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どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

夜食論

 

夜に食らうと書いて夜食と言うが、単に夜に食べれば好いというわけではない。それは常に夕食の後に行われることにおいて夜食たりうる。つまり、夜食とは節度ある三食の後に押し寄せる過剰なる一撃のことである。夜食が過剰である理由は至って単純で、それは夜食が、ヒトが動物として生きていくにあたり完全に不要な栄養補給の営為だからである*1

 

それでは、人はどうして夜食を取るのだろうか。また、夜食とはいかなる営為なのだろうか。僕はここに夜食の本質を解明し、これが潜在的に持つ可能性を提示してみようと思う。

 

当たり前のことを言うようだが、夜食が過剰な栄養摂取の営みであるということは、裏返せば普段の三食は必要な栄養摂取のための営みだということである。もう少し言うと、普段の三食が、本質的に空腹という生理的=動物的な欲求を出発点として、その上に様々な意味(味、芸術的細工、交流など)を積み上げていくものである一方で、夜食はその過剰さゆえに、いわば欲求が満たされている状態から出発しなければならない。つまり夜食とは、普段の三食とは根本的に異なる始点をもつ営みなのである。従って、僕たちは初めにその始点を明らかにしていかねばならない。

 

それでは、ここからは議論の抽象化を避けるために僕自身の印象的な夜食体験からこれを帰納的に考えていくことにする。

 

僕はゲンロンカフェでアルバイトをしている。そこでは毎晩のように有名な批評家や知識人が議論や討論をしており、時折僕の身の丈を優に超える高度な議論が展開されることがある。業務の側らそれらの議論を聞いている時、内容が超越的であればあるほど、俄かに自分も彼ら超人たちに近づいてしまったかのような高揚感=錯覚を抱いてしまう。とはいえ、勤務中は何かとやることもあり、帰り道も途中まで同じスタッフの方と帰るので高揚感=錯覚は決して長続きしない。

 

バイトが終わり、他のスタッフの方々と別れて山手線を降りると、普段なら乗り換える地下鉄はすでに終電が終わっており、僕は三十分以上歩いて帰ることになる。辺りに行人は少ないが、鉄道の工事をしていたり、車が通っていたりするので、真夜中でも大通りは静かではない。不快ではないが寂しくはならない絶妙な喧噪の中で独りとぼとぼと歩いていると、ふとさっきの高揚感=錯覚がむくむくと込み上げてくることがある。印象的、感動的な一言を反芻し、超人性を分けて貰ったかのような幸福な錯覚が身を包む。それがある一定の程度を越えた時、僕は突然、超人思想よろしく何かよこしまなことがやりたくなってしまうのである。(『罪と罰』のラスコルニコフを想起してもらいたい)僕は普段の冷静な時に限って、これを「エセ超人状態」と呼んでいる。つまり、これは初めて「エセ超人状態」になった時の話である。

 

「エセ超人状態」に突入した瞬間から、僕はなぜか何かよこしまなことをしたいという以外に何も考えられなくなってしまう。そして、大体こうなった時に僕は最初にブックオフの前を通るのだが、この時店はいつも閉店した後である。中を見れば店員が閉店作業を行っていた。そこで僕は閉店したブックオフで買い物をするという実によこしまな行動の一部始終を想起してみたのである。

 

「すみません」

「お客様、すでに閉店時間を過ぎておりますが……」 

「そんなものはない」

「いやですからお客様……」

どう見ても素面にしか見えないこの謎の青年に戸惑う「凡人」達を横目に、僕は驀地に本棚へ向かう。何とよこしまな事だろう!

 

 ここまで考えて、僕は店の前に立った。予想通り、店員はかなり怪訝そうな目をしてこちらを見ている。三秒くらい見つめあったあとで、僕は急に「超人」らしからぬ逡巡を覚え、このよこしまな行動を一旦やめることにした。それ以降実際に店の前に立ったことはない。

 

 ブックオフを過ぎてもまだまだ帰り道は長く、よこしまな事をする機会は相応に残っている。僕はこうして歩き続けるのだが、辺りには殆ど人もいないし、多分いたからどうというわけでもない。矢張り何となくよこしまなことをしたいと思いながら、それが段々よこしまなことをしなければならない、気が済まないとこんな気分になってきた。暗闇の色をして流れる神田川を見ながら、何か投げ込んでみたい、何ならいっちょ飛び込んでみようかとか思ってみたが、欄干から見下ろすと川からやけに不吉な異臭がしてこれも何だかいやになった。相変わらずどこにも人はいないが、警察ばかり徒にあちこち往来している。そうして僕は、何だかんだ言って結局このまま何もよこしまなことをせずに部屋へ帰ってしまいそうな気がして、段々不安になってきた。それからものの二十分も歩けば、初めの幸福な尊大さも徐々に息を潜めてきて、とにかく何かよこしまなことをしなければ救われないような気がしてならなくなってきた。

 

 こうして僕は一人ラーメン屋の戸を叩いた。そこには、入試の時僕の隣でコアラのマーチを食べていた髭もじゃの男にそっくりな謎の男が一人ラーメンをすすっている以外には誰もいなかった。何なら店員もいなかった。途方に暮れていた所、やがて店員が中から出てきて、僕はラーメンを食べることに成功した。

 

 僕はラーメンがそれほど好きな訳ではない。友人と食べに行くことはあっても、自分から行こうとはまず思わない。ましてや、終電が終わるような時刻にものを食べるなんてことは尚更ない。それでも僕がこうして真夜中にラーメン屋に入った理由は、他でもなくこれが僕にとって非常によこしまな行為だったからだ。

 

 実に下らないかもしれない。実に馬鹿馬鹿しいかもしれない。おまけに僕はその時大して空腹だった訳でもなかった。しかし、「超人」の錯覚に酔いしれて、「超人」たる所以を発揮しようと試みた結果、かくも遺憾なき月並みの面目を露呈してしまった情けない僕の目の前に現れたあの平凡なラーメンの一杯ほど、僕に深い甘美さをもたらしてくれたものはない。その時、もはや自分が超人ではないことには気付いていた。だけれども、あの時思い立った以上何かよこしまなことをしないではいられなかった。とはいえ自分には閉店中のブックオフに入ることすらできない。それでもなお、よこしまなことがしたいという「凡人」よりも惨めな僕を救済したのは、普段なら見向きもしないラーメンそのものだったのだ。夫れラーメンとは、常に大匙一杯の背徳感と自己嫌悪とを加えることで初めて完成するものなのである。

 

 僕たちは、この体験から夜食の成立する瞬間を見出すことができる。つまり夜食とは、本来取る必要のない栄養を摂取することである。それゆえに、夜食は本来何か食べたいとは思っていない時に食べられるべきである。換言すれば、夜食とは別に何かを食べたい訳ではないが、しかし何かを食べないではいられないという屈折した衝動によるものでなければならない。僕はこの本質的な屈折性に、普段の三食(の根本)には絶えて見られない高度に人間的な様相を見るのである。してみれば、夜食とは三食に準じて「四食目」とされるべきものではない。なぜなら、普段の本質的に動物的な三食には見られない極めて人間的な食文化の可能性を僕たちに提示しているからである。夜食とは、普段の食生活では絶対に味わえない全く異質にして新鮮な人間的喫食体験なのである。

 

 また夜食の出発点であるこの屈折性は、人間的であるがゆえにこれと特定しうるものではない。僕が夜食を発見したのが、たまたま「エセ超人状態」後の幻滅を満たす瞬間であっただけで、これがいわゆる「やけ食い」であっても何であってもいい。要は、身体は全然欲していないのに、何故か食べずにはいられないという屈折的で強い衝動のなすがままに真夜中にものを食べること、これである。ただ残念ながら、そういう時間帯に口に入れられるものは大抵身体に悪いものばかりである。しかし――むしろだからこそ――夜食は人々を類稀な恍惚の境地へと誘うのである。

 

 

 

*1:僕はここで一日の最後に採られる第三の食事として夕食を定義している。また僕が本文で夜食をかように定義するにあたり、単純に空腹=欲求を満たすために夜食を採る一部の人はやはり疑問を禁じ得ないと思う。しかし僕は、ひとり欲求を満たすがためだけに夜間の喫食を事とする人には、到底爽快な朝食なんて訪れないことを知っている。その意味で僕は、その手の夜食を単に普段の三食に準ずるものとしてしか扱わない。そしてこの見解は、多分に僕自身の経験に基づくのであるが……。