暁命堂雑記

ときどき書きます。

和敬風呂縁起

 

 無論、この小説は虚構である。虚構であるが、私の実体験に根差している事は言うまでもない。混雑した和敬塾の共同風呂の有様は、大方この小説に有る通りである。寮生など、利用した事があれば大体共感頂けると思う。

 

 私は自身の傾向として、余り滑稽に走る事はない。尊敬する知己の草原君や、哲学者青木氏、好男子で東大生の中村氏、東京大学社会学那須氏、実業家を目指している森上氏などとは、屡私の身に合わない位高尚な話などする。自身の日記ではそれなりに身辺の事を真面目に叙述してみたりなどする。

 

 然し、私は自分をそれ程良くできた人間だとは思わないし、真面目だとも思った事はない。けれども、相対的に見て、私は多分に欲情の淡泊な性分であるとは思う。丁度金井、古賀、兒島三氏の「三角同盟」の如くである。従って、お風呂で聞く他寮生の傲慢で欲深い言説に辟易する事も屡有る。大胆に言えば、唾棄すべき鬼畜の様に思われる事さえある。一方では、彼らを斯様に斬り捨てるには、私は余りに未熟にして高尚ならず、欠点の多い人物であるという事も自覚している。その自覚故か、日頃日記や詩文を以て感動を自然に純粋に、さも趣深げに叙述しようとする一方で、感動や経験を多少歪曲して述べたくなる事がある。この小説内にあって笑われないのは虎君だけであろう。「余」は傲慢にもお風呂のあらゆる人物をからかっているが、畢竟「余」も、其の完璧ならざる傲りを読者に笑われるのである。(否、是非とも笑って欲しいです。)

 

 目に映るものを悉く滑稽の大壺にぶちこみたい。そんな思いからできたのが、『浮世風呂』と『吾輩は猫である』とを混ぜて半分に割り、シャワーのお湯で薄めたようなこの拙文なのである。