どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

そこには、虚構しかない。――小説的、没現実的な空間2

天安門へいった。

 

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天安門を知らないという方はおそらくいないと思うが、簡単に説明すると、天安門とは北京市の中心部に位置する城門で、かつては故宮(いわゆる紫禁城)の正門だった。ここの楼上で毛沢東中華人民共和国の建国宣言を行ったり、中国の国章に天安門が描かれたりするなど、いまや中国の象徴となっている。(ちなみに政府があるのは天安門の奥ではなく、ここの西側に隣接する中南海という場所だ。天安門の奥、かつての故宮には故宮博物院がある)

 

この有名な天安門広場だが、実際にここになにがあるかを知っている人は日本だと意外に少ないのではないだろうか。そこで実際に地図を見てみよう。

 

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天安門広場の地図。

画像:http://www.onegreen.net/maps/HTML/25816.html

 

これが天安門広場の略地図だ。地図だとあまり大きさが伝わらないかもしれないが、じつは南北880メートル、東西500メートルとかいう頭のおかしい規模を誇っている。なので、人民大会堂(中国の国会議事堂)から国家博物館(地図中では「革命博物館、歴史博物館」と表記されているが、いまは国家博物館という)まで歩いて移動するだけで結構疲れてしまう。

 人民英雄記念碑というのは、革命や戦争に殉じた「同志」たちをまつる無名戦士の墓(ベネディクト・アンダーソン的な)で、その南の毛沢東記念堂はその名の通り毛沢東をまつった建築で、毛沢東の遺体が安置され、一般公開されている。

 

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上から、国家博物館、人民大会堂、人民英雄記念碑、そして毛沢東記念堂。

 

さて、勘のよい方なら気づいたかもしれないが、先日記念館について熱く語ったぼくがここで天安門を取り上げた理由は、この広場にある国家博物館を紹介するためだ。天安門のあたりにある博物館といえば故宮博物院のほうが有名かもしれないが、じつはここにはもう1つ大きな博物館がある。故宮は有料だが、こちらはなんと無料で入れてしまう。たいへん素晴らしい。

 

例によって金属探知機を通り抜けてから入館する。この博物館は、建物内で北区と南区に分かれている上に全4階建てで地下1階もあるというたいへん巨大なつくりになっているので、そんなにじっくり見なくても、全てまわると5時間くらいかかってしまう。おまけに夕方4時半には閉まるので、ぼくは一度でまわり切れず、後日もう一度いかねばならなかった。

 展示は基本的に企画展示で、体裁も落ち着いており、まさしく論文的で典型的な博物館という印象を受ける。(詳しく書いていると終わらなくなるので省略するが……)今回重要なのはむしろ常設展のほうで、これは「古代中国」と「復興之道」の2か所に分かれている。前者は北京原人とかの話から清王朝までの歴史を博物館的な文化財の展示によって淡々とたどっていくものだが、清末から現代までをたどる後者は打って変わって、抗日戦争記念館を彷彿させる激しい展示を展開している。早い話が、北京原人まで遡って共産党政権へ歴史を接続し、その正統性を主張しようという魂胆なのだろう。

 

ぼくが「復興之道」を見たのはほかの全ての展示を見た後だったのだが、入ってすぐに「第一単元 天地開闢以来の大事変」と書いた大きなパネルがどどーんと目の前に現れたのにはさすがに面食らった。

 

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前々回の記事で見たように、抗日戦争記念館は「満州事変で日本軍の侵略を受け、われわれは国共合作して立ち上がったのだ」的な始まりを見せるのだが、こちらでは「帝国主義の列強の侵略を受け、マルクス主義に目覚めたわれわれは五四運動(北京から全国に広がった日本帝国主義反対運動)によって立ち上がり、団結して共産党を結成した」ということになっている。

 

この違いは、とりもなおさず「日本を倒したわれわれ中華民族」と「資本主義に打ち勝った共産主義のわれわれ」という、2つの国民国家の歴史的起源としての「われわれ」が多重人格的に共存していることを表している。

 つまり、戦争記念館であれば、日本を打倒したことが最も重要であるため、物語の始点、つまり「われわれ」が立ち上がったのは満州事変以後になっており、1945年9月3日の戦勝記念日(日本がポツダム宣言に署名したつぎの日)が決定的な日になっている。一方で、国家博物館の「復興之道」では、日本と中国の戦いよりも資本主義と共産主義の戦いに主眼が置かれており、「われわれ」が立ち上がったのは1919年の五四運動および1921年の共産党結成においてであり、最も決定的な日は1949年10月1日、つまり国共内戦に勝利して中華人民共和国が成立した日になっている。戦争は国民党との共闘であったため、戦争記念館ほどには大きく語られていない。こうした「われわれ」の分裂は中国だけでなく日本や韓国でもみられる(※7)ことであり、(素人ながらも)いまの外交関係(とりわけ東アジアの関係)を考える上でたいへん重要な問題であると思う。

 

少し話がそれてしまった。「復興之道」の展示に戻ろう。展示は前後半に分かれており、前半が列強の支配から共産党の成立、国民党との闘争、それから太平洋戦争までを描き、後半が国共内戦から中華人民共和国の成立を描き、経済成長を経ていまに至るという流れになっている。戦争記念館ではすっとばされていた戦争以後が語られていたが、悪名高い大躍進政策や、中国最大の内戦ともいわれるイデオロギー闘争である文化大革命は当然のように抜け落ちていた。例によって新しい絵画や銅像、モニュメントがあちこちに設置されており、中学生の団体も来ており(巨大な博物館のほかの展示室では一人も見かけなかった)、最後には期待通り感想を書くノートが設置されていた。

 

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展示の一例。

 

ここでみなさんは、きっと不思議に思われることだろう。なぜなら、かつて提示した小説的な記念館と論文的な博物館という見立てでは、国家博物館の「復興之道」を説明することができないからだ。ぼくたちは、ここでこの見立てを一度崩さなければならない。

 

とはいえ、少し考えると問題はそれほど複雑ではないことがわかる。もう一度天安門広場の地図を見てみよう。そこにあるのは人民大会堂と国家博物館、人民英雄記念碑、それから毛沢東記念堂などだった。現代をいきるぼくたちにとって、天安門広場といえばこうしたものが存在する象徴的なイメージが定着しているが、当然ながら、もともといまのような状態であったわけではない。

 下の写真は清の時代の天安門および広場を写したものだ。明や清の時代には、天安門は故宮の正門として機能しており、勅書の公開、科挙の合格者や裁判の結果などを発表する場所だった。広場はいまよりもずっと狭く、広場というより大きな丁字路といった方が適切かもしれない。当然、天安門に皇帝の肖像が掛けられるといったことはなかった。

 

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清の時代の天安門広場。奥にみえるのが天安門

画像:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4bad45ac0100a9bj.html

 

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 清朝期の天安門広場の地図。

画像:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4bad45ac0100a9bj.html

 

20世紀になると、天安門は北京を掌握した権力者によって利用されていく。かつては孫文蒋介石の肖像がここへ掛けられ、戦時中は日本軍が「建設大東亜新秩序」というスローガンを掲げたこともあった。また、スターリンの死に際して彼の肖像写真が掲げられたこともある。意外なことに、結構いろいろなことをやっているのだ。

 

天安門広場が現在のかたちになったのは中華人民共和国が成立した現代(※8)になってからで、1954年と1958年の二度に渡る天安門広場拡張計画によるものだ。1954年には丁字路の先にあった長安左/右門、中華門および丁字路の外側にあった役所や倉庫などの建築が撤去され、広場が拡張されたほか、人民英雄記念碑が建設された。

 1958年には建国十周年を翌年に控えたこともあり、さらに大規模な拡張計画が提案、実施される。この時、広場の総面積は44ヘクタールも増加し、東西に人民大会堂と中国革命博物館および中国歴史博物館(つまり、のちの国家博物館)が建設された。そして約20年後の1977年、毛沢東の死去に際して毛沢東記念堂が建設され、天安門広場はほぼ現在の形に至る。

 

もちろん、天安門自体がもともと政治の中心地に位置していたことは間違いないのだが、こうしてみてみると、中国の象徴として現在の地位を築き上げるのは随分最近になってからだということがわかる。

 つまり、毛沢東の肖像をはじめ、人民大会堂や国家博物館、人民英雄記念碑、それから毛沢東記念堂といった天安門広場にある象徴的なものは、全て中華人民共和国成立後に天安門(広場)を機能的/地理的な中心から象徴的な中心へと転換させるべく徐々に付加されていったものなのだ。(もちろん、この性質転換が可能だったのは、ここが五四運動の現場になるなどもともと象徴的な性質を帯びていたからでもあるのだが)

 

 大胆に換言すれば、現在の天安門広場は、共産党によって象徴性を塗りたくられた虚構の空間にほかならない(当然ながら、ぼくはここで虚構という言葉をうそ・まがいものという意味で使っていない。むしろ、物語的想像力に満ちた、という程度の意味で使っている。というのも、ぼくは国家にはそうした物語的想像力が必要だと思っているからだ――念のため)。

 したがって、天安門広場にある国家博物館は、博物館であるという前にまず天安門の意図的な象徴化の過程で生まれたことを念頭に置かねばならない。さきほどもいったように、共産党政権を歴史に接続し、正統性を主張することが、ここでは最も重要な目的だった。(そう考えると、国家博物館は王朝が交代するたびに国家事業として前の王朝の歴史書が書かれるというこの国の伝統の変相した形態だといえるかもしれない)いうなれば、国家博物館とは、論文的な博物館的空間に小説的な物語的想像力が介入した場所なのだ。

 

天安門広場との関係から見ることで、ぼくたちは国家博物館にある「復興之道」という異質な空間についてある程度明らかにすることができた。天安門広場には博物館がある。しかし、その周りは虚構=物語で満ちている。いや、それ自身もまた虚構を抱え込んでいる。

 

つまり、そこには、虚構しかないのだ。

 

最後に、もう一つ論点を付け加えよう。

ここまで見てきたように、「復興之道」の構造的異質性について理解するためには、たんに小説的記念館/論文的博物館という二分法で整理するだけでなく、天安門広場という場所との関係性の中で見る必要があった。

 とはいえ、たんにこの両者の関係だけを見てしまうと、どうしても「共産党のプロパガンダだ!」とか「中共の偏った歴史観だ!」みたいな世にも残念な話になってしまいがちである。しかし、ここまで話を進めてきたぼくたちは、この関係性から1つ興味深い考察を引き出すことができる。

 

盧溝橋と抗日戦争記念館の関係を思い出してみよう。そこからは、もともとあった盧溝橋(じつは、かのマルコ・ポーロも褒めたとかいう伝説もある由緒正しい橋だ)のそばに強い物語性を持った小説的な戦争記念館が建設されることによって、現実の橋が記念館の熱気に気圧されるかのように地味な空間に成り下がってしまう(こういってよければ現実が埋没してしまう)という状況を見て取ることができた。

 一方で、天安門は、共産党の歴史の中で幾度も虚構的な象徴を付与されることによって、論文的な構造をもつ博物館に小説的な要素が介入するという状況を生み出した。

 

つまり、一見どちらも「洗脳だ!」とか「共産党のプロパガンダだ!」とかいわれがちな戦争記念館と国家博物館の「復興之道」の展示だが、それが建築された空間およびその場所に流れた時間に着目すると、じつは全く正反対の構造および関係性を持っているのだ。

 

表面的には「共産党のプロパガンダ」かもしれないが、その裏には小説的/象徴的な空間と論文的/無‐象徴の空間とのきわめてスリリングな相克関係が展開されている(※9)。ぼくらは、単純な記念館/博物館という二分法に安住せずに、常に外側の空間および時間との相関関係によって展開される場としてこれらの展示に対峙しなければならない。

 

「悲憤慷慨」も「無限の反省」も、すべてはその先にある。 

 

 

 

 ****

 

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お酒がとうとうなくなってしまった。みんなからっぽだ。

ぐぬぬ~。酒のみて~。

 

 

註 

 

7:東浩紀「ダークツーリズム以後の世界」(東編『ゲンロン3』(ゲンロン、2016年)所収)24頁以下。なお、ここではドイツの思想家イマニュエル・カントの、国際関係論を構想するにあたり、国家をもつ民族はひとつの人格とみなしてよいという主張に対し、東氏は文学者の加藤典洋の『敗戦後論』(講談社、1997年)を引用しつつ、昨今の外交問題は、それぞれの国家が1つの人格を持つのではなく、むしろ人格分裂をおこしていることにあると述べている。その時、分裂の契機となるのは「戦争や虐殺」といった大きな傷であって、それが言説の場を歪めるのだという。(たとえば日本は敗戦という傷を抱え、韓国は植民地支配と朝鮮戦争という傷を負っている)

そうであるならば、国家博物館の「復興之道」と抗日戦争記念館の展示は、とりもなおさず中華人民共和国が列強による国土分割と、日本の侵攻という2つの傷を抱えていることを示している。また、中国に関する問題をさらに複雑にさせているのは、この国が文化大革命という第三の傷を抱えているためだといえるのかもしれない。政府は公式見解で文革を完全否定しており、いまなお多くが謎に包まれたままになっている。しかし、改革開放以降、経済の民主化グローバル化が進んだ80年代以後の人は、多くの面においてそれ以前の人々とは全く異なる価値観を有しているとされており、ここにも「われわれ」が再定義されるような断絶を見て取ることができるのかもしれない。なお、80年代以降台頭してきた「中産階級」の実態を掴むにはジャーナリストのふるまいよしこ『中国メディア戦争――ネット・中産階級・巨大企業』(NHK出版、2016年)などが参考になる。

 

8:中国では、近代や現代という時代区分を表す言葉が日本と全く異なる射程をもっている。一般的に、日本では1878年明治維新(あるいは1853年の黒船来航)から1945年の敗戦までを近代と呼び、それ以降を現代と呼んでいるが、中国では多くの場合、1840年アヘン戦争から1919年の五四運動までを近代と呼び、それから1949年の中華人民共和国成立(これ以降の体制を中国では「新中国」と呼んでいる)までを現代と呼び、それ以降は当代と呼んで区分している。(それゆえ、たとえば批評家の柄谷行人の『日本近代文学の起源』は『日本現代文学之起源』と翻訳されている)しばしば、中国人にとって近代という言葉の意味が日本人のそれと一致しないのは、かれらにとって近代が不名誉で触れたくない時代であったからだという人がいるが、たとえその感情が本当であったとしても、むしろ、たんに時代区分の意識の差にあると考えるべきだろう。

また、この時代区分の差異は、中国(人)にとって終戦が日本(人)ほどの断絶を意味していないことを表している。もしかすると、読者のなかにはこのことを意外に思う方がいるかもしれない。しかし、それは日本にとってアヘン戦争や五四運動が大した断絶として存在していないことを考慮すれば至極当然のことのように思われる。もちろん、この時代区分を生む断絶の違いは、少なからず注七における「人格分裂をおこす傷」の問題と関連している。

 

9:とはいえ、読者のなかには、国立の歴史博物館とは得てしてそういうものだと考える方がいるだろう。それに、そもそも歴史を語るという行為そのものに選択と価値判断という批評性が存在している以上、歴史を扱う博物館と記念館の差異を語ることは無意味なのかもしれない。しかし、ぼくはそれでもなお(少なくとも中国においては)博物館と記念館との構造的な差異にこだわるべきだと考える。なぜなら、たんに中国の記念館と博物館はあまりにも様相が異なっている上に、本文でもいった通り、こうした展示施設は、構造的に区別することによって初めてそれらが存在する空間およびそこに流れた時間との関係性において把握できるようになるからだ。