暁命堂雑記

ときどき書きます。

掌編

真夏の猫

※「〳〵」はくりかえし記号 昧爽既に山ぎはは真白、人の起きたるを待たで鳴きたる蟬の喧囂、高潔聡明の云はれも最早今は昔ぞかし。唐土が騒人處士の、かれを以て賢に見立てたるは、まこと暑さにお頭の厶りしゆゑならむと扇しならせ一人合點。絶へず枕の浮き…

余は石だらけの土手のやうな處を歩いてゐた。夜である。ぢやり〳〵と歩きながら、余は何やら考へ事をしてゐた。凡そ世のくさ〴〵の美は、形式美と内容美とに別れると云ふ者があるが、そんな事はない。よしんば別れた處で、それが、騎士の持つ剣と楯とのやう…

詩人

先日ある授業を受けていた折に、先生が突然李白になった。少し虚ろな目になりながら彼方此方を歩き回っては頻りに長吟している。柳の様な二束の口髯をしくしくと情けなく垂らし、それぞれが歌に合わせて根元からわさわさと揺れ動いていた。三盃通大道、一斗…

電氣

寮の六畳の自室に歸つて外套を脱ぐと、奥の窗際にある寐床の上に見知らぬ女が獨り寐てゐた。茶地に黑い猫と其の足跡が無數に描かれた掛布團をすつぽりと被りながらじつとこちらを見てゐた。邊りがまう随分と暗くなつてゐるために薄盆槍としてゐるが、然し相…

鹿

紂王が球琳金華に偃蹇たる煙火の裡に塵埃となった爲に、人間は忽ち周の世になつた。雪谿の既に溶けて了つた春先の事である。革命の知らせを受けた兄弟はいそぎも懇ろにせず、須臾のうちに軀に七穴を開けむばかりの勢いで胸裡に膨れ上がらむとする正義を抱へ…

花火

男が早稻田の、丁度夏目坂通りを登つた處に在る下宿に住んでゐた。北向きの六畳一閒には、茶色い本棚が數多有つた――否寧ろ本棚しか無く、最早本棚が壁と爲つてゐたのである。男は日常凡そ如意の時は必ず書物に向かつて飽きる事が無かつた。實家からの學資も…

文庫

※「〳〵」は繰り返し記号です。 とある林の中、小さな石でじやり〳〵した徑の突當りに舊い洋館が有つた。今はたれも住んでゐない。いまは博物館となつてゐる其處は、何だかハイカラであり乍ら閑然としてをり、コツテエヂなんぞと云ふより寧ろ洋館と云ふのが…

食堂

食堂の戸は横滑りである。勢い好く開けた處で、男臭がプンとする訳でも無い。食堂は略長方形の渺茫(びようぼう)たる大部屋で、戸は丁度右長辺の半ばに位置してゐる。余は、長方形の長辺の残りを大股で歩いてゐる。やけに運足が自由である。パンツが無いのだ…

あとがきに替えて

上海へ九日間の語学研修に行って来た。午前中は授業を受け、午後からは現地の学生と遊びに行った。無論会話は中国語である。尤も楽しかった所は上海書城である。これは日本で言う紀伊国屋ビルみたいな物である。書城もそうだが、中国は何かにつけて城にした…

紅色

一 赤色が中国の色ならば、豫園は中国の結晶の一と云へるかも知れぬ。此の一帯には兎角朱色の高殿が密集してゐる。雑貨屋が有る、小吃屋が有る、宝石屋が有る、皆外観は朱色や臙脂色をしてゐる。どの店からも常に人が流れ出て来る。此れを形容するに、熱鬧と…

老人

随分と昔の事である。長江の畔、凡そ漢陽の辺りに一軒の料亭があつた。料亭と云つたが、大した物では無い。民家の広い一間を、其れと為してゐたのみである。客は、多からずして絶えずと云つた處である。 店主は辛と云つた。猛禽類のやうな白眉に、霜のやうな…

和敬風呂縁起

無論、この小説は虚構である。虚構であるが、私の実体験に根差している事は言うまでもない。混雑した和敬塾の共同風呂の有様は、大方この小説に有る通りである。寮生など、利用した事があれば大体共感頂けると思う。 私は自身の傾向として、余り滑稽に走る事…

和敬風呂

脱衣所の重い扉をぎいと押す。余は、この瞬間必ず男臭は汗臭と殊なる事を実感する。入口附近の棚から皓白たる敷物を取りて湿つた床に置く。這裏に散乱する白布は明らかに菌床と化している。余は潔癖では無いが、風呂上がりの玉の如き足を之れに委ねるのには…