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どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

掌編

 余は石だらけの土手のやうな處を歩いてゐた。夜である。ぢやり〳〵と歩きながら、余は何やら考へ事をしてゐた。凡そ世のくさ〴〵の美は、形式美と内容美とに別れると云ふ者があるが、そんな事はない。よしんば別れた處で、それが、騎士の持つ剣と楯とのやうに別れたまま物體の性質となることなんぞある筈が無い。余はずん〳〵道を歩いてゐた。

 真黑な空の中に滿月が出てゐて、その下をつがいの鳥が飛んでゐた。道には余の他には誰もゐないし、左手には月に照らされて、遠く見えなくなる位迄河が廣がつてゐた。風は、反對側の遠い山脈の彼方から吹き下りて來る樣だつた。

 余の考へてゐたのは何も難しい事では無い。美しいものを畫なり詩なりに描いても、腕が悪ければ醜くなる。筆を知らぬものに新粧に倚る飛燕を畫かしめた處で、その美が市井の婦女にも及ばないのは當然だし、詩の韻律や言葉を誤れば、矢張り中身も外身も遺憾無き月竝の面目を露呈して了ふに違ひない。余は段段いら〳〵して來た。

 相變はらず明月は河に入りて两鳥は還り、斜風は地に接して一途は曠しい樣であつた。山は圓い木の一本〳〵が白い光に映じて奇麗だつた。道は、どこまでも果てる事のないやうに思はれた。河が潺湲と流れてゐた。水はさら〳〵と美しい音を立てた。余は、目を閉じていつまでも河の音を聽いてゐやうと思つた。

 つまり、形式美と内容美とは、互いに獨立するものでは無く、寧ろ渾然一體となつてゐるのである。その交はりが複雑なのだから、時時どちらか片一方しか見えなくなつて了ふのである。例へば小説なんてだうだ、今や讀む者は殆どが内容美ばかり見て、外側はまるで無視してゐるでは無いか。余は更にぷん〳〵腹を立てた。この雙つの美は、少くとも互いに妙合せねばならぬ。美はごちや混ぜなのだ、さうに違ひ無い。

 そこ迄考へた時、突然目の前に大きな男が現れた。と云ふより寧ろ、余はぶつかりさうになるまで男に気付かなかつたのである。男は余をぬうと見下ろして「ぢやあ、澤山混ぜてみやう」と云つて、早足で何處かへ歩き出した。余は、はつとしたが、そのまま男に附いて徃つた。

 間も無く、余等は土手の下にある古びた饂飩屋に着いた。饂飩屋の中は狭かつたが、奥行きが妙にあつた。窗から差し込む斜光も縷縷として頼無く、天井にぽつんと提灯のやうな明かりがめら〳〵と燃えてゐるだけで何となく陰氣であつた。机も長くて白いのが雙つ竝んでゐた許りで、奥の厨房には例の男とまう一人別の男が彼方此方動き廻つてゐた。余が坐つた斜向かひには、見知らぬ老人が白い鬢を口や顎の鬚と繋げてもぢや〳〵とさせてゐた。老人が厠に立つた後で、余はがちや〳〵と騒がしい厨房に向かつて月見饂飩を所望した。

 饂飩が來た。しかし例の男が持つて來て、余が饂飩だと思つたのは、白い丼に這入つた卵かけ御飯だつた。湯気を上げる白米の上で卵がぷる〳〵と搖れてゐた。ただ、机に醤油が無かつたので余は随分弱つて了つた。手を叩いて醤油、醤油と云ふと、あの變な男と同じ顏付をしたまう一人の別の男が、老人の卵御飯と一緒に醤油を持つて來た。余が醤油をかけてゐると、老人が帰つて來た。老人は雙つの眉をぴく〳〵とさせたが、直ぐに醤油をかけ始めた。

 御飯は卵と好く混ざり、米の圓い粒粒は一つ〳〵が陸離として琥珀のやうであつた。箸を差込むと、米はもす〳〵と音を立てヽ離れ、中からぼわ〳〵と湯気が現れた。絶妙な温度と、醤油の香ばしさが堪らなくて、余は忽ち丼一杯を平らげた。丼の底には二匹の黃色い蛇の姿が描かれてあつた。時を同じくして老人もまた平らげたやうで、余等は滿足げな表情を浮かべながら同時にとんと丼で机を突いた。

 ところが、丼の中には湯気を上げる白米がびつしり這入つてゐて、矢張りその上に卵がぷる〳〵と搖れてゐたのである。老人は瞠目しては頻りに汗を拭いてゐた。余は水を二杯飲んで、それからかつと括目してみたが、矢張り卵は搖れ續けてゐた。余等は再び醤油をかけて、陸離とした卵御飯を食べた。味は變はらなかつたが、かなり苦しかつた。一杯目の倍程の時間を掛けて、漸く丼を平らげた。矢張り底には黃色い蛇が二匹ゐた。ちり紙で口邊の卵を拭き取りながら老人を見ると、彼もまた安堵した表情で口を拭きながらこちらを見てゐた。老人の鬚は卵でべた〳〵してゐた。

 だが一息ついて丼を見てみると、中にはまた白米がもり〳〵と積もつてゐて、窗から入る真白な斜光に復た照らされた卵が黄色いまヽで悠悠とその上を動き囘つてゐたのである。厨房はがちや〳〵してゐた。余は頻りに汗を拭きながら老人の方を見た。老人は愕然として、顎の位置が定まらない樣子であつた。その後余等は何度醤油に手を伸ばしたか知れない。白い机には、卵で出來た丼の底の跡が無數に附いてゐた。鬚が卵だらけになつた老人は、軈てあう〳〵と聲ならぬ聲を上げながら椅子から轉げ落ち、そのまま厠までばた〳〵と這つて徃つた。

 醤油を手に持つて、だうしやうと思案してゐると、がちや〳〵してゐた厨房が突然森閑として、物音一つしなくなつた。厨房の方を見ると、二人の男はきつと首を廻して、此方を凝視して來た。強い視線に割れて了ひさうな氣持ちがしたので、余は慌てヽ目を反らした。すると俄かにかたつと云ふ音がして、男が一人厨房の彼方からばた〳〵と驅けて來た。目や服や手が黄色いやうな濁つた變な色をしてゐた。余は思はず卵御飯の這入つた白い丼をひつくり返して、底を上にして置いた。底にも蛇がゐた。余は底を上から两手で抑えた儘、だうにも動けなくなつてしまつた。