どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

電氣

 寮の六畳の自室に歸つて外套を脱ぐと、奥の窗際にある寐床の上に見知らぬ女が獨り寐てゐた。茶地に黑い猫と其の足跡が無數に描かれた掛布團をすつぽりと被りながらじつとこちらを見てゐた。邊りがまう随分と暗くなつてゐるために薄盆槍としてゐるが、然し相當に日焼けしてゐるやうで、一見するに何處に眼が有るのかがはつきりしなかつた。布團の下には肩が露わになつてをり、服を着てゐないのだらうかと思つた。私は女性用の服を所持してゐないので、だうしたものかと困惑した。「きみ、窗を開けてゐて寒くはないかね」と私は云つた。部屋の窗は網戸になつてゐて、先程から黃色い窗掛けがやけにふわ〳〵してゐるのである。外套を右腕に掛けた儘、私は窗の方へ徃き、女の上を橋のやうに伸びあがつて、寐床の奥の窗を閉めた。「布團があるですので、寒さは、大丈夫です。」と女は布團の中をかさ〳〵と動きながら云つた。

 外套を掛けて椅子に座つた時、やつと部屋が真暗な事に氣附いた。私が電氣をつけねばと思つた時、女が突然「それはいけませんです」と云つた。オヤだうしてだねと訊くと、たゞ「電氣はいけませんです」と云ふのみであつた。見ると、矢張り同じやうに女は布團を被りながら私を見てゐた。私が布團に這入つても、女は私を見續けてゐた。

 突然降り出した雨が窗を叩き、泡沫となつて雨樋をだら〳〵と流れて徃つた。窗から見える大きな樹はびつしょりと濡れてぐつたりとしてゐた。私は睡郷へと赴きかけたものゝ、女は中中眠らうとしない。眠らぬのかと云つても「夜だと眼が冴えて了ふのです。」と云ふばかりである。さう云はれると私もなぜか急に寐附けなくなつて了つたので、何か物を食べやうと云つて布團を出た。女も附いて出て來た。私は何か食べたひ物はあるかと云つたが、食べる物は大して何もなかつた。冷蔵庫にだつて何もなかつたが、私は中を探すふりをした。すると女はがさ〳〵と音を立てゝ何處かへ徃き始めた。何だと思つて見ると、女は小さな尻をこちらに向けながら――そして何故かその尻もこんがりと日焼けしてゐた――赤子のやうに這つて部屋の出口に向かつてゐた。「出ちやいかん、この時間帯寮内は女性立入り禁止なんだ」と云つたが、然し女は出やうとしてゐた譯ではないやうだつた。見ると、女は扉の脇に置いてある茶色い小さなごみ箱を見下ろして、俄かにそれを漁り出した。私は突然目前で堂堂と昔の日記を盗み見られたやうな心地がして、慌てゝ「それはごみ箱だから、食べられるものは無いよ」と諭した。女は「私、嫌いな物はありませんです。」と云つた。さうか、それは好い心掛けだと私は納得したが、然しごみ箱を漁られるのには閉口したので、女をごみ箱から離して、たま〳〵あつたどら焼きを食べる事にした。どら焼きはこんがりとした焦げ茶色で柔らかく、糖分の多い表皮は明かりの少ない部屋の中にあつてもつや〳〵としてゐた。女は私の前で膝を前に出して座り、矢印のやうに两脚を左右に投げ出した格好をしてゐた。女は两手でどら焼きを持つてもそ〳〵と少しづゝ食べてゐたが、一口齧る度に五分ばかりは咀嚼して食べた。食べてゐる處を私に見られるのが堪らなく厭なやうで、極端に前かゞみになりながら、これまた確り日焼けした首を私に向けて、私の見えない處で食べやうとしてゐた。随分と辛さうだつたので、私は部屋の扉の方を向いてやる事にした。

 然し女が何時までたつても食べ終わらうとしないので、私は段段薄氣味惡くなつて來た。まう一時間はたつたやうな氣がした。どら焼きを食べるのに一時間もかかる筈がない。だが、私が食べ終わつたかと訊いても「まだです。」と云ふばかりで、またもそ〳〵と食べ始めるのであつた。私は何だか怖くなつて來た。一刻も早くこの女を置いて何處かへ逃げないといけないと感じた。後ろからは、相變はらずもそ〳〵と音がする。私が逃げ出さうと氣を固めた時、女は「電氣はいけませんです」と云つた。さうだ、電氣を附けてやらう、電氣を附けて、急いでたれかの部屋へ避難すれば好い。私はさう思つて、女が何やらごによ〳〵と騒ぐのも無視して扉の左の壁に附いてゐる電氣のボタンを押した。

 「ちくしやう、この野郎」と云ふ聲がしたが、驚いた事に振り返つた先に女はゐなかつた。やがて欠けたどら焼きの下から一匹の雌が這い出して、私の两脚の下を潜り抜けて、一目散にかさ〳〵と扉の下の小さな隙間を通つて、何處かへ消えて了つた。