どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

「役に立つの?」といわれたら

初対面の人に文学を、特に中国の古典文学をやっているといったら、よく「それって役に立つの?」と聞かれる。そうでなくても「なぜ/なんのためにやってるの?」とか。もちろん人文系をやっている人と話してるとそんなことは全くないし、とてもスムーズに話がすすむ。

 

そして、面白いことに、敢えて文学ではなく中国語を勉強しているのだといったら、だいたい「へえ~すごいねえ」といわれる。そして決まって「中国語はいま/これから役に立つからねえ」といわれる。

 

僕はいま中国の北京へ留学に来ているけど、こっちではそんなことは全く聞かれない。台湾でもいわれなかった。文学をやっているというと、基本的に「へえ~すごいねえ」みたいな反応が返って来る。とはいえ、交友範囲はまだそんなに広くないけれど。

 

もちろん、だから日本はダメだみたいなことをいうつもりは全くない。(むしろ中国/台湾が少し特殊なのだと思う)僕にそう聞いてくる人の気持ちも分からないではない。でも北京に来て、「文学って役に立つの?」と全く聞かれなくなってからは、却ってその問いのことを考えるようになった。

 

アラビア語や中東情勢を勉強している今のルームメイトは、「結局楽しかったらいいんじゃない?」といった。このご時世、中東情勢はもしかすると「役に立つ」方なのかもしれない。

 

そもそも「役に立つ」って何だろう? しょっちゅう「それって役に立つの?」と聞かれていると、まるで役に立たないものは存在してはいけないような気がしてくるが、当然そんなことはない。なぜなら、僕たちは役に立つから友達を作るわけではないし、役に立つから酒を飲むわけでもないし、ましてや役に立つから遊ぶわけでもないからだ。

 

僕たちは、実に多くの「役に立た」ないことをしながら生きている。このことに気付くのはとても重要だけど、でもそれは文学をやる理由にはなっていない。

 

ではなぜ文学をするのか、あるいは文学は「役に立つ」のか……ということはいったん置いといて、僕は、「役に立つの?」といわれた時に絶対にいってはいけないことが三つほどあると思う。

 

一つ目は、「そんなもん分からんやつには分からんでいい」といい切っちゃうこと。ぶっちゃけ僕もそう思う時もないではないが、世の中には漢文とか文学とか分からない人の方が圧倒的に多い。それに僕自身ほんとうに分かってるのかいささか怪しい。そうであるならば、そういう問いかけに対して「バカには分からんでいい」みたいな物言いをするのは、対話の放棄でしかないし、「分かる」者同士での会話に閉じこもるのは、担い手として極めて無責任だと思う。

 

二つ目は、「役に立つかなんて知らない、好きだから、やりたいからやるんだ」ということ。僕は、これは動機としては極めて結構だと思う。何をするにあたっても、根本ではやりたいからやるのだという気持ちは大切なのかもしれない。

 

でも、それで納得するような人はそもそも「役に立つの?」とか「なんでやるの?」などとは聞いてこない。そのように聞いてくる人は、多くの場合感情的な水準で文学なんて役に立たない(からいらない)と思っている。そういう人に対して同じく感情をぶつけてみたところであまり意味はない。そうして、結局「分からんやつには――」という結論にたどり着くのなら、それはやはり怠慢でしかない。僕らに求められているのは、感情をぶつけるだけで互いに察し合える会話の能力ではなく、感情を共有できない人と対話する能力である。

 

三つ目は、「いやいや、文学の知識=教養は社会で役に立つよ、ビジネスに役立つよ!」などといってしまうこと。意外と文学部の教授とかでもこういう人がいるけれど、これはたとえ建前でもいってはいけないと思う(※1)。なぜなら、「役に立つ」ということと、人文知の優劣とでは、目標および価値基準が全く違うからだ。

 

歴史を少し見てみると、それぞれの地域・時代によって「役に立つこと」が全く異なっていることに気付くことができる。日本だけで見ても、とにかく剣術が出来ることが「役に立つ」時代もあれば、それに加えて儒学の知識が豊富なことも求められた時代もあった。あるいは詩歌をいくつも諳んじることが出来るのが「役に立つ」時代があった。いま世の中で「役に立つ」とされていること(いわゆるコミュニケーション能力とか)は、結局歴史の偶然によってここ数十年間重要性を賦与され続けてきたにすぎない。

 

一方で、おおかた人文知の優劣の基準は一貫して明確だ。残ればいい。僕たちが大昔に偉大な文学や思想が存在したことを知れるのは、当然ながらそれらが優れていたために伝えられ、時に古典として残されてきたからだ。大富豪の淀屋辰五郎を知っている人よりも俳人松尾芭蕉を知っている人の方が圧倒的に多い。つまり人文知は、「役に立つ」という基準が常に変わっていく中でいかに長く生存できるかをその価値基準として持っているのだ。

 

むろん、ここでいいたいのは「だから人文知のほうがエラいんだぞ!」とかいう話ではない。たとえ歴史の偶然であるにせよ、いま「役に立つ」ことは現代社会にとって非常に重要だし、それは文学をやっていようと何をやっていようと、現代を生きている以上否定できない。だからスマホをいじりながら「現代はダメだ、孔子様の時代がいい」とかいうのはもってのほかだ。

 

僕がいいたいのは、むしろ、互いに価値基準や目指しているところが全く異なる以上、人文知の能力といま「役に立つ」もの、例えばビジネススキルなどとは決して混同してはいけないということだ。それは両者に失礼である。

 

たしかに人文知が社会、あるいはビジネスで役に立つことがあるかもしれない。有名企業の社長が論語ニーチェを読んでいたみたいなことは割とよく聞く。しかしそれはあくまで結果的に効果的に作用したにすぎない。三千年前から、人文知はビジネスに奉仕するために積み重ねられてきたのではないし、これからもそうではない。

 

また、この点に関していうと、中国や台湾で文学をやっているというとなんか褒められるのは、おそらく十九世紀末頃まで文学に精通していることが最も「役に立つ」ことの一つとみなされていたからなのかもしれない。これほどの長い間、人文知の優劣と社会にとって「役に立つ」こととが非常に接近していたという点で、僕は、中国/台湾は少し特殊なのだと思う。

 

さて、こうしてここまで偉そうなことをいってきたが、実のところ僕も「役に立つの?」という質問に対して満足に説明できたことがない。たとえ「役に立つ」という言葉を人文知へぶつけること自体がそもそも愚行なのだということが分かったとしても、そしていろんな文学者の意見を読み、聞いたとしても、問題はそれだけで済むほど単純ではないし、もしかするといつまでも解決できないのかもしれない。

 

「役に立つ」ことがこれだけ重要視される二十一世紀の日本においてわざわざ数千年前の古典を、それも外国の古典を学ぶことに果たしてどんな意義があるのか……当然ながら、これは「好きだから」で済ましてよいことではない。ある意味絶滅危惧種(!)として、このことは理性的に、対話に堪えうる言葉で説明できるようにならないといけない。

 

文学は役には立たないかもしれない。でも、世の中は役に立たないことで満ちている。しかし/だからこそ、僕たちは外を向いて、役に立たないものたちのために理性的な言葉を尽くさないといけない。それが、今を生きる文学者のあるべき姿だと思うし、そういう者に僕はなりたい。

 

 

(追記)1:先日先輩から、先生方がそうおっしゃるのは、そうしないと人がこないからだと諭された。おそらく、先輩の目にはぼくの言説が大変青臭いものに映っただろう。それは間違いないし、ぼくも否定する気はない。しかし、多少の青臭さを承知の上であえていえば、ぼくはこうした指摘は二重の意味で誤謬を犯していると思う。

 

ひとつめは、いまの時代「社会で役立つスキルを学べること」を学部選びの最も重要な基準にしているような学生は、普通わざわざ文学部を選ぶはずがないということだ。なぜなら、いま「社会に役立つスキル」とされているのは、いわゆるコミュニケーション能力や、マーケティング、ビジネスの知識であり経験である(それが本当に有用なのかは、ぼくはしらない)。それが文学部の学びの中で鍛えられていくことは往々にしてあるだろうが、普通、大学に入る前に「役に立つことを学びたい」とだけ考えている人は、もっと直接的にそうした分野を学べる学部を選ぶだろう。

事実、大学へ入ってもうすぐ三年が経過しようとしているが、ぼくの身の回りには、文学とか思想や文化、あるいは歴史とかが好きで入ってきたひとか、単に偏差値/試験の点数の関係で「入ってしまった」人のどちらかしかいない。極端なもの言いをすれば、「大学でビジネススキルを習得し、圧倒的成長をして社会の即戦力になりたいから文学部を選んだ」みたいな人は一人もいない。似たような人がいたとしても、学部選択とは完全に無関係だろう。

 

ふたつめは、たとえ「文学は社会の役に立つぞ」ということが、「社会の即戦力」になれるようなスキルを求める学生を集めることに一定の効果があったとしても、それをすでに文学部へ入った/てしまった学生にいうこととは全く関係がないということだ。(大して効果はないと思うが)そういうことをいうならば高校生にいうべきなのであって、大学の文学部生にいっても人は増えもしなければ、減りもしない。なので、ぼくはむしろ「一見社会に直接関係しないようだけど、しかし/だからこそ尊くて、それゆえに逆説的に社会と関係を持てるようになる」くらいの啖呵を突然授業中とかに切ったりして欲しいと思っている。

とはいえ、たとえば早稲田の文学部のように2年生から各専修に分かれる場合、学部内でパイの取り合いが起こることがある。こういう時に授業内で「役に立つ」とアピールしておくことは、入学時には就活とか「役に立つ」とかなにも考えてなかったけど、1年たっていささか不安になってきたであろう一部の層を取り込むのには役に立つ。その程度のことでしかない(こういうもの言いがすでにして青臭いのかもしれないが!)

 

ぼくの尊敬している教授は、「文学とか思想とかは役に立つのか」という問いに対しては、いつも「そんなもん、ないと寂しいじゃないか、ガハハハ」とかいって適当にお茶を濁したあとに、ときおり神妙な顔つきで「でも、そんなことよりもっと重要な問題があるだろう」などという。

 

解決なんてできないかもしれない。さきは長いな、と思う。