暁命堂雑記

ときどき書きます。

鹿

 紂王が球琳金華に偃蹇たる煙火の裡に塵埃となった爲に、人間は忽ち周の世になつた。雪谿の既に溶けて了つた春先の事である。革命の知らせを受けた兄弟はいそぎも懇ろにせず、須臾のうちに軀に七穴を開けむばかりの勢いで胸裡に膨れ上がらむとする正義を抱へたまゝ、棲家を飛び出した。二人は康衢の好奇の眼も顧みず、糊口の憂慮の念も催さないで千里も一日と驅けに驅け抜いて、たう〳〵或る日の夕刻首陽山へ辿り附いた。

 周は不義の國であつた。周の文王は殷によつて西伯に任ぜられた。つまり周は殷の諸侯であつた。諸侯でありながら主君を殺すのは不義の至りである。加之、文王の子武王は、父の葬儀も丁重にせぬ内に文王の威光を頼りて紂王を誅した。此れもまた不孝の極みである。此處に於いて、兄弟は周の粟を食らふを好しとせず、二人して山中に逃げたのであつた。

 ざく〳〵と一刻ばかり只管石径の斜めなるを歩き續けた二人は、少し戸惑つてゐた。邊りに食べられさうな物が絶へて無かつたのである。天は宵に近い。首陽まで驅け續けた肉體は疲弊し、喉も渇いてゐた。邊りに生えてゐたのは、東月の斜光に些か燦燦として照る靑苔か、何だかよく分からぬ背の高い針葉樹位であつた。それから、それから石も澤山あつた。弟は團子の樣に圓圓とした石を拾つて盆槍然と眺めてみたが、やがて杳然とした深林の奥目がけて投げ捨てゝ了つた。

 ぼちやと云ふ音がした。弟は目を瞠つて、くらい林の奥を覗き込んでみた。まう一度投げ込んでみると、矢張りぼちやと云ふ音がした。邊りが暗いのもあるが、木木の先に何が有るかは絶へて分からぬのであつた。とは云へ、此の先には水があるに違ひなかつた。二人は欣喜して、互ひに慫慂し合ひつゝ林間を走つた。

 間も無く木木が無くなつて、湖に辿り着いた。暗中目測に堪へぬの感はあるが、せい〴〵奥行十間足らずの樣だつた。二人は岸にこゞんで、がぶ〳〵と水を飲み始めた。枯渇した身に這入る清水ほど美味いものは無い。美味いよ兄貴なんぞと云ひながら、二人は何時までも飲み續けた。

 昧爽岸邊で醒めた二人は、自身の更に幸運なるを悟つた。昨晩は水を得た喜びと暗さと疲勞とで氣附かなかつたが、二人の目前に一軒の蝸牛廬があつたのである。人のゐる氣配は無い。戸口には蓁蓁と薇が生えてゐるのが見えた。すでに廬を結ぶ手間も無くなつた。飲食の心配も無い。此處でかうして細細と隠遁しておけば、市井では兄弟が義士として人口に膾炙し、あはよくば來者の傳へ聽く處の者となつて徃くのでは無いだらうか。二人はそんな事を考へながら薇を二三束むしり取つて中へ這入つた。

 外から足音がするのを聞いて、二人は薇を齧る手を止めた。外を見ると、一人の老婆が此方へ向かつて歩いて來てゐた。老婆は背が圓く非道く尖つた眼をしてをり、くすんだ黃綠の襤褸を着てゐたが、それは黃綠と云ふより寧ろ全ての色を混ぜて水で薄めた樣な下品で汚い色だつた。背は稲穂のやうに垂れてゐたが、筇は突いてゐない。諸手を腰に當てたまゝ歩いて來た。

 「吾吾は不義の國である周を嫌い、周粟を食らふを好しとしなかつた義士である」兄は、老婆から何も云はれぬ内からづか〳〵と歩み寄り、いやに胸を張つて云つた。弟も慌てゝ兄に續き「義士である」と、稍荘厳に繰り返した。老婆は暫く上目遣ひに二人を睚眥してゐたが、そのまゝの表情で乃ち「周粟を拒むくせに周の薇は食らふのぢやな、望み通り來者の傳へ聽きて笑ふ處の者と爲れるぢやらうて」と云つた。兄弟は、薇をどさと落として了つた。老婆は續けて「わしの見ぬ處でだうしやうと勝手ぢやが、間違つても殺生を起こさうなんぞと考へるでないぞ」と云つて何處かへ去つて徃つた。

 それから數日間、兄弟は薇の束を捨てゝ、盡日物を食らふ事無くじつと堪へた。或る払暁、突然霞が廬を掩蔽した時、二人は空腹に堪へられなくなつて外へ出た。廬の外には春霞が一面に廣がつてゐるので、腕を伸ばした先に何があるかは絶へて分からぬのである。とは云へ、腕の先には指があるに違ひない。それ位邊りは白色に滿ちてゐる。兄は實に弱つたと許りに肩を竦めているが、隣の弟はやけに鼻息荒く佇んでゐる。霞を食らふを得たりと云つて、鼻から口から烈しく呼吸をしてゐる。深く霞を吸つてみると、豈にはからんや、舌上には僅かに水の甘味が漂ひ、その甘味の消えぬ間に鼻腔の奥や咽頭の邊りに妙に冷冽な感覺がして、それが忽然として胃の中へ蓄積して行くのである。とは云へ、後世に云ふ仙人の食らふ霞は、本來は霊木や霊地なんぞの氣を表すもので、春に浮く本物の霞ではない。兄弟は、云はゞ初めて倒錯した形に於いて霞を食らつた者であつたのかもしれない。兄は、より多くの霞を食らはんと欲して闇雲に驅ける弟の音を聞きつゝ、頼り無い滿腹を得るまで食事をしてゐる。足音が消えた頃、矢張りぼちやと云ふ音がした。

 次の朝には、兄弟は湖の畔で、こんもりと盛り上がつた蒼色の苔のもとにこゞんでゐる。霞が露になつて表面は些か燦燦としてをり、見るからに柔らかである。二人は苔を少し摘まんでみた。すると苔はもす〳〵と音ならぬ音を鳴らして剥がれていく。掌を轉がる苔はふんわりして、中には空氣と水とが豐かに含まれてゐる。さうして底の方には薄く土が附いてをり、其處は至極湿潤でありながら微かにざら〳〵してゐる。口に入れると、苔は根菜の葉の樣に極端な苦味を伴つてとろけ、一方で恰も口内に依依とした樣で留まらむとする土の優美な甘味が相對的に際立つて感ぜられる。微笑む弟の顏を見た時、齒と云ふ齒が不氣味なまでに鮮やかな綠に染まつてゐたので、兄は俄かに恟然として了つた。

 銀色の女鹿が軈て杳然とした深林の奥から歩いて來ても、二人は湖の水で渇きを癒さむとしてゐる。鹿は月の樣に輝いて豐満を極め、だらしなく乳をぽた〳〵と垂らしながらこゞんだまゝの二人の下へ近附いて來る。立ち止まつた鹿の足元には小さな乳溜りが出來てゐる。兄弟は無言のまゝ見つめ合つてゐる。二人は長らく獸肉から離れてゐる。豐かに肥え太つた女鹿は、二人にとつて至高の魅惑である。二人はどの樣にすれば上手く屠る事が出來るかを考えてゐる。兄は二人で抑へて絞めてやらうと考えてゐる。一方で、弟は溺死させるのが効果的だと考えてゐる。なぜなら、眼前の太つた女鹿の力は、慢性的に衰弱した自分達を凌駕しうるかもしれなかつたからである。だが二人掛かりで湖に突き落としてやりさへすれば、後は浮き上がつて來るのを待てば好いのである。御馳走は目前にじつと佇んでゐる。兄弟は堪らなく嬉しい氣持ちになつた。

 まさに弟が兄に自分の意思を傳へやうと決意した時、鹿が大きく嘶いた。二人が驚く間も無く、女鹿は逃げ出して徃く。兄弟は慌てゝ追いかけたが、女鹿は忽ち霞の中に見えなくなつて了つた。

 がつくりと膝を突いた時、突然霞がさつぱり消えて無くなり、二人はこれまで食べて來た物が、本當は全然大した物ではなかつた事を気附かされた。湖の水面が、笑ふやうにぴく〳〵と風に波立つてゐた。それぞれの手に萎れた薇を握りながら、兄弟は庵のそばに倒れ込んで、やがてぴくりとも動かなくなった。