすれば上手く屠る事が出來るかを考えてゐる。兄は二人で抑へて絞めてやらうと考えてゐる。一方で、弟は溺死させるのが効果的だと考えてゐる。なぜなら、眼前の太つた女鹿の力は、慢性的に衰弱した自分達を凌駕しうるかもしれなかつたからである。だが二人掛かりで湖に突き落としてやりさへすれば、後は浮き上がつて來るのを待てば好いのである。御馳走は目前にじつと佇んでゐる。兄弟は堪らなく嬉しい氣持ちになつた。

 まさに弟が兄に自分の意思を傳へやうと決意した時、鹿が大きく嘶いた。二人が驚く間も無く、女鹿は逃げ出して徃く。兄弟は慌てゝ追いかけたが、女鹿は忽ち霞の中に見えなくなつて了つた。

 がつくりと膝を突いた時、突然霞がさつぱり消えて無くなり、二人はこれまで食べて來た物が、本當は全然大した物ではなかつた事を気附かされた。湖の水面が、笑ふやうにぴく〳〵と風に波立つてゐた。それぞれの手に萎れた薇を握りながら、兄弟は庵のそばに倒れ込んで、やがてぴくりとも動かなくなった。