暁命堂雑記

ときどき書きます。

老人

 随分と昔の事である。長江の畔、凡そ漢陽の辺りに一軒の料亭があつた。料亭と云つたが、大した物では無い。民家の広い一間を、其れと為してゐたのみである。客は、多からずして絶えずと云つた處である。

 店主は辛と云つた。猛禽類のやうな白眉に、霜のやうな双鬢の豊かな老人である。辛は優しい男であつた。其れは、凡そ商売人には不要な性質の優しさである。客から値切られたら直ぐにまけて了ひ、注文に無くともつい〳〵団子の二つ三つ許り出して了ふ。その人柄を好んで来る客も割合存在してゐたが、矢張り利は生まれぬ。辛の店が、長らく尋常の小食堂に甘んじてゐたのも無理は無かつた。

 或る春の日の事である。長江は宵の口、天際に呑まれる小舟も臙脂色に染まつてゐる。辛の料亭は二三の燭台の明かりの中で、農夫が四人許りで筵を囲繞してゐるのみであつた。すると、其處に一人の老人が這入つて来た。背は低く、身なりは極めて粗末で、枯葉のやうなぼろ一枚しか着てゐない。雲長のやうな長い顎鬚が臍迄伸び、さゝくれ立つた檜の杖を突いてゐる。農夫達は気にも掛けぬ。見知らぬ老人等何處吹く風と云つた体で酒を呑んでゐる。

 老人は榻に掛けた後、辛に「金は無いが、酒が欲しい」と云つた。普段なら有り得ないが、辛は、老人の要求通り酒を出してやらうと思つた。別段彼が老人に対して憐憫の情を催したからでは無い。寧ろ共感したからである。辛には弟子も後継もゐない。彼は盛隆に欠く自分の店がさう長く無い、云はば遠からざる自分の死と共に紅炉上の雪のやうに無くなる事を知つてゐた。彼の優しさは、天賦の性分であると同時に「然もあらばあれ、孤翁の小亭」と云ふ一種の諦念による物でもあつた。そして今辛が無料で酒を出したのは、畢竟黎老に固有の諦念を、眼前に坐す粗衣の貧翁に見出したからであつた。

 酒が来た。老人は実に美味そうに酒を呑んだ。猶ほ人生の最後の晩酌のやうであつた。辛は、例の団子を出してゐた。老人は二時間許り呑んだ後店を出た。暫くして農夫達も店を出た。辛は店仕舞いをし乍ら、盛大なはなむけの後片付けをするやうな、優しげな充足を感じた。

 ところが、次の日の宵の口にも亦老人は現れた。枯葉のやうなぼろを着て、そして昨日同様に「金は無いが、酒が欲しい」と云つた。辛は、同じやうに酒と小吃を出した。だうせ彼の後生は長く無い、直に来なくなるだらう。辛はさう信じてゐた。

 果たして老人は来続けた。煙花三月に横斜を見て、炎波七月に蟬吟を聞いても猶ほ来続けた。始めはいぶかつてゐたが、辛は最早詮索に倦んでゐた。毎日、宵の口に現れては酒を呑んで徃く老人がゐる。其處に機微の邃みが有るとは、到底思はれなかつた。

 たう〳〵秋になつた。長江の水は瑩朗としてゐる。緩く波立つ流れの中に、いやに明るい満月がぐにや〳〵してゐる。其の日も矢張り老人は来た。辛は、同じやうに酒を出した。老人はとても美味さうに呑んだ。

二時間許り経つた頃である。何時もは帰る筈の老人が、何やら壁を見つめてぼうつとしてゐる。辛がだうしたと訊ねた處、老人はかう云つた。

 「今日で丁度半年ぢや。毎日〳〵たゞで美味い酒を呑ませて貰つたのぢやから、ちと礼でもしやう。此處の壁、失礼するぞよ。」

さう云つて、何處に隠してゐたのか、徐に筆と密陀僧のやうな顔料とを持ち出して、壁に絵を描き始めた。この翁は絵師だつたのかと獨り合点しつゝ、辛は老人が絵を描くのを見てゐた。忽ち鶴の絵が出来た。中中の出来である。今にも動き出しさうだ。辛の感心をよそに、老人は飄然として去つて徃つた。

 暫くして、四人の農夫がやつて来た。壁には真新しい鶴の絵が有る。だうしたのだと問ふので、辛は何時も呑みに来る老人が書いたのだと云つた。農夫達は少し床しげであつたが、然程気にする訳でも無く、直ぐに筵上の酔客となつた。酔後方に楽を知る、四人は忽ち哄然として高らかに歌い始めた。するとだう云ふ訳か、壁面の鶴が歌に合わせて舞い始めたのである。農夫達は、始めは呑み過ぎたかと思つた。然し、隣席の壮夫は瞠目して已まず、厨房の主人は開口して動かない。だうやら本当に絵に描いた鶴が舞つてゐるらしい。四人は一層高興して痛飲し、仕舞には皆泥酔して卒倒して了うと云ふ有様であつた。

 歌に合わせて踊る鶴の絵が有ると云ふ噂は、立處に海内八荒に至る迄駆け廻り、辛の店は嘗て無い程に繁盛した。何人手伝いを雇つても忙しさは絶えない。辛は、瞬く間に泰山にも勝る富を築き上げた。

 其の年の冬である。晩来の冷雨は既に止んだものゝ、尚厚雲は天を覆ひ、頭を強く押してゐる。高樹は古葉を敷き、朔風は枯蓬を転ばしてゐる。店支度をしてゐた辛の處に、例の老人がやつて来た。彼は鶴の絵を描いて以来、一度も店には来てゐなかつた。

 「おゝ、お久しぶりですナア。あなたの鶴の絵のお陰で、内は大繁盛です。」

 「其れは良かつた。酒代のかはりぢや。」

「いやまう本当に忙しくつて、毎日猫の手も借りたい位です。」

 「鶴の羽なら借りてをるでは無いか。」

 「これは、一本取られましたな、はゝゝゝ。」

老人は、まう鶴の絵は無くとも好からうとて、ぴいと指笛を吹いた。するとだうだらう、壁面の鶴がむく〳〵と動き出して、壁から出て来たでは無いか。辛は亦あんぐりと大口を開けて呆然としてゐたが、老人は恬とした儘、其の鶴に乗つて雲外の彼方に飛んで徃つて了つた。

 辛は後に料亭を改修して、仙人の功を記念する為に高楼を建てた。当時仙人の描いた鶴が、顔料の加減から黄味を帯びてゐたので、其の高楼を称して黄鶴楼と呼ぶ事にした。

 其の後、黄鶴に跨つた仙人を見た物はたれもゐない。