暁命堂雑記

ときどき書きます。

たぶん、トランプもつらい

トランプが大統領になった。いま世界のあちこちでグローバリズムの反動のような現象がおこっているので、ひょっとすれば勝つかもなあとは思っていたけれど、なんだかんだクリントンが勝つだろうと思っていたので、それなりにびっくりした。また、奇しくも選挙のあった11月9日は僕の誕生日だったので、なにやら得も言われぬ縁を感じる。変な言い方をすれば、トランプ大統領が生まれて、僕も生まれた。

 

トランプに関しては、選挙前からすでにいろんな人がいろんなことを言って来たし、なにも付け加えることがないような気もする。最近だと、トランプはビジネスに関しては一流なので意外と現実的に動くのではとか、ブレーンが周りにいるから大丈夫だろうとか、アメリカは議会制だからトランプは好き勝手できないとか割とよくいわれているけど、僕は政策や経済の方面から詳しく分析できるわけではないので、これからどうなるのかよく分からない(彼の出方次第で東アジア情勢がすごく変わるのでは、というのはよく分かる)。

ただ、そうした予測たちを常に大胆に踏みにじってきたのがトランプであり、一月のイギリスのEU離脱という現象であったので、なかなか首肯しがたいところではある。

 

散々指摘されているように、今回のトランプ現象でも、イギリスでの国民投票同様、都市と地方との利害や価値観の対立が明確に表れた結果となった(経済状況に関してはもう少し複雑だけれども)。いまや格差や利害関係を考える時、国家ごとの違いではなく、グローバルな都市とそうでない地方という形で整理すべきだというのは、多くの人が感じていることだろう。

こうした状況を受けて、主に都市部のリベラルやインテリなどと呼ばれる人たちの中には「トランプに入れるやつらは田舎のバカなんだ!」とか言っている人もいる。たぶんこういう人は、日本のネトウヨも「あいつらはただのバカだ!」といって片づけていることだろう。僕も、イギリスがEU離脱を採択したころまではなんとなくそう思っていたけれど、大統領選挙の運動が過熱してくるにつれて、どうやらそうではないらしいと考え始めるようになった。

 

今回の選挙で特に明確になったのが、いわば多数派(マジョリティ)と少数派(マイノリティ)の対立という構図であることはよく言われていることだ。トランプがLGBTや移民や女性の社会進出といったことを強い口調で否定するたびに支持率が上がっていくという状況のなかで、多くの支持者が口にしていたのが、マイノリティにばかり光が当てられることへの不満だった。

マイノリティの人たちも苦しんでいるかもしれないが、自分たちも苦しんでいる。それに加えて自分の生き方を肯定すればマイノリティへの暴力とみなされてしまう。でも政府や社会は自分たちマジョリティを助けてはくれない。その不満のはけ口がトランプとなったというわけだ。

 

言うまでもなく、いろいろなマイノリティの人たちの苦しみが政治やジャーナリズムの力によって認識され、彼らに自分を語り、肯定する言葉が与えられ始めたのはほんのごく最近のことである。当然、このこと自体はきわめて良いことだし、それが衰退することは決してあってはならない。しかし、一方でマイノリティをすくい上げる政治やジャーナリズムの力が、マイノリティではないこと、この一点を以て大多数の人びとを一括りにしたマジョリティという勢力を作り出したのも事実である。

 

作家で思想家の東浩紀は、こうしたマジョリティの苦しみをすくい上げて言葉を与えるのが文学や芸術や思想であると言ったが、僕もまったくその通りだと思う。なぜなら、文学、芸術や思想とは、そもそもマイノリティの存在や苦境が広く認識され、光が当てられるずっと前から、苦しみやつらさを抱える人たちによってなされ、同じく苦しむ人びとの普遍的な糧となってきたからだ。

 

このことをもう少しクリアに理解するために、補助線として昨年の京都市立芸術大学卒業式での、哲学者の鷲田清一(当時学長)の学長式辞を紹介しよう。引用するのは一部だけだけど、そんなに長くないのでぜひ他の部分も読んでもらいたい。(本文URL

 

一人ひとりが異なる存在であること、このことはいくら強調しても強調しすぎるということはありません。だれをも「一」と捉え、それ以上とも以下とも考えないこと。これは民主主義の原則です。けれどもここで「一」は同質の単位のことではありません。一人ひとりの存在を違うものとして尊重すること。そして人をまとめ、平均化し、同じ方向を向かせようとする動きに、最後まで抵抗するのが、芸術だということです。

 

ここでは、いわば全体主義的な動きに対して最後まで抵抗する力を持つのが、ほかでもなく個性(=「一人ひとりが異なる存在であること」)を条件とする芸術であるのだといわれているが、民主主義うんぬんはひとまず置いといて、この話をこれまでの文脈に応用すれば、次のように言うことができる。

 

つまり、政治やジャーナリズムの力によるマイノリティの救済に伴って発生した大量のマジョリティに対して、マイノリティを尊重しつつも、相対的強者であるマジョリティとして一括りにされている彼らの個別の苦しみやつらさを言葉にすることで、それを「悩める個人」に分解すること、換言すれば、かけがえのない人生を生きている(と自分では思いたい)多くの個人を、強い(から文句は言っちゃいけない)マジョリティとして一括りにして顧みないある種不可抗の暴力による構図を内から突き崩すもの、これが文学であり、芸術であり、思想である(※1)。

むろん、マイノリティのためにもこの力は大いに発揮されるべきだけれども、政治やジャーナリズムではマジョリティがすくえない以上、文学や芸術だからこそできることは明確に認識されなければならない。

 

そうであるならば、トランプが躍進したのは、ポピュリズムであるとか、「バカの田舎者」が大量に彼を支持したからといって片づけてよいものではない。むしろ、そんなことを言ったところでなにも始まらない。(現にシリコンバレーを中心とするIT系の人びとがAlt‐rightと呼ばれる極右主義を支えているという事実は、トランプの支持者が決して単なるバカなんかではないことを物語っている)

問題はむしろ、それぞれに苦しみやつらさを抱えながらも、勝手に相対的強者として一括りにされ、文句も言えない状態のまま放置されてきたマジョリティたちを「悩める個人」に分解することができず、ただただ不満ばかりを蓄積させてしまったことではないだろうか。

 

当時ニュースを見ていた僕にとって最も象徴的で、かつ絶望的だったのは、多くのトランプ支持者が「やつは自分たちの言いたいことを言ってくれるんだ」と言っていたことだ。彼の支持者にとって、トランプはマイノリティを否定することで、自分たちを放置されたマジョリティから一人ひとりの「強いアメリカ人」に分解してくれる存在だった。こういってよければ、彼らにとっては、トランプが文学だった。

 

マイノリティの人たちを強く尊重しつつ、同時にそれぞれに個別の苦しみを抱えつつもかけがえのない人生を希求したいマジョリティの人びとをどうするか、というのはこれから多くの国で課題になる。日本も同じだ。これはもちろん政治の制度的な問題の一つとしても語られるべきかもしれないが、制度的、技術的な問題に終始すべきではない。これは文学や芸術、思想の大きな問題の一つでもある。

 

いや、文学や芸術や思想の問題にとどまらない。トランプの勝利で一つの頂点を迎えたここ数年の趨勢が示しているのは、文学や芸術や思想といったものが、マジョリティを「悩める個人」に解体する役割を満足に果たせていないという事実である。しかし、それでもなお、僕たちはマイノリティに対比させられる相対的強者が、各個人単位で見ればそれほど強くはない一面もあるということを互いに認められる言葉や環境を作り上げなければならない。僕たちはどうすればいいのだろうか。

 

一つだけ、ものすごく月並みなことを言えば、それぞれ自分ができることをするしかないのだと思う。ここまで言っておいてそんなことかと言われそうだが、こんなことを言うのには、一応ちゃんと理由はある。

 

というのも、ここまで、マジョリティを「悩める個人」に解体すること、この役割は文学、芸術、思想が果たすものだと断定して話を進めてきたけれど、当然これはその三者に限定し得るものではないからだ。

太古の昔から、人は多くの形で喜びや苦しみやつらさを表現してきたし、その膨大な蓄積の末にいまがある。歌でも食事でも運動でもなんでもいい。重要なのは、互いに苦しみや弱さを認めあい、あるいは、時にそれをすくい上げて表現することである。そのためには、人間は実にいろいろな方法を持ち合わせている。自分ができることをするというのは、つまりそういうことだ。

 

僕はただ、文学や芸術、それから思想の力を最も強く信じているだけに過ぎないのだ。

 

 

 

1:マイノリティは、基本的に「であること/がゆえに」という言葉で自分の苦しみを一般化して語ることができるが、マジョリティは多くの場合そうではない。「男性であるがゆえに昇進できない」といっても「能力/やる気がないだけだ」といって空しく斬られてしまうだけだ。他にも「モテ(リア充ないこと)」のように、マジョリティが自分の苦しみを語るとき、肯定的に「であるがゆえに」という言葉を用いることはできず、大抵まず自らを否定することから始めなければならない。

そもそもある個人がマイノリティかマジョリティかということ自体、どの点に注目するかによって変わってくるので、やはりマジョリティは、常にマイノリティではないことによって二次的に規定されることになる。この意味でもマジョリティは否定することを起点にしているのだが、何度も言っている通り、問題はマジョリティそのものにもマイノリティそのものにもなくて、むしろマジョリティと括られた人びとにだけ、自分たちの苦しみを語り、生き方を肯定する言葉がまともに存在しないこの構造にある。