暁命堂雑記

ときどき書きます。

そこには、虚構しかない。――小説的、没現実的な空間2

天安門へいった。

 

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天安門を知らないという方はおそらくいないと思うが、簡単に説明すると、天安門とは北京市の中心部に位置する城門で、かつては故宮(いわゆる紫禁城)の正門だった。ここの楼上で毛沢東中華人民共和国の建国宣言を行ったり、中国の国章に天安門が描かれたりするなど、いまや中国の象徴となっている。(ちなみに政府があるのは天安門の奥ではなく、ここの西側に隣接する中南海という場所だ。天安門の奥、かつての故宮には故宮博物院がある)

 

この有名な天安門広場だが、実際にここになにがあるかを知っている人は日本だと意外に少ないのではないだろうか。そこで実際に地図を見てみよう。

 

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天安門広場の地図。

画像:http://www.onegreen.net/maps/HTML/25816.html

 

これが天安門広場の略地図だ。地図だとあまり大きさが伝わらないかもしれないが、じつは南北880メートル、東西500メートルとかいう頭のおかしい規模を誇っている。なので、人民大会堂(中国の国会議事堂)から国家博物館(地図中では「革命博物館、歴史博物館」と表記されているが、いまは国家博物館という)まで歩いて移動するだけで結構疲れてしまう。

 人民英雄記念碑というのは、革命や戦争に殉じた「同志」たちをまつる無名戦士の墓(ベネディクト・アンダーソン的な)で、その南の毛沢東記念堂はその名の通り毛沢東をまつった建築で、毛沢東の遺体が安置され、一般公開されている。

 

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上から、国家博物館、人民大会堂、人民英雄記念碑、そして毛沢東記念堂。

 

さて、勘のよい方なら気づいたかもしれないが、先日記念館について熱く語ったぼくがここで天安門を取り上げた理由は、この広場にある国家博物館を紹介するためだ。天安門のあたりにある博物館といえば故宮博物院のほうが有名かもしれないが、じつはここにはもう1つ大きな博物館がある。故宮は有料だが、こちらはなんと無料で入れてしまう。たいへん素晴らしい。

 

例によって金属探知機を通り抜けてから入館する。この博物館は、建物内で北区と南区に分かれている上に全4階建てで地下1階もあるというたいへん巨大なつくりになっているので、そんなにじっくり見なくても、全てまわると5時間くらいかかってしまう。おまけに夕方4時半には閉まるので、ぼくは一度でまわり切れず、後日もう一度いかねばならなかった。

 展示は基本的に企画展示で、体裁も落ち着いており、まさしく論文的で典型的な博物館という印象を受ける。(詳しく書いていると終わらなくなるので省略するが……)今回重要なのはむしろ常設展のほうで、これは「古代中国」と「復興之道」の2か所に分かれている。前者は北京原人とかの話から清王朝までの歴史を博物館的な文化財の展示によって淡々とたどっていくものだが、清末から現代までをたどる後者は打って変わって、抗日戦争記念館を彷彿させる激しい展示を展開している。早い話が、北京原人まで遡って共産党政権へ歴史を接続し、その正統性を主張しようという魂胆なのだろう。

 

ぼくが「復興之道」を見たのはほかの全ての展示を見た後だったのだが、入ってすぐに「第一単元 天地開闢以来の大事変」と書いた大きなパネルがどどーんと目の前に現れたのにはさすがに面食らった。

 

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前々回の記事で見たように、抗日戦争記念館は「満州事変で日本軍の侵略を受け、われわれは国共合作して立ち上がったのだ」的な始まりを見せるのだが、こちらでは「帝国主義の列強の侵略を受け、マルクス主義に目覚めたわれわれは五四運動(北京から全国に広がった日本帝国主義反対運動)によって立ち上がり、団結して共産党を結成した」ということになっている。

 

この違いは、とりもなおさず「日本を倒したわれわれ中華民族」と「資本主義に打ち勝った共産主義のわれわれ」という、2つの国民国家の歴史的起源としての「われわれ」が多重人格的に共存していることを表している。

 つまり、戦争記念館であれば、日本を打倒したことが最も重要であるため、物語の始点、つまり「われわれ」が立ち上がったのは満州事変以後になっており、1945年9月3日の戦勝記念日(日本がポツダム宣言に署名したつぎの日)が決定的な日になっている。一方で、国家博物館の「復興之道」では、日本と中国の戦いよりも資本主義と共産主義の戦いに主眼が置かれており、「われわれ」が立ち上がったのは1919年の五四運動および1921年共産党結成においてであり、最も決定的な日は1949年10月1日、つまり国共内戦に勝利して中華人民共和国が成立した日になっている。戦争は国民党との共闘であったため、戦争記念館ほどには大きく語られていない。こうした「われわれ」の分裂は中国だけでなく日本や韓国でもみられる(※7)ことであり、(素人ながらも)いまの外交関係(とりわけ東アジアの関係)を考える上でたいへん重要な問題であると思う。

 

少し話がそれてしまった。「復興之道」の展示に戻ろう。展示は前後半に分かれており、前半が列強の支配から共産党の成立、国民党との闘争、それから太平洋戦争までを描き、後半が国共内戦から中華人民共和国の成立を描き、経済成長を経ていまに至るという流れになっている。戦争記念館ではすっとばされていた戦争以後が語られていたが、悪名高い大躍進政策や、中国最大の内戦ともいわれるイデオロギー闘争である文化大革命は当然のように抜け落ちていた。例によって新しい絵画や銅像、モニュメントがあちこちに設置されており、中学生の団体も来ており(巨大な博物館のほかの展示室では一人も見かけなかった)、最後には期待通り感想を書くノートが設置されていた。

 

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展示の一例。

 

ここでみなさんは、きっと不思議に思われることだろう。なぜなら、かつて提示した小説的な記念館と論文的な博物館という見立てでは、国家博物館の「復興之道」を説明することができないからだ。ぼくたちは、ここでこの見立てを一度崩さなければならない。

 

とはいえ、少し考えると問題はそれほど複雑ではないことがわかる。もう一度天安門広場の地図を見てみよう。そこにあるのは人民大会堂と国家博物館、人民英雄記念碑、それから毛沢東記念堂などだった。現代をいきるぼくたちにとって、天安門広場といえばこうしたものが存在する象徴的なイメージが定着しているが、当然ながら、もともといまのような状態であったわけではない。

 下の写真は清の時代の天安門および広場を写したものだ。明や清の時代には、天安門故宮の正門として機能しており、勅書の公開、科挙の合格者や裁判の結果などを発表する場所だった。広場はいまよりもずっと狭く、広場というより大きな丁字路といった方が適切かもしれない。当然、天安門に皇帝の肖像が掛けられるといったことはなかった。

 

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清の時代の天安門広場。奥にみえるのが天安門

画像:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4bad45ac0100a9bj.html

 

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 清朝期の天安門広場の地図。

画像:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4bad45ac0100a9bj.html

 

20世紀になると、天安門は北京を掌握した権力者によって利用されていく。かつては孫文蒋介石の肖像がここへ掛けられ、戦時中は日本軍が「建設大東亜新秩序」というスローガンを掲げたこともあった。また、スターリンの死に際して彼の肖像写真が掲げられたこともある。意外なことに、結構いろいろなことをやっているのだ。

 

天安門広場が現在のかたちになったのは中華人民共和国が成立した現代(※8)になってからで、1954年と1958年の二度に渡る天安門広場拡張計画によるものだ。1954年には丁字路の先にあった長安左/右門、中華門および丁字路の外側にあった役所や倉庫などの建築が撤去され、広場が拡張されたほか、人民英雄記念碑が建設された。

 1958年には建国十周年を翌年に控えたこともあり、さらに大規模な拡張計画が提案、実施される。この時、広場の総面積は44ヘクタールも増加し、東西に人民大会堂と中国革命博物館および中国歴史博物館(つまり、のちの国家博物館)が建設された。そして約20年後の1977年、毛沢東の死去に際して毛沢東記念堂が建設され、天安門広場はほぼ現在の形に至る。

 

もちろん、天安門自体がもともと政治の中心地に位置していたことは間違いないのだが、こうしてみてみると、中国の象徴として現在の地位を築き上げるのは随分最近になってからだということがわかる。

 つまり、毛沢東の肖像をはじめ、人民大会堂や国家博物館、人民英雄記念碑、それから毛沢東記念堂といった天安門広場にある象徴的なものは、全て中華人民共和国成立後に天安門(広場)を機能的/地理的な中心から象徴的な中心へと転換させるべく徐々に付加されていったものなのだ。(もちろん、この性質転換が可能だったのは、ここが五四運動の現場になるなどもともと象徴的な性質を帯びていたからでもあるのだが)

 

 大胆に換言すれば、現在の天安門広場は、共産党によって象徴性を塗りたくられた虚構の空間にほかならない(当然ながら、ぼくはここで虚構という言葉をうそ・まがいものという意味で使っていない。むしろ、物語的想像力に満ちた、という程度の意味で使っている。というのも、ぼくは国家にはそうした物語的想像力が必要だと思っているからだ――念のため)。

 したがって、天安門広場にある国家博物館は、博物館であるという前にまず天安門の意図的な象徴化の過程で生まれたことを念頭に置かねばならない。さきほどもいったように、共産党政権を歴史に接続し、正統性を主張することが、ここでは最も重要な目的だった。(そう考えると、国家博物館は王朝が交代するたびに国家事業として前の王朝の歴史書が書かれるというこの国の伝統の変相した形態だといえるかもしれない)いうなれば、国家博物館とは、論文的な博物館的空間に小説的な物語的想像力が介入した場所なのだ。

 

天安門広場との関係から見ることで、ぼくたちは国家博物館にある「復興之道」という異質な空間についてある程度明らかにすることができた。天安門広場には博物館がある。しかし、その周りは虚構=物語で満ちている。いや、それ自身もまた虚構を抱え込んでいる。

 

つまり、そこには、虚構しかないのだ。

 

最後に、もう一つ論点を付け加えよう。

ここまで見てきたように、「復興之道」の構造的異質性について理解するためには、たんに小説的記念館/論文的博物館という二分法で整理するだけでなく、天安門広場という場所との関係性の中で見る必要があった。

 とはいえ、たんにこの両者の関係だけを見てしまうと、どうしても「共産党プロパガンダだ!」とか「中共の偏った歴史観だ!」みたいな世にも残念な話になってしまいがちである。しかし、ここまで話を進めてきたぼくたちは、この関係性から1つ興味深い考察を引き出すことができる。

 

盧溝橋と抗日戦争記念館の関係を思い出してみよう。そこからは、もともとあった盧溝橋(じつは、かのマルコ・ポーロも褒めたとかいう伝説もある由緒正しい橋だ)のそばに強い物語性を持った小説的な戦争記念館が建設されることによって、現実の橋が記念館の熱気に気圧されるかのように地味な空間に成り下がってしまう(こういってよければ現実が埋没してしまう)という状況を見て取ることができた。

 一方で、天安門は、共産党の歴史の中で幾度も虚構的な象徴を付与されることによって、論文的な構造をもつ博物館に小説的な要素が介入するという状況を生み出した。

 

つまり、一見どちらも「洗脳だ!」とか「共産党プロパガンダだ!」とかいわれがちな戦争記念館と国家博物館の「復興之道」の展示だが、それが建築された空間およびその場所に流れた時間に着目すると、じつは全く正反対の構造および関係性を持っているのだ。

 

表面的には「共産党プロパガンダ」かもしれないが、その裏には小説的/象徴的な空間と論文的/無‐象徴の空間とのきわめてスリリングな相克関係が展開されている(※9)。ぼくらは、単純な記念館/博物館という二分法に安住せずに、常に外側の空間および時間との相関関係によって展開される場としてこれらの展示に対峙しなければならない。

 

「悲憤慷慨」も「無限の反省」も、すべてはその先にある。 

 

 

 

 ****

 

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お酒がとうとうなくなってしまった。みんなからっぽだ。

酒のみて~。

 

 

註 

 

7:東浩紀「ダークツーリズム以後の世界」(東編『ゲンロン3』(ゲンロン、2016年)所収)24頁以下。なお、ここではドイツの思想家イマニュエル・カントの、国際関係論を構想するにあたり、国家をもつ民族はひとつの人格とみなしてよいという主張に対し、東氏は文学者の加藤典洋の『敗戦後論』(講談社、1997年)を引用しつつ、昨今の外交問題は、それぞれの国家が1つの人格を持つのではなく、むしろ人格分裂をおこしていることにあると述べている。その時、分裂の契機となるのは「戦争や虐殺」といった大きな傷であって、それが言説の場を歪めるのだという。(たとえば日本は敗戦という傷を抱え、韓国は植民地支配と朝鮮戦争という傷を負っている)

そうであるならば、国家博物館の「復興之道」と抗日戦争記念館の展示は、とりもなおさず中華人民共和国が列強による国土分割と、日本の侵攻という2つの傷を抱えていることを示している。また、中国に関する問題をさらに複雑にさせているのは、この国が文化大革命という第三の傷を抱えているためだといえるのかもしれない。政府は公式見解で文革を完全否定しており、いまなお多くが謎に包まれたままになっている。しかし、改革開放以降、経済の民主化グローバル化が進んだ80年代以後の人は、多くの面においてそれ以前の人々とは全く異なる価値観を有しているとされており、ここにも「われわれ」が再定義されるような断絶を見て取ることができるのかもしれない。なお、80年代以降台頭してきた「中産階級」の実態を掴むにはジャーナリストのふるまいよしこ『中国メディア戦争――ネット・中産階級・巨大企業』(NHK出版、2016年)などが参考になる。

 

8:中国では、近代や現代という時代区分を表す言葉が日本と全く異なる射程をもっている。一般的に、日本では1878年明治維新(あるいは1853年の黒船来航)から1945年の敗戦までを近代と呼び、それ以降を現代と呼んでいるが、中国では多くの場合、1840年アヘン戦争から1919年の五四運動までを近代と呼び、それから1949年の中華人民共和国成立(これ以降の体制を中国では「新中国」と呼んでいる)までを現代と呼び、それ以降は当代と呼んで区分している。(それゆえ、たとえば批評家の柄谷行人の『日本近代文学の起源』は『日本現代文学之起源』と翻訳されている)しばしば、中国人にとって近代という言葉の意味が日本人のそれと一致しないのは、かれらにとって近代が不名誉で触れたくない時代であったからだという人がいるが、たとえその感情が本当であったとしても、むしろ、たんに時代区分の意識の差にあると考えるべきだろう。

また、この時代区分の差異は、中国(人)にとって終戦が日本(人)ほどの断絶を意味していないことを表している。もしかすると、読者のなかにはこのことを意外に思う方がいるかもしれない。しかし、それは日本にとってアヘン戦争や五四運動が大した断絶として存在していないことを考慮すれば至極当然のことのように思われる。もちろん、この時代区分を生む断絶の違いは、少なからず注七における「人格分裂をおこす傷」の問題と関連している。

 

9:とはいえ、読者のなかには、国立の歴史博物館とは得てしてそういうものだと考える方がいるだろう。それに、そもそも歴史を語るという行為そのものに選択と価値判断という批評性が存在している以上、歴史を扱う博物館と記念館の差異を語ることは無意味なのかもしれない。しかし、ぼくはそれでもなお(少なくとも中国においては)博物館と記念館との構造的な差異にこだわるべきだと考える。なぜなら、たんに中国の記念館と博物館はあまりにも様相が異なっている上に、本文でもいった通り、こうした展示施設は、構造的に区別することによって初めてそれらが存在する空間およびそこに流れた時間との関係性において把握できるようになるからだ。

交換留学の本質

日本では(新暦では)もう年の瀬だが、中国で年越しといえばもっぱら春節(旧暦の正月)を指すので、あと2日で2017年を迎えるというのに、年越しの雰囲気が一切感じられない。おまけに春節ひと月前のこの時期は、ちょうど試験の時期に当たっているのでたいへん忙しい。とはいえ、ぼく自身は試験も課題もとりあえず一段落ついたので、せっかくだからなにか書いてみようと思う。

 

ほんとうは先日天安門広場にある国家博物館へ2日間ほどかけていってきたので、それをもとに前回の論考の続きを書きたかったのだけど、天安門に関する文献が上手く集められそうにないので――日本から送ると、きっと税関に引っかかるだろう!――今回は仕方なく、折り返しを迎えた/迎えてしまった交換留学についてあれこれいってみることにする。

 

留学にいった/いっている人、あるいは留学生と関わりのあるひとはすでに知っているだろうが、大学院生を除けば、留学には大きく分けて4つの種類がある。語学留学、交換留学、ダブルディグリー(Double degree、双学位、以下DD)、それから正規の学部生(本科生)として入学するものだ。(大学以外の研究機関に所属するものもあるが、ここではそれは考えない)

 

語学留学は、いうまでもなく現地の語学学校や、大学にある語学教育センターに通うもので、たとえば早稲田には日本語教育センターがあり、北京大学にも対外漢語学院というものがある。語学留学へいくと、こういったところで専門的な語学教育をうけることになる。

 

交換留学も、わりと一般的だと思う。留学先の大学で「現地の学生」と一緒に授業へ出る。当然同じ課題をこなし、同じ試験をうける。大学とかでいやというほど目にする「ぼく/わたしめっちゃがんばった!」系の留学体験記は、だいたいこうした語学面でのハンデに由来する。さほど習熟していない外国語で臨むのだからそんなのは当然だろう。なんならぼくもたいへんだった。

 

DDというのは、聞きなれない人もいるかもしれないが、簡単にいうと留学先の大学の学位も取れてしまうプログラムのことだ。これは大抵それぞれの大学同士が提携して行っているもので、たとえば早稲田は北京大学と提携しており、同学の国際関係学院へ1年留学して(上手くいけば)学位ももらえるようなプログラムを用意している。逆もあるのかもしれないが、文学部のぼくの身の回りには、北京大学からDDで早稲田に来た人はあまりいない。

また、これの大きな特徴はカリキュラムがとても過密していることと、選択できる授業の種類に限りがあることだ。それこそ早稲田のDDだと、日本で何を学んでいようと北京大学ではだいたい国際関係の授業しか取れないようだ。(もちろん、それに関心があればたいへん魅力的なのは間違いない)

 

それから正規の学部生として来るもの、これは留学(生)に関係なければ意外と知らない人も多いかもしれない。しかし、いまぼくが主に出入りしている北京大学の中文では、交換留学生よりも正規の学部生の方が圧倒的に多い。実際、交換留学生の友人は数えるほどしかいないが、学部生の友人はすでに結構できた。日本にいたときから感じていたが、学部生として来ている彼ら/彼女らは(なかんずく語学に関しては)かなり強い。それだけ学習歴も長かったりするのだが、もうとにかくすごい。

 

さて、こうして簡単に4種類の留学形態を整理してみたわけだが、こうやって見ると、わりとそれぞれタイプが異なっていることに気付くことができる。そこで、それぞれの留学形態に関して、相互に代替不可能なもの――つまり、そのプログラムにしかないこと/もの――をかりに本質と考えるなら、語学留学の本質は、当然ながら専門的な語学教育だといえる。むろん、DDの本質は学位だろう。

 

ならば、交換留学の本質とはなにか。

 

かつて読んできた交換留学生の体験記には、だいたい「勉強めっちゃがんばった!」「友達めっちゃできた!」「視野が広くなった!」「いろんなこと深く考えた!」などと書いてあって、おおかた「だから、留学最高!」といった感じで締められていた。それは間違いなくたいへん素晴らしい経験だし、だから、留学は最高なのかもしれない。

 

しかし、ここで重要なのは、それは交換留学の本質では全くないということだ。なぜなら、勉強も海外の友達も「広い視野」も「深い考え」も、全て他の留学形態(あるいは海外インターンなど)で代替可能だからだ。もっといえば、本当にそれらが目的なら、交換留学なんかせずに学部生として4年間在籍したほうが明らかによいに決まっている。現に、北京で知り合った学部の留学生の中には、ぼくと同い年やそれ以上で1年生をやっている人がしばしばいる。

 

「DDじゃ北京大学で文学できないし」と考えて交換留学を選んだぼくは、いま、その考えが少なからず甘かったかもしれないと考え始めるようになった。身も蓋もないことをいえば、本当に北京大学で文学を学ぶことが目的だったのなら、ぼくはさっさと早稲田を退学して試験勉強をし、北京大学の学部の留学生の試験を受けるべきだったのだ。中国の大学なら、早稲田の1年分の学費でゆうに修士くらいまでいける。とはいえ、やっぱりそうはできないというのも本心だし、たぶん帰国したらまた日本で勉強するのだと思う。

 

交換留学の本質とはなにか。そこでは、べつに専門的な語学の教育を受けられるわけでもないし(たぶん、北京大学の対外漢語学院にはぼくよりも中国語の上手な学生だっているだろう)、学位が手に入るわけでもない。その上、本質を追求しようとすれば学部の留学生という上位互換的な存在にぶち当たってしまう。つまり、交換留学生とは目的も本質もなんだかよくわからないきわめて宙吊りの存在なのだ。

(誤解を招かないように急いで付け加えておくと、ここで目的がないというのは、決して個人単位で目標や目的がないといいたいわけではない。たとえどういうものであれ――それこそ「なんとなく」とかであっても!――だれかしら交換留学に目標や目的を持っているはずだ。ただ、ここでいいたいのは、そうしたものはだいたい学部生として入ることによってより望ましい形で達成されるということだ)

 

また、そうであるならば、「海外の大学へ(語学留学やDDでなく)交換留学にいって、キャンパスライフを堪能したい!」という感情は、とりもなおさず「海外の大学へいってみたいけど、でも自国の拠点を捨ててまで4年間学部生やるのはイヤだ/できない」という欲望の裏返しでしかないといえるだろう。

 

いうなれば、交換留学生とは、目的も「本質」もなんだかよく分からない宙吊りの経験であり、同時に海外を志向しつつもやはり自国の拠点(≒大学)は捨てきれないというこの奇妙な両義性を持ち合わせた存在にほかならない。いや、逆にいえば、この宙吊りの感覚や奇妙な両義性こそが交換留学の本質なのだ。これが、折り返しを迎えたぼくが暫定的にたどり着いた結論だ。

 

むろん、ほかならぬぼくもまたその1人なので、これを批判するつもりは全くない。ただ、交換留学とはそもそもそういうものなのだということ、ぼくたちはここに自覚的になることから始めなければならないのではないか。だから、この宙吊りの感覚や奇妙な両義性に盲目を決め込んだまま、したり顔で語られる「充実した」交換留学の「体験記」は、たとえどれだけ興味深くて「ためになった」としても、ぼくにとってはあまりにも無邪気に見えるし、それゆえにたまらなくつまらないのだ。

 

では、この奇妙な本質に自覚的になったとして、そこからぼくたちはなにを得られるのだろうか。勉強も、海外の友達も、「広い視野」も、それから「深い考え」も、みんなこの本質の先にある。だから、それも一方では正しい。だが、これを踏まえた上で、あえて交換留学だからこそできることを考えるなら、それは想像力、つまり多世界解釈的に発散する可能世界への想像力をはりめぐらせることだと思う。

 

交換留学生は両義的である。ぼくらは海外で現地の学部生みたいなことを1年ないしは半年だけして帰ってくる。ぼくは幾度となく自分が学部生だったら、そしてこれがあと3年続くなら……と考えた。一方で、帰ったら卒論どうしようとか考えてもいる。その時はじめて、ぼくは日本での学生生活を中心にしていまの経験をとらえているのだと気づいた。

 

交換留学生は宙吊りである。ぼくらはDDの留学生のように、プログラムから必然的に導かれた大学や授業へいっているわけではない。ぼくには、文学に志した交換留学生として、上海の復旦大学や台湾の国立台湾大学のようなほかの有名な大学や、都心から遠く離れた静かな大学で学ぶという選択肢があった。ぼくはしばしば自分が北京大学ではなく、そうしたほかの大学へ文学を学びにいっていたら……と考えた。一方で、友人を前に北京大学へきてよかったなどと考えたりもしている。時々、なんだか自分でもよくわからなくなる。

 

「あの時こうしていれば、きっとこうだったかもしれない」という可能世界的な過去/現在の蓄積は、一刻一刻が偶然性に満ちている(ことに自覚的である)からこそ意識にのぼるものだ。高度に宙吊りな日々がぼくらにもたらすのは、かつてなく多方向に分岐した可能世界への想像力であり、それは奇妙な両義性によって強化されるだけでなく、おそらくこれからの留学生活――そして日本へ帰ったあとの生活――にも実感を伴って作用するだろう。ぼくはそれを(たとえば「亡霊」などではなく)あえて豊かさとよびたい。

 

学位も言語教育もないし、学部生ほどの徹底もない。しかし/だからこそ、より想像力をはたらかせ、それによってより豊かに生きられると思う/思っていたいこと。交換留学の本質とは、意外とそんなものなのかもしれない。

小説的、没現実的な空間

盧溝橋にいった。

いうまでもなく、ここは1937年7月7日に日中戦争(こっちでは抗日戦争という)の契機となった盧溝橋事件(こっちでは七・七事変という。日付を明記したのはそれゆえでもある)が起こった場所で、北京の西南の郊外にある。北西のやや外れに位置する北京大学からは結構遠くて、地下鉄を二度乗り換えて、最寄り駅からさらに三十分余り歩かないといけない(一応バスはある)。下の写真、上の丸が大学で、下の丸が盧溝橋の位置だ。

 

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わざわざここへ来たのは、別にさきの大戦について、あるいは平和について深く考えるためとかそういうまじめな理由ではない。むろん、そういう思いもないではないが、どっちかというと、以前紅色旅遊(中国共産党が推進するプロパガンダ観光、レッドツーリズムとも呼ばれる)についてちょっと勉強したことがあったので、せっかくだし留学中に見にいってみようくらいの気持ちだった。それに、ここには中国抗日戦争記念館(以下戦争記念館)という、そこそこ有名な記念館もあったので、ついでに見てみようと考えたわけだ。

 

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※画質が絶望的に悪いのは、中国で使用するために購入した携帯が、かなり安物(五千円くらい)だからだ。僕はただ、無音で写真を撮れるという一点においてこれを使用している。以後、ご了承いただきたい。

 

地理的な理由から、先に記念館へいった。記念館の前には、この謎のモニュメントと中国の国旗が立っているやけにだだっ広い広場があって、そこから記念館へいくためには、検問所風のゲートに設置された金属探知機をくぐってゆかねばならない。これは天安門広場国立博物館、それから中国美術館なども同様で、たしか上海の東方明珠というテレビ塔もそうだった。二年前に上海で初めて見たときはさすがに結構面食らったが、だいたいこれに引っかかっても警備員はなにもいわないか、せいぜい「ライターは持ってないか?」とか聞いてくるだけで、これも「ないよ」と一言いえば通れてしまう。だから今回も、携帯、時計にベルトまで全装備のままずんずん突入した。警備員のお姉さんはにこにこしていた。僕もにこにこした。

 

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ようやく玄関へたどり着くと、中から中学生たちがぞろぞろ出てきて記念写真を撮り始めた。こういう政府公認の観光スポット(紅色景点という)には、学生や会社などの団体訪問が多いらしい。彼らもその一つなのだろう。

 

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中へ入ると、いきなりめっちゃ強そうな金のおじさんたちが聳え立っていた。写真じゃ伝わりづらいが、かなり大きい。一応、玄関に撮影禁止のシールが貼られていたのだが、観光客たちは気にせず写真を撮っていたし、警備員も咎める様子がなかったので、僕も遠慮なく撮りまくった。ここだけでなく、全体的に中国はこうした場所での撮影にかなり寛容である。これは、とてもよいと思う。

 

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これが展示場の地図で、入口左側、「偉大なる勝利、歴史への貢献」と書かれた壁の両脇を通って、時計回りに八つの章に分けられた展示室を見ていくことになる。全体的な流れを簡単にいうと、満州事変や日中戦争の緒戦によって「民族危急(一章)」に陥ったが、「国共合作(二章)」によって「抗戦(三章)」し、「日本軍の惨絶な暴行(四章)」にも屈せず戦い(五章)、「国際的な支援(六章)」の助けもあって中国は「歴史的勝利(七章)」を収めた。これからは「未来を向いて(八章)」平和のために歩んでいこう、とこういう内容だ。

 

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展示物は当時の新聞や写真、武器などがある一方で、絵画や銅像、蝋人形まである。

 

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あと、このように至る所にテクストと写真つきのパネルが展示されている。むろん、全てのテクストをじっくり読んだりはしないが、一周まわるとなるとかなりの分量になる。さしずめ、立体的(VR的!?)な教科書といったところだろうか。

 

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そしてこれが割と有名なガラスの床のコーナーだ。かつての日本軍が使用していた武器や日本の国旗が床の下に配置されていて、先へ進もうとしたら、必ずこれらを踏んでいかねばならない。とはいえ国旗に関しては、別にそんなに何枚もないので、わざわざ踏んでいかなくても通れるのだが、やはりみんな律儀に国旗の上を通っていく。かつて写真では見たことあったが、やはり生で見ると中々に気味が悪かった。

 

僕がここへ来たとき、ちょうど団体訪問の軍人と思しき二十人弱のやたらと屈強な男たちが後ろからぞろぞろやって来て、僕は激流に落ちた枯れ葉のごとくあえなく呑み込まれてしまった。彼らは国旗に書いてあった文字(たしか神州がどうのこうのと書いてあった)を指しながら「日本人はヘンな漢字の使い方をするなあ」とかいって、みんなで国旗を踏みながら写真を撮っていた。さっきの写真は彼らが去っていった後に撮ったものだ。

 

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これはガラスの床よりも前にある南京事件のコーナーで、間違いなくこの戦争記念館の中で一番生々しくて、痛々しい。なんだかんだいって他の所だと、リアルを通り越して不気味な蝋人形や、かなり威勢のいい音声ガイドたちが最低限度の滑稽さを担保してくれるのだが、ここにはそんなものはない。ここだけ写真も異質だし、なんといってもされこうべが異常な存在感を放っている。その上、この一角だけ写真パネルや展示物が観覧者を取り囲むような設計になっているので、僕たちは否応なしにあらゆる方向から惨状と暴力に対峙しなければならない。

 

さて、南京事件に関していうと、中国と日本の間、それから日本の中だけでもかなり論争が起きているのは多くの人が知る通りだ。写真にある「殉難した同胞300000人」という言葉に関してもいろんな人がいろんなことをいっている。別にそれに関してあれこれいうのが僕の目的ではないので、ここではこれ以上なにもいわないけど、たとえば南京事件のこうした一角について、あるいは戦争記念館の他の展示に関して、「それは歴史的事実ではない!」とか「洗脳だ!」などと批判する人はきっといることだろうと思う。

 

残念ながら、僕には全てのことが「歴史的事実」かそうでないかを明確に判じることはできない。ただ、一つだけ明らかなことは、そもそもここの展示内容が客観性を担保された事実である必要など全くないということだ。なぜなら、ここは博物館ではなく記念館なのだから。

 

「体系的な分類/逸話的な総合」という二分法によって韓国の戦争記念館を分析してみせた美術家で映画監督のパク・チャンキョンは、記念することとは「記憶の再構成」にほかならず、そこでは「記憶する個人の関心、慣習、状態のみならず、記憶する集団の明確な政治目的や、そこで好まれる文化など」が介入すると述べた。同時に、記憶とは「いつもそれ自体を信憑性のあるものとみなさなければならない」ものであるがゆえに、「戦争記念館は戦争をフィクションとして再構成するという点を(意図するとせざるとにかかわらず)最大限隠蔽しなければならない」のだといった(※1)。

 

これは、逆にいえば、戦争記念館が(文物や写真を多量に配置するというまことらしい演出によって)隠蔽しているものは、そこが戦争をフィクションとして再構成する場にほかならないという事実である。戦争記念館には、客観的な事実やバランスの取れた歴史観などはそもそも必要とされていない。それが要請されるのは、まさに博物館においてである。大胆に換言すれば、記念館とは小説的であり、博物館は論文的である(※2)。

 

したがって、中国の戦争記念館に対して「それは事実ではない!」などといさんでみても意味はない。それは、司馬遼太郎の小説に対して「史実と異なるじゃないか!」などと憤慨するのが無駄なことと同じで、つまり記念館とは、そもそもそういう場所――つまり、記憶する集団の目的や文化、あるいは記憶させる人の意図によって、共同体に身を置く人々の記憶を再構成させる場所――であると認識するところから始めなければならない。(当然、最大限にまことらしさを保証しようとする限りにおいて、という留保付きではあるが。)

 

また、小説的な記念館と論文的な博物館という構図を念頭に置けば、わりと興味深い点に気付くことができる。すなわち、この戦争記念館や南京にある南京大虐殺記念館、それから延安にある革命記念館など、中国共産党に関する主張の強めな展示館は、得てして記念館と名付けられている。たとえば、下の写真は戦争記念館の最後の部屋に掲示されているものだが、毛沢東と鄧小平の間にいるはずの華国鋒がちゃっかり消されていたり、なぜか胡錦濤とか習近平とかまで並んでいたりする。ここまで来れば、この記念館が教科書というより小説という方が適切であったと気付くことができる(皮肉的にいえば、教科書的という言葉もまわりまわって正しかったりもする)。

 

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もちろん、中国に記念館しかないわけではない。北京だけでも、オリンピックの主要会場(つまり鳥の巣)の近くに中国体育博物館があるし、他にも石刻芸術博物館や汽車(=自動車)博物館など、いくつも博物館がある。どれも記念館とはいっていない。してみれば、彼らはある種の思想性の有無によって記念館と博物館という呼称を明確に峻別しているのだともいえるだろう。

そうであるならば、戦争記念館の展示に対して「お前は歴史を分かっていない!」風の批判をすることは、単に的外れであるのみならず、こういってよければルール違反ですらある。僕たちは感情的になる前に、一度わざわざ記念館と名付けられている意味を落ち着いて考える必要があるだろう。

 

もう一度いうが、記念館は小説的である。そこで語られているのは、記憶を再構成するための物語であり虚構なのであって、そもそも客観的な事実たらんとしているものではない。そして、僕たちは、それを無条件に批判することはできない。なぜなら、博物館と記念館は互いに全く異なるルールのもとに作られており、そうした批判は基本的に博物館のルールに属するものだからだ(※3)。

 

戦争記念館の話を終える前に一つだけ論点を追加しておくと、優れた物語とは、常に語り手を再生産するものである。面白い話や、ひどいが印象に残る話を聞けば、また誰かにいいたくなる。また、批評などは再生産の典型だろう。拙い話は大方無視されるか忘れられるのが関の山である。

どうしてこういうことをいうかというと、僕が戦争記念館で見たのは、ほかでもなく語り手が再生産されていく瞬間だったからだ。(誤解を招かないように補足しておくと、僕は物語の優劣は、主観的な善悪とは完全に独立して存在すると考えている。なぜなら、優れているが悪である物語や、正しいのだが拙い物語は、残念なことに世の中に数多に存在するからだ。)

 

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※上半分は名前、年齢、所属に電話番号など個人情報満載だったので意図的にカットしている。

 

全ての展示室をまわった後で、僕たちは二冊のノートの前に到着する。感想を書けということなのだが、適当にめくってみると、なかなかに凄いことが書かれてある。

おそらくさっきの中学生たちが書いたものであろう。写真右側の書き込みは十四歳の少女によるもので「まさに抗日戦争のような災禍による圧迫によって、中国は立ち上がり、中国人の思想は進化した。歴史を心に刻み込み、国の恥を忘れてはならない。(判読不能)先人たちの白骨と鮮血によって素晴らしい未来への道が切り開かれたのである云々」などという意味だが、(言語の違いはあるにせよ)十四歳の少女が「先人の白骨と鮮血」とか書いているのを見るとさすがにはっとしてしまう。

 

ただでさえ展示を見終わったばっかりでだいぶ気が滅入っていたというのに、ここでまた、玄関ですれ違い、入口で無邪気にピースしながら集合写真を撮っていた彼らのうち一定数の子たちがこうして新たな語り手として再生産されていくのかあと考えると、もはや気が滅入るどころの騒ぎではない。それに、こうして文章を書いてしまった僕もまた、戦争記念館の物語の持つ再生産の力に支配されてしまったのだといえるだろう。つくづく、僕たちは重過ぎる遺産を背負ってしまったものだと思う。

 

とはいえ、僕の身の回りの中国人はみんないい人たちばっかりだし、なんならかつて上海の料亭で、突然とあるおじいさんにさきの戦争に関して小一時間しかられたこともあったが、半分以上なにいってるか分からなかったけど頑張って合いの手入れてたら「よしよし、お前は話の分かるやつじゃ」的な感じで謎に褒められて、それから妙に良くしてもらったこともあったので、(政府・国家のレベルではなく)個人的なレベルでは割合楽観的ではある。結局なんとかうまくやっていくしかない。投げやりなのではなく、本当にそうだと思う。

 

そして、話はようやく盧溝橋へとたどり着く。長かった。でも、冒頭に「盧溝橋へいった」と書いた通り、もともと僕がいこうと思っていたのは盧溝橋であり、戦争記念館はあくまでついでにいこうと思っていたに過ぎなかった。

 

 

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 盧溝橋と

 

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 欄干の獅子

 

戦争記念館の物語の力強さ(それは必ずしも善であるとは限らない――念のため)、人の多さに比べて、実際に戦いが行われたはずの盧溝橋はあまりにひっそり閑としていた。石碑がいくつか立っていたけど、ほとんどが全長はいくらで、いつの時代に建設/修繕されたというような退屈な情報ばかりだった。橋を渡ったところには、橋の欄干に象ってある獅子のフィギュアを売っているお店があったが、誰も立ち寄る気配がなかった。おまけにここで釣りをするなとかいう趣味のかけらもない看板が貼ってあるし、オリジナルである橋の欄干の獅子たちも、みんなどこかしら欠けていた。

 

なんだ、意外に普通じゃないか。本来、観光地とはそういうちょっとした失望感が伴うものなのかもしれない。でも、戦争記念館の熱気や人の多さに比べて、そこから徒歩五分程度の盧溝橋がかくも露骨にさびれ、風化していたのはなんだか寂しかったし、写真で分かる通り、その日は天気がすこぶる悪かったので、それも相まって随分どんよりとしてしまった。

 

名所や旧跡に博物館や記念館が併設されている例は珍しくないが、普通、観光地は総じて盧溝橋とは逆の経験をもたらすものである。僕たちは、名所や旧跡にいくと、だいたい「わあ、ほんものだあ」とひとしきり感動したり写真を撮ったりした後、その足で近くに建てられている小さな博物館や記念館にいく。

そこでは、よっぽど関心がない限り、僕たちは足早に一周し、出口の近くで必要に応じてお土産を買い、そしてすぐに次の観光地へ向かう。たとえちょっとした失望感を伴っていても、観光とはやはりその場所にいくことが重要なのであり、多くの場合近くの記念館はついでにすぎない。

 

中国共産党の紅色旅遊というプロパガンダ観光の政策によって大いに注目されている一連の観光地の中には、こうした強い物語を持つ記念館が併設されているものがわりとよくある。これはこれで、小説的な想像力によって訪れる人の記憶を再構成し、語り手を再生産するという点で非常に大きな役割を果たしてはいるのだが、一方でそうした記念館は、その物語の力強さゆえに、しばしば本来ある観光地と記念館の力関係を逆転させてしまう――いやもっといえば、物語の過度の充実のために現実そのものを埋没させてしまう――のではないだろうか。僕たちは、こうした特殊な記念館の特性を、ひとまず仮に「小説的想像力」それから「物語による没現実性」と名付けておくことにしよう。(今後またこの手の観光地にいくかもしれないので……)

 

当然、これは僕の無責任な思いつきに過ぎないのだが、それにしても現実の盧溝橋の埋没具合は異様だった。実際そこには、あの時僕を取り囲んだ屈強な軍人たちもいなければ、こどもたちがたくさん歩いていたわけでもなかった。

 

そこにいたのは、ただ数人の行人と犬を連れたおじいさんだけだったし、もちろん、誰も自撮り棒なんか持っていなかった。

 

 

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先日、清華大学の近くにある萬聖書園という本屋さんにいってみた。

本の種類はまあまあで、社会学とか西洋の思想や文学がやや多めだった。

中に一匹ねこがいた。だからいい店だと思った。

 

 

1:パク・チャンキョン「鏡と沼、分断表象のメディアと芸術」(東浩紀編『ゲンロン3』ゲンロン、二〇一六年所収)六十頁。

 

2:ありうべき反論に対して予め何点か補足しておくと、小説的/論文的という見立ては、展示内容の真偽に対してではなく、むしろ構造的な次元(つまり展示の体裁)において機能しており、同時に受け手のメンタリティーに関する形容として用いられている。事実を淡々と展示する記念館があれば、誤りや嘘が書いてある博物館も(あってはならないが)あるかもしれない。しかし、それは誤りや嘘が書いてある論文が(あってはならないが)あり、ノンフィクション同然の小説があるのと同様で、内容の真偽はともかくとして、論文はその体裁において常に厳密な精確性を要請されるのに対して、小説は常に虚構として存在している。もう一度いうが、記念館の展示に事実ではないといって憤慨するのは、小説に対して体裁が論文的でないといって怒るようなもので、的外れ以外のなにものでもない。

 

3:一応付け加えておくと、僕は記念館の虚構を感情的に受け入れられないこと自体はなんら悪いことだとは思わない。共同体に属する者であっても感じ方はそれぞれだし、ましてや外部者などそもそも記憶の再構成の対象ですらないのだから、感情的に受け入れられないこと自体は当然である。問題はむしろ、それをそうといわずに、下手に「やつらは事実を捻じ曲げている」とかいってしたり顔で批判してしまうその精神的傾向にある。

 

たぶん、トランプもつらい

トランプが大統領になった。いま世界のあちこちでグローバリズムの反動のような現象がおこっているので、ひょっとすれば勝つかもなあとは思っていたけれど、なんだかんだクリントンが勝つだろうと思っていたので、それなりにびっくりした。また、奇しくも選挙のあった11月9日は僕の誕生日だったので、なにやら得も言われぬ縁を感じる。変な言い方をすれば、トランプ大統領が生まれて、僕も生まれた。

 

トランプに関しては、選挙前からすでにいろんな人がいろんなことを言って来たし、なにも付け加えることがないような気もする。最近だと、トランプはビジネスに関しては一流なので意外と現実的に動くのではとか、ブレーンが周りにいるから大丈夫だろうとか、アメリカは議会制だからトランプは好き勝手できないとか割とよくいわれているけど、僕は政策や経済の方面から詳しく分析できるわけではないので、これからどうなるのかよく分からない(彼の出方次第で東アジア情勢がすごく変わるのでは、というのはよく分かる)。

ただ、そうした予測たちを常に大胆に踏みにじってきたのがトランプであり、一月のイギリスのEU離脱という現象であったので、なかなか首肯しがたいところではある。

 

散々指摘されているように、今回のトランプ現象でも、イギリスでの国民投票同様、都市と地方との利害や価値観の対立が明確に表れた結果となった(経済状況に関してはもう少し複雑だけれども)。いまや格差や利害関係を考える時、国家ごとの違いではなく、グローバルな都市とそうでない地方という形で整理すべきだというのは、多くの人が感じていることだろう。

こうした状況を受けて、主に都市部のリベラルやインテリなどと呼ばれる人たちの中には「トランプに入れるやつらは田舎のバカなんだ!」とか言っている人もいる。たぶんこういう人は、日本のネトウヨも「あいつらはただのバカだ!」といって片づけていることだろう。僕も、イギリスがEU離脱を採択したころまではなんとなくそう思っていたけれど、大統領選挙の運動が過熱してくるにつれて、どうやらそうではないらしいと考え始めるようになった。

 

今回の選挙で特に明確になったのが、いわば多数派(マジョリティ)と少数派(マイノリティ)の対立という構図であることはよく言われていることだ。トランプがLGBTや移民や女性の社会進出といったことを強い口調で否定するたびに支持率が上がっていくという状況のなかで、多くの支持者が口にしていたのが、マイノリティにばかり光が当てられることへの不満だった。

マイノリティの人たちも苦しんでいるかもしれないが、自分たちも苦しんでいる。それに加えて自分の生き方を肯定すればマイノリティへの暴力とみなされてしまう。でも政府や社会は自分たちマジョリティを助けてはくれない。その不満のはけ口がトランプとなったというわけだ。

 

言うまでもなく、いろいろなマイノリティの人たちの苦しみが政治やジャーナリズムの力によって認識され、彼らに自分を語り、肯定する言葉が与えられ始めたのはほんのごく最近のことである。当然、このこと自体はきわめて良いことだし、それが衰退することは決してあってはならない。しかし、一方でマイノリティをすくい上げる政治やジャーナリズムの力が、マイノリティではないこと、この一点を以て大多数の人びとを一括りにしたマジョリティという勢力を作り出したのも事実である。

 

作家で思想家の東浩紀は、こうしたマジョリティの苦しみをすくい上げて言葉を与えるのが文学や芸術や思想であると言ったが、僕もまったくその通りだと思う。なぜなら、文学、芸術や思想とは、そもそもマイノリティの存在や苦境が広く認識され、光が当てられるずっと前から、苦しみやつらさを抱える人たちによってなされ、同じく苦しむ人びとの普遍的な糧となってきたからだ。

 

このことをもう少しクリアに理解するために、補助線として昨年の京都市立芸術大学卒業式での、哲学者の鷲田清一(当時学長)の学長式辞を紹介しよう。引用するのは一部だけだけど、そんなに長くないのでぜひ他の部分も読んでもらいたい。(本文URL

 

一人ひとりが異なる存在であること、このことはいくら強調しても強調しすぎるということはありません。だれをも「一」と捉え、それ以上とも以下とも考えないこと。これは民主主義の原則です。けれどもここで「一」は同質の単位のことではありません。一人ひとりの存在を違うものとして尊重すること。そして人をまとめ、平均化し、同じ方向を向かせようとする動きに、最後まで抵抗するのが、芸術だということです。

 

ここでは、いわば全体主義的な動きに対して最後まで抵抗する力を持つのが、ほかでもなく個性(=「一人ひとりが異なる存在であること」)を条件とする芸術であるのだといわれているが、民主主義うんぬんはひとまず置いといて、この話をこれまでの文脈に応用すれば、次のように言うことができる。

 

つまり、政治やジャーナリズムの力によるマイノリティの救済に伴って発生した大量のマジョリティに対して、マイノリティを尊重しつつも、相対的強者であるマジョリティとして一括りにされている彼らの個別の苦しみやつらさを言葉にすることで、それを「悩める個人」に分解すること、換言すれば、かけがえのない人生を生きている(と自分では思いたい)多くの個人を、強い(から文句は言っちゃいけない)マジョリティとして一括りにして顧みないある種不可抗の暴力による構図を内から突き崩すもの、これが文学であり、芸術であり、思想である(※1)。

むろん、マイノリティのためにもこの力は大いに発揮されるべきだけれども、政治やジャーナリズムではマジョリティがすくえない以上、文学や芸術だからこそできることは明確に認識されなければならない。

 

そうであるならば、トランプが躍進したのは、ポピュリズムであるとか、「バカの田舎者」が大量に彼を支持したからといって片づけてよいものではない。むしろ、そんなことを言ったところでなにも始まらない。(現にシリコンバレーを中心とするIT系の人びとがAlt‐rightと呼ばれる極右主義を支えているという事実は、トランプの支持者が決して単なるバカなんかではないことを物語っている)

問題はむしろ、それぞれに苦しみやつらさを抱えながらも、勝手に相対的強者として一括りにされ、文句も言えない状態のまま放置されてきたマジョリティたちを「悩める個人」に分解することができず、ただただ不満ばかりを蓄積させてしまったことではないだろうか。

 

当時ニュースを見ていた僕にとって最も象徴的で、かつ絶望的だったのは、多くのトランプ支持者が「やつは自分たちの言いたいことを言ってくれるんだ」と言っていたことだ。彼の支持者にとって、トランプはマイノリティを否定することで、自分たちを放置されたマジョリティから一人ひとりの「強いアメリカ人」に分解してくれる存在だった。こういってよければ、彼らにとっては、トランプが文学だった。

 

マイノリティの人たちを強く尊重しつつ、同時にそれぞれに個別の苦しみを抱えつつもかけがえのない人生を希求したいマジョリティの人びとをどうするか、というのはこれから多くの国で課題になる。日本も同じだ。これはもちろん政治の制度的な問題の一つとしても語られるべきかもしれないが、制度的、技術的な問題に終始すべきではない。これは文学や芸術、思想の大きな問題の一つでもある。

 

いや、文学や芸術や思想の問題にとどまらない。トランプの勝利で一つの頂点を迎えたここ数年の趨勢が示しているのは、文学や芸術や思想といったものが、マジョリティを「悩める個人」に解体する役割を満足に果たせていないという事実である。しかし、それでもなお、僕たちはマイノリティに対比させられる相対的強者が、各個人単位で見ればそれほど強くはない一面もあるということを互いに認められる言葉や環境を作り上げなければならない。僕たちはどうすればいいのだろうか。

 

一つだけ、ものすごく月並みなことを言えば、それぞれ自分ができることをするしかないのだと思う。ここまで言っておいてそんなことかと言われそうだが、こんなことを言うのには、一応ちゃんと理由はある。

 

というのも、ここまで、マジョリティを「悩める個人」に解体すること、この役割は文学、芸術、思想が果たすものだと断定して話を進めてきたけれど、当然これはその三者に限定し得るものではないからだ。

太古の昔から、人は多くの形で喜びや苦しみやつらさを表現してきたし、その膨大な蓄積の末にいまがある。歌でも食事でも運動でもなんでもいい。重要なのは、互いに苦しみや弱さを認めあい、あるいは、時にそれをすくい上げて表現することである。そのためには、人間は実にいろいろな方法を持ち合わせている。自分ができることをするというのは、つまりそういうことだ。

 

僕はただ、文学や芸術、それから思想の力を最も強く信じているだけに過ぎないのだ。

 

 

 

1:マイノリティは、基本的に「であること/がゆえに」という言葉で自分の苦しみを一般化して語ることができるが、マジョリティは多くの場合そうではない。「男性であるがゆえに昇進できない」といっても「能力/やる気がないだけだ」といって空しく斬られてしまうだけだ。他にも「モテ(リア充ないこと)」のように、マジョリティが自分の苦しみを語るとき、肯定的に「であるがゆえに」という言葉を用いることはできず、大抵まず自らを否定することから始めなければならない。

そもそもある個人がマイノリティかマジョリティかということ自体、どの点に注目するかによって変わってくるので、やはりマジョリティは、常にマイノリティではないことによって二次的に規定されることになる。この意味でもマジョリティは否定することを起点にしているのだが、何度も言っている通り、問題はマジョリティそのものにもマイノリティそのものにもなくて、むしろマジョリティと括られた人びとにだけ、自分たちの苦しみを語り、生き方を肯定する言葉がまともに存在しないこの構造にある。

「役に立つの?」といわれたら

初対面の人に文学を、特に中国の古典文学をやっているといったら、よく「それって役に立つの?」と聞かれる。そうでなくても「なぜ/なんのためにやってるの?」とか。もちろん人文系をやっている人と話してるとそんなことは全くないし、とてもスムーズに話がすすむ。

 

そして、面白いことに、敢えて文学ではなく中国語を勉強しているのだといったら、だいたい「へえ~すごいねえ」といわれる。そして決まって「中国語はいま/これから役に立つからねえ」といわれる。

 

僕はいま中国の北京へ留学に来ているけど、こっちではそんなことは全く聞かれない。台湾でもいわれなかった。文学をやっているというと、基本的に「へえ~すごいねえ」みたいな反応が返って来る。とはいえ、交友範囲はまだそんなに広くないけれど。

 

もちろん、だから日本はダメだみたいなことをいうつもりは全くない。(むしろ中国/台湾が少し特殊なのだと思う)僕にそう聞いてくる人の気持ちも分からないではない。でも北京に来て、「文学って役に立つの?」と全く聞かれなくなってからは、却ってその問いのことを考えるようになった。

 

アラビア語や中東情勢を勉強している今のルームメイトは、「結局楽しかったらいいんじゃない?」といった。このご時世、中東情勢はもしかすると「役に立つ」方なのかもしれない。

 

そもそも「役に立つ」って何だろう? しょっちゅう「それって役に立つの?」と聞かれていると、まるで役に立たないものは存在してはいけないような気がしてくるが、当然そんなことはない。なぜなら、僕たちは役に立つから友達を作るわけではないし、役に立つから酒を飲むわけでもないし、ましてや役に立つから遊ぶわけでもないからだ。

 

僕たちは、実に多くの「役に立た」ないことをしながら生きている。このことに気付くのはとても重要だけど、でもそれは文学をやる理由にはなっていない。

 

ではなぜ文学をするのか、あるいは文学は「役に立つ」のか……ということはいったん置いといて、僕は、「役に立つの?」といわれた時に絶対にいってはいけないことが三つほどあると思う。

 

一つ目は、「そんなもん分からんやつには分からんでいい」といい切っちゃうこと。ぶっちゃけ僕もそう思う時もないではないが、世の中には漢文とか文学とか分からない人の方が圧倒的に多い。それに僕自身ほんとうに分かってるのかいささか怪しい。そうであるならば、そういう問いかけに対して「バカには分からんでいい」みたいな物言いをするのは、対話の放棄でしかないし、「分かる」者同士での会話に閉じこもるのは、担い手として極めて無責任だと思う。

 

二つ目は、「役に立つかなんて知らない、好きだから、やりたいからやるんだ」ということ。僕は、これは動機としては極めて結構だと思う。何をするにあたっても、根本ではやりたいからやるのだという気持ちは大切なのかもしれない。

 

でも、それで納得するような人はそもそも「役に立つの?」とか「なんでやるの?」などとは聞いてこない。そのように聞いてくる人は、多くの場合感情的な水準で文学なんて役に立たない(からいらない)と思っている。そういう人に対して同じく感情をぶつけてみたところであまり意味はない。そうして、結局「分からんやつには――」という結論にたどり着くのなら、それはやはり怠慢でしかない。僕らに求められているのは、感情をぶつけるだけで互いに察し合える会話の能力ではなく、感情を共有できない人と対話する能力である。

 

三つ目は、「いやいや、文学の知識=教養は社会で役に立つよ、ビジネスに役立つよ!」などといってしまうこと。意外と文学部の教授とかでもこういう人がいるけれど、これはたとえ建前でもいってはいけないと思う(※1)。なぜなら、「役に立つ」ということと、人文知の優劣とでは、目標および価値基準が全く違うからだ。

 

歴史を少し見てみると、それぞれの地域・時代によって「役に立つこと」が全く異なっていることに気付くことができる。日本だけで見ても、とにかく剣術が出来ることが「役に立つ」時代もあれば、それに加えて儒学の知識が豊富なことも求められた時代もあった。あるいは詩歌をいくつも諳んじることが出来るのが「役に立つ」時代があった。いま世の中で「役に立つ」とされていること(いわゆるコミュニケーション能力とか)は、結局歴史の偶然によってここ数十年間重要性を賦与され続けてきたにすぎない。

 

一方で、おおかた人文知の優劣の基準は一貫して明確だ。残ればいい。僕たちが大昔に偉大な文学や思想が存在したことを知れるのは、当然ながらそれらが優れていたために伝えられ、時に古典として残されてきたからだ。大富豪の淀屋辰五郎を知っている人よりも俳人松尾芭蕉を知っている人の方が圧倒的に多い。つまり人文知は、「役に立つ」という基準が常に変わっていく中でいかに長く生存できるかをその価値基準として持っているのだ。

 

むろん、ここでいいたいのは「だから人文知のほうがエラいんだぞ!」とかいう話ではない。たとえ歴史の偶然であるにせよ、いま「役に立つ」ことは現代社会にとって非常に重要だし、それは文学をやっていようと何をやっていようと、現代を生きている以上否定できない。だからスマホをいじりながら「現代はダメだ、孔子様の時代がいい」とかいうのはもってのほかだ。

 

僕がいいたいのは、むしろ、互いに価値基準や目指しているところが全く異なる以上、人文知の能力といま「役に立つ」もの、例えばビジネススキルなどとは決して混同してはいけないということだ。それは両者に失礼である。

 

たしかに人文知が社会、あるいはビジネスで役に立つことがあるかもしれない。有名企業の社長が論語ニーチェを読んでいたみたいなことは割とよく聞く。しかしそれはあくまで結果的に効果的に作用したにすぎない。三千年前から、人文知はビジネスに奉仕するために積み重ねられてきたのではないし、これからもそうではない。

 

また、この点に関していうと、中国や台湾で文学をやっているというとなんか褒められるのは、おそらく十九世紀末頃まで文学に精通していることが最も「役に立つ」ことの一つとみなされていたからなのかもしれない。これほどの長い間、人文知の優劣と社会にとって「役に立つ」こととが非常に接近していたという点で、僕は、中国/台湾は少し特殊なのだと思う。

 

さて、こうしてここまで偉そうなことをいってきたが、実のところ僕も「役に立つの?」という質問に対して満足に説明できたことがない。たとえ「役に立つ」という言葉を人文知へぶつけること自体がそもそも愚行なのだということが分かったとしても、そしていろんな文学者の意見を読み、聞いたとしても、問題はそれだけで済むほど単純ではないし、もしかするといつまでも解決できないのかもしれない。

 

「役に立つ」ことがこれだけ重要視される二十一世紀の日本においてわざわざ数千年前の古典を、それも外国の古典を学ぶことに果たしてどんな意義があるのか……当然ながら、これは「好きだから」で済ましてよいことではない。ある意味絶滅危惧種(!)として、このことは理性的に、対話に堪えうる言葉で説明できるようにならないといけない。

 

文学は役には立たないかもしれない。でも、世の中は役に立たないことで満ちている。しかし/だからこそ、僕たちは外を向いて、役に立たないものたちのために理性的な言葉を尽くさないといけない。それが、今を生きる文学者のあるべき姿だと思うし、そういう者に僕はなりたい。

 

 

(追記)1:先日先輩から、先生方がそうおっしゃるのは、そうしないと人がこないからだと諭された。おそらく、先輩の目にはぼくの言説が大変青臭いものに映っただろう。それは間違いないし、ぼくも否定する気はない。しかし、多少の青臭さを承知の上であえていえば、ぼくはこうした指摘は二重の意味で誤謬を犯していると思う。

 

ひとつめは、いまの時代「社会で役立つスキルを学べること」を学部選びの最も重要な基準にしているような学生は、普通わざわざ文学部を選ぶはずがないということだ。なぜなら、いま「社会に役立つスキル」とされているのは、いわゆるコミュニケーション能力や、マーケティング、ビジネスの知識であり経験である(それが本当に有用なのかは、ぼくはしらない)。それが文学部の学びの中で鍛えられていくことは往々にしてあるだろうが、普通、大学に入る前に「役に立つことを学びたい」とだけ考えている人は、もっと直接的にそうした分野を学べる学部を選ぶだろう。

事実、大学へ入ってもうすぐ三年が経過しようとしているが、ぼくの身の回りには、文学とか思想や文化、あるいは歴史とかが好きで入ってきたひとか、単に偏差値/試験の点数の関係で「入ってしまった」人のどちらかしかいない。極端なもの言いをすれば、「大学でビジネススキルを習得し、圧倒的成長をして社会の即戦力になりたいから文学部を選んだ」みたいな人は一人もいない。似たような人がいたとしても、学部選択とは完全に無関係だろう。

 

ふたつめは、たとえ「文学は社会の役に立つぞ」ということが、「社会の即戦力」になれるようなスキルを求める学生を集めることに一定の効果があったとしても、それをすでに文学部へ入った/てしまった学生にいうこととは全く関係がないということだ。(大して効果はないと思うが)そういうことをいうならば高校生にいうべきなのであって、大学の文学部生にいっても人は増えもしなければ、減りもしない。なので、ぼくはむしろ「一見社会に直接関係しないようだけど、しかし/だからこそ尊くて、それゆえに逆説的に社会と関係を持てるようになる」くらいの啖呵を突然授業中とかに切ったりして欲しいと思っている。

とはいえ、たとえば早稲田の文学部のように2年生から各専修に分かれる場合、学部内でパイの取り合いが起こることがある。こういう時に授業内で「役に立つ」とアピールしておくことは、入学時には就活とか「役に立つ」とかなにも考えてなかったけど、1年たっていささか不安になってきたであろう一部の層を取り込むのには役に立つ。その程度のことでしかない(こういうもの言いがすでにして青臭いのかもしれないが!)

 

ぼくの尊敬している教授は、「文学とか思想とかは役に立つのか」という問いに対しては、いつも「そんなもん、ないと寂しいじゃないか、ガハハハ」とかいって適当にお茶を濁したあとに、ときおり神妙な顔つきで「でも、そんなことよりもっと重要な問題があるだろう」などという。

 

解決なんてできないかもしれない。さきは長いな、と思う。

『乾文學』八月特別號公開!

※八月特別號PDF版のダウンロードはこちらからどうぞ

 

いま僕が生活している和敬塾という寮で『乾文學』という文芸誌を時々作っているのですが、このたび最新號の八月特別號を公開しました。

今回は「和敬塾の再定義」という特集を組んで、いま和敬塾という共同体が抱えている諸問題を受けて僕たちはどうするべきなのか、ということを議論してみました。

そもそも和敬塾は「共同生活を通した人間形成」を理念として掲げており、その理念のもといろんな行事を企画したりしています。しかし最近はいろいろと問題が出て来ています。簡単にいうと、これまでなら「ふむ、元気でよろしい」みたいな感じで見過ごされて来たものがだんだん許されなくなってきて、いろんな方面から厳しい目が当てられているというわけです。

そういった現状をうけて、運営側や一部の学生があれこれ制度や枠組みを変えようと試みていますが、「和敬塾の再定義」も大体そのようなものの1つだと思ってもらって構いません。

今回の戦略は、端的にいうと理念に注目すること、いやむしろ理念を読み替えることでした。つまり、いま和敬塾にある諸制度は確かに理念に則っているかもしれませんが、当然ながら理念から必然的に導かれたものではないわけです。そこで、和敬塾の所有する物的、人的資源を一度俯瞰した上で、「共同生活を通した人間形成」なる理念を達成するために有効な手段を提示し、いまの諸制度を相対化すること――もっと言うと「そういう理念を掲げてるなら、(いまあるようなものじゃなくて)こういう風にやったほうがいんじゃない?」と言って見せること――これこそが今回の戦略であり、特集の出発点となった考えでした。

『乾文學』で展開されている和敬塾の議論は総じてかなりハイコンテクスト(≒身内ネタが多い)で、当事者でないとピンとこないことがあるかもしれませんが、それでも僕は和敬塾関係者でない人に読んでもらいたいです。なぜなら、だいたい誰かしら似たような事象を抱えているからです。というのも、普通ハイコンテクストな議論を理解するためには何かしら自分の身の周りの近似した事柄と関連させるものですが、そう考えた時「そこそこ流動性があって、なおかつちょっとした慣習みたいなものもある共同体」に属している人は結構多いのではないかと思います。(学校、サークル、会社など……)

ですから、和敬塾で問題とされているものを適宜自分の周囲のものに置き換えることで、一連の議論は自身の問題として読み替えることが出来るようになるわけです。『乾文學』における和敬塾の議論が適当に一般化したりせずに常に徹底してハイコンテクストであるのは、そこに理由があります。つまり、和敬塾に関していえば、徹底してハイコンテクストな議論を展開することで逆説的に一般性を獲得するのではないか、という風に僕は考えています。

 

 そういうわけで、今回の八月特別號「和敬塾の再定義」は、ぜひとも多くの方に読んでもらいたいので、もし興味があれば、こちらからPDF版をダウンロードしてください。

また、「和敬塾の再定義」の趣旨についてもう少し詳しく知りたい方は以下に序文を転載しておきますので、ちょっと長いですけど、ぜひそちらもご覧ください。

 

***

 

 卒業生特集を組んだ三月から今までの間に、和敬塾の状況は大きく変化した。数年前、新入生に大きな声を出させることをやめた乾寮を猛烈に批判した各寮が、今年度は次々と大声での挨拶や自己紹介を廃止して、今春の和敬塾は随分と静かになった。それでも入塾生の数は年々過去最低を更新しているし、新入生を痛め付けて「脱落しなかったやつだけが俺たちの仲間」みたいな元気で無茶な考え方もできなくなってきた。新入生を脅かそうとして、上級生が俄かにスーツを着散らかしたり、髪を金髪に染め出したりするという滑稽な情景も殆ど見られなくなった。こうして一部の人の言葉を使えば「ゆるくなった」和敬塾の諸制度は、かつてない速度で根底から瓦解しつつある。誰が何と言おうと和敬塾は変わってしまった。和敬塾の「伝統」は、そして「和敬右翼」は遠からず滅びることになるだろう。

 和敬右翼だけではない。「伝統」という制度から距離を置いてこれを批判し、時に冷ややかな視線を向けることによって、和敬塾内で(インテリ風としての)立場を確保して来た「和敬左翼」たちもまた、「伝統」の急速な瓦解により、意味を失いかけている。「和敬の『伝統』は虚構だ」という批判は、もはやむなしさしか与えてくれない。無論、これらの思想が全く消滅するとは思わないし、「滅びる」という言葉の誇張であることもまた当然である。しかし、「伝統」を巡るある種の二項対立は成立しなくなってしまったのだ。以後、行き詰まりを見せている「伝統」を無邪気に奉じたとしても、それは「伝統」の縮小版であり、「伝統」の陳腐な模倣にしかならない。(本来の「伝統」が好かったという意味では決してない)反対に、「伝統」に対してこれまでと同じような問題意識を持ち、同じような批判を続けたとしても、せいぜい「指示対象なき言説の連鎖」(*1)に終わるのが関の山である。

 では、来るべき「伝統」なき時代にあって、僕たちはどのように和敬塾生として生きていけばいいのだろうか。いや、そもそも和敬塾とはどのような場所なのか。いま、和敬塾は再定義されなければならない。

 僕は最近、漢詩人工知能の関係をテーマにものを考えて来た。その暫定的な成果は本號に論考として掲載してあるので詳細はそちらを参照してもらいたいが、人工知能の領域から再定義ということを考えると、少し興味深い点に気付くことが出来る。

 近年よく耳にするディープラーニングという技術は、入力されたデータの特徴を自ら発見出来る点で画期的だとされている。いわば、世界のどこに注目すればよいかを自ら判断出来るようになったということだ。これに対して人間がしてやることは、人工知能が抽出した抽象的な特徴の集積=概念に対して「それはねこである」、「それはどらやきである」と名付けてやることであり、これを定義付けという。

 この定義付けの過程を念頭に置くと、再定義とはすなわち抽出する特徴を変更することだと言うことが出来る。換言すれば、目の前に広がる世界に関して、これまでとは別の部分に注目しておきながら、一方でこれまでと同じように「これが○○である」と言ってのけることにほかならない。つまり、これまで和敬塾に関して注目されてきた要素(東京、男子寮、体育祭、厳しい上下関係などなど)とは全く別の要素に注目――それは往々にして発見を伴うだろう――して、特徴として取り出しておきながら、しかも至って恬然たるさまで「これが和敬塾だ」と言い切ること。これが和敬塾の再定義であり、今回の特集の概要である。

 さて、僕たちはこのようにして少し変わった角度から再定義ということそのものを定義してみたのであるが、それでは、これを和敬塾で行うということはどういうことを意味するのだろうか。これはつまり、「和敬塾の再定義」という議論が、これまで和敬塾で繰り返されて来た「新歓」や体育祭、もっと言えばいわゆる「伝統」に関する議論の数々に対してどのような位置づけを持つのか、と言い換えることが出来る。そして、それを明らかにするためには、僕たちはあらかじめ少し迂回しなければならない。

 

 かつて「和敬塾の『伝統』は三年で形成される」と言った塾生がいたそうだ。僕はその人のことを知らないし、発言の裏も取れない。だけど僕は、それはまったくその通りだと思うから、これを自分なりに解釈して話を進めていこうと思う。

 和敬塾(/各寮)の「伝統」が三年で形成されるということは、新潮流が三年で自明化することだと言い換えることができる。これはどういうことかというと、和敬塾(/各寮――以後略)で何か新しいことを始めた場合、当初は塾生全てが当事者であり、言わば「改革者」である。しかし次の年には四年生が卒塾し、新入生が入塾してくる。そもそも新入生にとっては、二十年の継続がある事柄であろうが昨年始まった試みであろうが、(先人が取り立てて問題にしない限り)新たな共同体に入るにあたって与えられた環境という点で同じものでしかない。こうしてある新潮流が三年の継続を果たした時、和敬塾内は、それをいわば環境として自明化する塾生がおよそ四分の三を占めることになる。(個人がそれを肯定するか否かは別問題である)環境に生きる者が環境の創造者を上回る。かくして「改革」は「伝統」となるのである(*2)。またもう一年経てば「伝統」がますます強固なものとなることは、もはや言うまでもない。

 和敬塾のこの一連の流れは一見とても流動的だが、その実さほどさらさらしておらず、たまにじれったいまでの停滞性をみせたりもする。と言うのはつまり、和敬塾は構造的条件として塾生が絶えず入れ替わるものであるけれども、どういうわけか時折和敬塾流動性が機能しなくなることがあるのだ。これは、経済学者の安冨歩が言うように、社会=共同体の構成要素が人間そのものではなく、各人間をつなぐコミュニケーションであることに起因している(*3)。つまり、「酒! 筋トレ! 合コン!」と耳にするが早いか身体が反応してしまうような(素質を持った)学生が毎年少なからず入って来るようでは、確かに人間は流動的に入れ替わっているものの、そこで交わされるコミュニケーションのパターンは全く変わることがない。こうして個人の流動的な交換が行われるにもかかわらず、共同体が流動性を失っていくこと。ここでは、これを流動性の固体化」と呼ぼう。昨今のように、「伝統」が伝統そのものであるかのように錯覚されていってしまった仕組みはここにあったと言っていい。

 和敬塾の構成要素としてのコミュニケーションがひどく固体化してしまったために、その流動性が異様に長い期間に渡って機能不全を起こしてしまったのが、「伝統」をめぐる和敬塾の諸問題の原理的な要因であった。そうであるならば、いまここにおいて塾生の意識を変えようと制度をあれこれいじってみた所であまり意味はない。和敬塾を変えるには、むしろ、これまで主流であった人々とは全く異なるコミュニケーションや発想のパターンを持つ人を大量に取り込むしかない。そうやってはじめて制度改革が意味をなすのだ。

 こうして僕たちは、共同体の条件的な流動性と、それが固体化=機能不全を起こすことによる「伝統」の定着という現象を確認したわけだが、すでに述べたように「伝統」もまた可変的であり、まさに今瓦解しつつある(ゆえにこの流動性は、流動と固体化を交互に繰返す半固体的流動性と換言してもよい)。では、逆に和敬塾において不変である要素は存在するのだろうか。これを考える時に最も鍵になるのは、塾の理念である「共同生活を通した人間形成」である。

 この理念はどういうことかというと、残念ながら僕にもよく分からない。しかし、僕はこのよく分からないという点においてこの理念の重要性と普遍性を強調する。なぜなら、よく分からないことによってそこに無限に解釈の可能性が生まれるからだ。

 当然ながら、世代も故郷も考え方も異なる全ての大学生に普遍の目標なんて存在するはずがない。このよく分からない理念が真に理念たり得る所以は、まさに塾生それぞれが「共同生活」を通して自由に「人間形成」を考え、解釈し、実行することを受け容れるその寛容性にある。換言すれば、和敬塾生は(時に意識しない形で)「人間形成」の名の下に教養講座や学問を行い、酒を飲み、激しく暴れ、セミナーや講演会に参加し、騎馬戦で闘い、ナンパや合コンで浮付き、尚且つ「文學し」て来たのである。この点は決して変わることがない。和敬塾の中心概念である「和敬」も同様に分かりづらい上に重要であるけれども、僕はこの解釈自在性と文化の全体性の担保という二点から「共同生活を通した人間形成」という理念が一番重要であり、最も意識して奉じて行くべきだと考える。「和敬塾の理念はよく分からないから無視していい」と無邪気に叫ぶ者は、理念を「無視して」行ったはずの行為ですらその「良く分からない理念」の内に併呑されてしまうという厳然たる事実を前に慄然としなければならない。

 曖昧な理念を奉じて随意に思考解釈、創意工夫して塾生と相交わり、時に「伝統」を形成しようと試みつつ、それが決して恒久の確立をみないこの半固体的流動性――言い換えれば、理念と塾生(同士のコミュニケーション)の衝突による、「伝統」という制度の自律的生成――これこそが和敬塾の文化的特性にほかならない。

 

 ここで最も重要なのは、理念と塾生の衝突という基盤の上に成立する「伝統」が本質的に可変的であると同時に、常に複数であるということだ。厳密に言うと、僕たちが「伝統」と呼んでいるものは、流動的な和敬塾の中で、何となく伝統であるかのように見なされたもろもろの要素の集合をぼんやりと包摂する概念にほかならない。それは、和敬塾の伝統とはなにか、という問いに対して決して統一的な解答が得られないことが如実に物語っている。

 ちかごろ和敬塾では、閉塞的な現状を受けて「新しい伝統をつくろう」だとか「和敬塾は生まれ変わるのだ」だとか、そう言ったいさましい言葉が安易に叫ばれることがしばしばある。しかし、こういう時、「伝統」とはそもそもどういうものなのか――何が「伝統」を構成するのかではなく――ということが思考の対象となることはまずなく、多くの場合「新しい伝統をつくる」ための方法自体がきわめて曖昧なままに議論が進められてしまっている(これは、少なからず僕自身への自戒をも兼ねているのだが……)。

 もう一度言うが、「伝統」とは複数の「伝統的」要素の総称である。してみれば、「新しい伝統」をつくることとは、とりもなおさず「伝統」という語のもとに包摂されて来た各要素の一つ一つを批判的に検証し、それを全く別の要素に交換してやることにほかならない。(そして、その交換の契機となるのが、ほかでもなく不定期に作用する半固体的流動性なのであった)

 ここで僕たちは、「新しい伝統」をつくることが、さきほど確認した再定義という行為と全く同じ過程を要請していることに気付くことになるだろう。つまり、「新しい伝統」を作ることとは、単に「伝統」の再定義の言いかえでしかなかったのだ。では、和敬塾の再定義と「伝統」の再定義とはどのような関係にあるのだろうか。

 ここでは、次頁の図にある通り、「伝統」もまた和敬塾を構成する特徴的な要素の一にすぎないことを確認すれば事足りるだろう。すなわち、「伝統」の再定義の先に和敬塾の再定義がある。「和敬塾の再定義」を標榜する僕たちの議論と従来の和敬塾での議論との関係は、大体このように把握してもらえればよい。

 これまで見て来たように、和敬塾の再定義とはすなわち、和敬塾にある無数の要素を包摂する範囲(の枠)を変えながら、もう一度「これが和敬塾だ」と言うことであり、「伝統」の再定義もまた、その範囲の中で行われるものにほかならない。今回の特集の目標は、和敬塾で見過ごされて来た要素の発見と抽出を通して、同様に余り注目されていなかったり、そもそも発見されていなかったりした諸問題や矛盾を暴き出すこと、そしてそれらを議論の俎上に載せることである。今回特集で収録した諸論考や、ある種の思考実験とも言える小劇場設立計画の提案は、そのようなものとして読んでもらいたい(*4)。

 

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 序文で述べるべきことは主に以上の点に尽きるのだが、最後に和敬塾を再定義するためにもう一つ論点を加えておこう。

 さきほど「伝統」の再定義の先に和敬塾の再定義があると言ったが、これは必ずしも両者の明確な順序関係を意味しているわけではない。端的に言えば、和敬塾の再定義という問題が、「伝統」およびそれを構成する個々の要素に対してあれこれ議論するようなこととは全く異なる地平に存在しているというだけのことだ。ゆえに、今回の特集では「伝統」に関してはほとんど触れられていない。(序文でやたらと「伝統」に触れたのは、それゆえでもある)

 とはいえ、『乾文學』は今回新たに西寮の学生一名と北寮の学生一名を迎えることとなり、いうなれば乾寮内での小さな試みから徐々に和敬塾の「伝統」へとなりつつある。従って、僕たちは『乾文學』が「伝統」となることによる可能性を、換言すれば、『乾文學』はいかに「伝統」を再定義しうるかということを考えなければならない。

 何度か初代編集人の那須優一や僕が言ってきたように、『乾文學』とは「公園」のような言論空間である。公園とは、少年が友人同士で野球をしたり、男女が愛を深めたり、家族が憩いを求めたりする長閑な場所でありながら、同時に知らない人にボールを拾われたり、犬の 散歩仲間がふと出来てしまったりするような、唐突さと偶然性――無数の要素が有機的に連鎖した結果としての偶然性――に満ちたスリリングな空間でもある。『乾文學』は、どういう 形であれ、そこに足を踏み入れる全ての人にそうした唐突で偶然性に満ちた出会いや発見を もたらす場所であり得るし、そうでなければならない。

 大切な人と交わりながら、時に一人ふらりと立ち寄った時――その「時」はしばしば無自覚に訪れるだろう――突然思いがけない出会いや発見を果たしてしまうような空間。そこには闘技場の熱狂=一体感はないが、公園の分散=随意性がある。これまでの「伝統」的な諸要素は、ほぼ例外なく全ての塾生を強制的に巻き込み、闘技場型の熱狂によって人々をつなげていくことを目指す「大きな物語」として機能していた。そこでは、「物語」を称賛するか拒否するかによって塾生の中で大きく線引きがされており(個人の仲の良し悪しは必ずしも一致しないが)、自他共に「物語」への距離感を明確に意識しながら生活することが要請された。

 しかし『乾文學』によって再定義されうる「伝統」では、毛色の異なる個人を包摂する共同性は、闘技場型の熱狂とそれに対する絶えざる嫌悪=批判の二項対立にではなく、公園型の分散、そしてそこに由来する偶然の遭遇という、ゆるやかであり、時に唐突なつながりに求められることになるだろう。公園のようにゆるやかで曖昧でありながら、その内に戦慄的な瞬間を秘めた共同性を実現すること。そのために今必要なのは、塾生間での偶然の出会いや発見を生み出す場であり、従来の枠組みではつながれなかった人たち――例えば各寮に現状少しはいるであろう、「文學する」という言葉に反応してしまうような人びと――をネットワークする枠組みである。当然『乾文學』はその中心たり得るが、唯一絶対の手段ではない。『乾文學』を起点として様々な派生的要素(日華交流会の企画など)を散りばめることで、知らず知らずのうちに巻き込まれてしまうような、ゆるくてスリリングなネットワークが和敬塾内に張り巡らされること。これが『乾文學』が実現し得る公園的な「伝統」の可能性である。

 

ここで最も重要なことは、公園は管理人の一存によって一色に塗り固められるほど単純な場所ではないということだ。つまり僕の言葉は、それが公園で発せられたが故に、発せられたその瞬間忽ち公園に取り込まれ、そこを構成する一部分――いわば公園に飛び交う一球のボール――へと相対化されてしまわざるをえない。今回の特集および本號そのものは、出発点に僕の思想が色濃く反映されていることは言うまでもないが、その全貌を見れば、それがいかに偶然性に満ちた雑多な空間であるかに気付くことができるだろう。そこで僕たちが投げたボールがどこに向けられ、どういう軌道を描くのかは、編集側はもちろん想定しているが、読者のみなさんによって僕たちが全く予想しなかったことが発見され、思わぬ所へボールが届けられることも充分あり得るし、僕たちはむしろそういう事態を強く望んでいる。

 塾生及び関係者には、当然ながら和敬塾の今後と「伝統」とを考えながら本號を読んで、ボールをあちらこちらに投げたり受けたりしてもらいたいが、矢張り和敬塾関係者でない方にもぜひとも同じ様に読んでもらいたい。なぜなら、既にお気づきの方も多いと思うが、ある程度の流動性を孕む共同体における「伝統」(慣習と言い換えてもよい)の形成とその再定義いう問題は、何も和敬塾に限ったことではなく、むしろ和敬塾の例は、社会に少なからず存在するそうした諸問題の象徴的な縮図であるとも言えるからだ。

 

 それでは、ようこそ僕らの公園へ。これが、僕らの夢見た和敬塾だ。

 

平成二十八年七月三十一日 東京目白台にて

 

 

 

 

 

1:メディア史研究家で文芸批評家の大澤聡は『批評メディア論』(二〇一五年 岩波書店)の中で次のように述べている。

  

  「もはや問題は誰がその言辞を提出したのかではない。人物の実在/不在ですらない。小林(秀雄――引用者註)の立論を誤釈した人間が一定数存在する事態を前提とした言説が流通し、それによって現時点で『批評無用』が活発に論議されているという共通了解が立ち上がった、そして実際に膨大な発言を呼び込んだ、この構造こそが重要なのだ」(九十二頁)

  

  例えば、これを和敬塾に当てはめると次のようになる。つまり「現在和敬塾には『伝統』と呼ばれる諸制度があるが、これは和敬塾の歴史に比べると比較的最近に出来た慣習でしかなく、とても『伝統』と呼べるものではない」という時、人々はそこに強固な「伝統」の存在を前提として想起する。しかし、今やその「伝統」そのものが急速に解体されつつあるために「和敬塾には『伝統』があるが」ということを前提に出来なくなってきているのだ。前提となる対象が喪失されてもなお、それを指示対象として展開される批判的な言説が本質的に空虚であるのは当然で、(少なくとも今後の和敬塾に関しては)この手の議論を重ねても大して意味はない。これが「指示対象なき言説の連鎖」である。

 

2:「伝統」をより明確に理解するために、僕たちは以下のように考えることができる。つまり伝統的であることと、「伝統」があることとは全く別である。例えば、和敬塾が伝統的だとされるのは、それが六十年以上の継続を持つからであるが、和敬塾の「伝統」つまり伝統であるかのように思われているものは、本質的にはたった三年程度で形成されてしまう制度でしかない。してみれば、歴史は浅いが「伝統」はある、という事態が何の逆説性も持たずに成立するのだ。

 

3:安冨歩複雑さを生きる』(岩波書店 二〇〇六年)一〇二頁。

 

4:特徴的要素の抽出と、それを包摂すること=定義することという構図があまりピンと来ない人のために、これを少し具体的に考えてみよう。

  例えば、今「和敬塾」という言葉を聞いて人々が想起する要素は、だいたい騎馬戦、体育会系、飲酒などであり、これらが「和敬塾」という範囲の中に包摂された特徴的要素であると言える。一方で、避難訓練という要素はどうだろうか? これは、確かに和敬塾内に存在するものの、それによって和敬塾が特徴付けられることはない。避難訓練自体、毎年行われているのにもかかわらず、おそらく「和敬塾といえば?」と聞かれて避難訓練を特徴として挙げる人はまずいない。これこそが、特徴的ではないが、しかし和敬塾に存在する要素であり、図で言うところの「和敬塾」の範囲の外にあった「抽出されなかった」要素にほかならない。従って、和敬塾そのものと「和敬塾」という範囲は別物だと理解してもらいたい。

  また、ここで再定義、すなわち範囲の描き替えということを考えてみよう。例えば、もしも和敬塾避難訓練が、どういうわけか地域ぐるみのとてつもなく力のこもった一大イベントとなってしまい、「和敬塾といえば?」と聞かれた際に「いや、避難訓練でしょ!」という言説が多く生まれるようになってしまった場合、人々はそれが和敬塾の特徴だと見做さざるを得なくなる。つまり「和敬塾」という範囲に包摂されてしまうわけだ。こうしてこれまで「和敬塾」という範囲に包摂されていなかったもの、つまり人々が和敬塾の特徴的要素として注目してこなかったものが新たに特徴となってしまう時、和敬塾は再定義されるのだ。

夜食論

 

夜に食らうと書いて夜食と言うが、単に夜に食べれば好いというわけではない。それは常に夕食の後に行われることにおいて夜食たりうる。つまり、夜食とは節度ある三食の後に押し寄せる過剰なる一撃のことである。夜食が過剰である理由は至って単純で、それは夜食が、ヒトが動物として生きていくにあたり完全に不要な栄養補給の営為だからである*1

 

それでは、人はどうして夜食を取るのだろうか。また、夜食とはいかなる営為なのだろうか。僕はここに夜食の本質を解明し、これが潜在的に持つ可能性を提示してみようと思う。

 

当たり前のことを言うようだが、夜食が過剰な栄養摂取の営みであるということは、裏返せば普段の三食は必要な栄養摂取のための営みだということである。もう少し言うと、普段の三食が、本質的に空腹という生理的=動物的な欲求を出発点として、その上に様々な意味(味、芸術的細工、交流など)を積み上げていくものである一方で、夜食はその過剰さゆえに、いわば欲求が満たされている状態から出発しなければならない。つまり夜食とは、普段の三食とは根本的に異なる始点をもつ営みなのである。従って、僕たちは初めにその始点を明らかにしていかねばならない。

 

それでは、ここからは議論の抽象化を避けるために僕自身の印象的な夜食体験からこれを帰納的に考えていくことにする。

 

僕はゲンロンカフェでアルバイトをしている。そこでは毎晩のように有名な批評家や知識人が議論や討論をしており、時折僕の身の丈を優に超える高度な議論が展開されることがある。業務の側らそれらの議論を聞いている時、内容が高度であればあるほど、俄かに自分も彼ら超人たちに近づいてしまったかのような高揚感=錯覚を抱いてしまう。とはいえ、勤務中は何かとやることもあり、帰り道も途中まで同じスタッフの方と帰るので高揚感=錯覚は決して長続きしない。

 

バイトが終わり、他のスタッフの方々と別れて山手線を降りると、普段なら乗り換える地下鉄はすでに終電が終わっており、僕は三十分以上歩いて帰ることになる。辺りに行人は少ないが、鉄道の工事をしていたり、車が通っていたりするので、真夜中でも大通りは静かではない。不快ではないが寂しくはならない絶妙な喧噪の中で独りとぼとぼと歩いていると、ふとさっきの高揚感=錯覚がむくむくと込み上げてくることがある。印象的、感動的な一言を反芻し、超人性を分けて貰ったかのような幸福な錯覚が身を包む。それがある一定の程度を越えた時、僕は突然、超人思想よろしく何かよこしまなことがやりたくなってしまうのである。(『罪と罰』のラスコルニコフを想起してもらいたい)僕は普段の冷静な時に限って、これを「エセ超人状態」と呼んでいる。つまり、これは初めて「エセ超人状態」になった時の話である。

 

「エセ超人状態」に突入した瞬間から、僕はなぜか何かよこしまなことをしたいという以外に何も考えられなくなってしまう。そして、大体こうなった時に僕は最初にブックオフの前を通るのだが、この時店はいつも閉店した後である。中を見れば店員が閉店作業を行っていた。そこで僕は閉店したブックオフで買い物をするという実によこしまな行動の一部始終を想起してみたのである。

 

「すみません」

「お客様、すでに閉店時間を過ぎておりますが……」 

「そんなものはない」

「いやですからお客様……」

どう見ても素面にしか見えないこの謎の青年に戸惑う「凡人」達を横目に、僕は驀地に本棚へ向かう。何とよこしまな事だろう!

 

 ここまで考えて、僕は店の前に立った。予想通り、店員はかなり怪訝そうな目をしてこちらを見ている。三秒くらい見つめあったあとで、僕は急に「超人」らしからぬ逡巡を覚え、このよこしまな行動を一旦やめることにした。それ以降実際に店の前に立ったことはない。

 

 ブックオフを過ぎてもまだまだ帰り道は長く、よこしまな事をする機会は相応に残っている。僕はこうして歩き続けるのだが、辺りには殆ど人もいないし、多分いたからどうというわけでもない。矢張り何となくよこしまなことをしたいと思いながら、それが段々よこしまなことをしなければならない、気が済まないとこんな気分になってきた。暗闇の色をして流れる神田川を見ながら、何か投げ込んでみたい、何ならいっちょ飛び込んでみようかとか思ってみたが、欄干から見下ろすと川からやけに不吉な異臭がしてこれも何だかいやになった。相変わらずどこにも人はいないが、警察ばかり徒にあちこち往来している。そうして僕は、何だかんだ言って結局このまま何もよこしまなことをせずに部屋へ帰ってしまいそうな気がして、段々不安になってきた。それからものの二十分も歩けば、初めの幸福な尊大さも徐々に息を潜めてきて、とにかく何かよこしまなことをしなければ救われないような気がしてならなくなってきた。

 

 こうして僕は一人ラーメン屋の戸を叩いた。そこには、入試の時僕の隣でコアラのマーチを食べていた髭もじゃの男にそっくりな謎の男が一人ラーメンをすすっている以外には誰もいなかった。何なら店員もいなかった。途方に暮れていた所、やがて店員が中から出てきて、僕はラーメンを食べることに成功した。

 

 僕はラーメンがそれほど好きな訳ではない。友人と食べに行くことはあっても、自分から行こうとはまず思わない。ましてや、終電が終わるような時刻にものを食べるなんてことは尚更ない。それでも僕がこうして真夜中にラーメン屋に入った理由は、他でもなくこれが僕にとって非常によこしまな行為だったからだ。

 

 実に下らないかもしれない。実に馬鹿馬鹿しいかもしれない。おまけに僕はその時大して空腹だった訳でもなかった。しかし、「超人」の錯覚に酔いしれて、「超人」たる所以を発揮しようと試みた結果、かくも遺憾なき月並みの面目を露呈してしまった情けない僕の目の前に現れたあの平凡なラーメンの一杯ほど、僕に深い甘美さをもたらしてくれたものはない。その時、もはや自分が超人ではないことには気付いていた。だけれども、あの時思い立った以上何かよこしまなことをしないではいられなかった。とはいえ自分には閉店中のブックオフに入ることすらできない。それでもなお、よこしまなことがしたいという「凡人」よりも惨めな僕を救済したのは、普段なら見向きもしないラーメンそのものだったのだ。夫れラーメンとは、常に大匙一杯の背徳感と自己嫌悪とを加えることで初めて完成するものなのである。

 

 僕たちは、この体験から夜食の成立する瞬間を見出すことができる。つまり夜食とは、本来取る必要のない栄養を摂取することである。それゆえに、夜食は本来何か食べたいとは思っていない時に食べられるべきである。換言すれば、夜食とは別に何かを食べたい訳ではないが、しかし何かを食べないではいられないという屈折した衝動によるものでなければならない。僕はこの本質的な屈折性に、普段の三食(の根本)には絶えて見られない高度に人間的な様相を見るのである。してみれば、夜食とは三食に準じて「四食目」とされるべきものではない。なぜなら、普段の本質的に動物的な三食には見られない極めて人間的な食文化の可能性を僕たちに提示しているからである。夜食とは、普段の食生活では絶対に味わえない全く異質にして新鮮な人間的喫食体験なのである。

 

 また夜食の出発点であるこの屈折性は、人間的であるがゆえにこれと特定しうるものではない。僕が夜食を発見したのが、たまたま「エセ超人状態」後の幻滅を満たす瞬間であっただけで、これがいわゆる「やけ食い」であっても何であってもいい。要は、身体は全然欲していないのに、何故か食べずにはいられないという屈折的で強い衝動のなすがままに真夜中にものを食べること、これである。ただ残念ながら、そういう時間帯に口に入れられるものは大抵身体に悪いものばかりである。しかし――むしろだからこそ――夜食は人々を類稀な恍惚の境地へと誘うのである。

 

 

 

*1:僕はここで一日の最後に採られる第三の食事として夕食を定義している。また僕が本文で夜食をかように定義するにあたり、単純に空腹=欲求を満たすために夜食を採る一部の人はやはり疑問を禁じ得ないと思う。しかし僕は、ひとり欲求を満たすがためだけに夜間の喫食を事とする人には、到底爽快な朝食なんて訪れないことを知っている。その意味で僕は、その手の夜食を単に普段の三食に準ずるものとしてしか扱わない。そしてこの見解は、多分に僕自身の経験に基づくのであるが……。