どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

枯れきった深緑の草ぐさを、ぼくらはどうみればよいのだろうか?

日本でもニュースになったであろう中国の春節(=旧正月)もすでに終わりを迎えようとしている。一般的に、春節の祝賀ムードは陰暦の正月十五日(上元、新年最初の満月)の夜、いわゆる元宵をもって終わる。(※1)この日は元宵節とよばれ、お祭りが各地で開かれたりする。今年は今月11日が元宵節にあたり、10日夜から各地で祭りが行われるようだ。

 

では、春節から元宵節までの間人々は何をしているかというと、むろん人によるのだけど、今日では中国各地、あるいは諸外国へ観光にいくことがわりと多い(※2)。これは日本でもよく知られていることだろう。ぼくのいる北京大学へもずいぶん観光客がきた。北京大学は関係者とその同伴者以外は所定の手続きをしないと入れないので、学生証を持っているぼくは何度か見知らぬ観光客に頼まれて、あたかも同伴者であるかのように親密そうに振舞いながら校門を突破させられたりした。また、春節の間も休まず開いているわずかな食堂は、明らかに学生(あるいは職員)らしからぬ人々でごったがえしていた。

 

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そんな中、先日ふとみつけたのが以下の光景だ。

 

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これはぼくの寮の敷地内にある芝生の植え込みだが、なぜかすでに枯れきっていた草ぐさが世にもきれいな緑色に塗装されていたのだ。

写真ではわかりにくいかもしれないので、比較対象として同じ日に撮った北京大学内の芝生を見てみよう。

 

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さっきの写真と比べると、あまりに生気を失っており寂しげだが、もちろんこちらがありのままの姿にほかならない。いうなれば、さっきの写真の草は、ただの草ではなく、より草らしく加工された草なのだ。

 

これに関しては、おそらくここ数日間の出来事のはずなので、観光客の目を意識した行為だとみて間違いないだろう。というのも、ぼくらが住んでいる留学生向けの寮にはホテルが併設されており、そこもいま多くの観光客が利用しているからだ。

 

なので、ここで問題なのは、どうして枯れ草が深緑に染まったのかではなく、むしろそれは一体なんなのか、換言すれば、ぼくたちはそれをどのようにみればよいのだろうか、ということになる(とはいえ、緑のペンキで一気呵成に塗りたくってしまう感性自体、少なからず戦慄的であるが……)。

 

さきほどもいったとおり、この「深緑の枯れ草」の目的は観光的な演出にある。そこで、『ザ・ツーリスト(THE TOURIST)』(邦訳は安村克己ら訳、学文社、2012年)で知られる社会学者のディーン・マキャーネル(Dean Maccannell)を召喚しよう。

 

彼は観光対象を分析するにあたってたいへん有益な手段をいくつか提示しているが、その一つとして表舞台‐舞台裏の区別がある。つまり、観光地には観光客にみせられる――いやむしろみせるための――表舞台と、表舞台を演出するための準備がなされる場所、つまり観光客にはみせられない舞台裏があるということだ。これ自体はアメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマンが提示した(※3)ものだが、マキャーネルはこの両者は単なる2つの要素ではなく、シームレスな6つの連続体のうちの両極であるといった。以下簡単にまとめよう(※4)。

 

第一段階:いわゆる表舞台。たとえば一般的なレストランのホール。

第二段階:部分的に舞台裏風に飾り立てられた表舞台。たとえば壁に漁の網をかけた漁村っぽい雰囲気あるシーフード・レストラン。

第三段階:舞台裏にみえるように全体的にしつらえられた表舞台。マキャーネルは「テレビの月面歩行のシミュレーション」を例として挙げているが、彼もいう通り、第四段階との境界が曖昧だという「問題をはら」んでいる。

第四段階:観光客にみせるために開放された舞台裏。たとえば楽屋の公開サービス。舞台裏は公開された時点で機能的には表舞台となってしまう

第五段階:観光客に覗かれてしまってもよいように整備されているが、普通は公開されない舞台裏。たとえばレストランの厨房。

第六段階:いわゆる舞台裏。観光客はみることができない。たとえばスタッフの専用トイレなど。

※舞台裏の役割は、単に表舞台の準備のためだけでなく、表舞台の「確固とした社会的現実性[……]を保持する」ための神秘性を保証する――つまり、なにもかも可視的(過視的!)な現代社会にあって、みえないことが真正性を演出し、神秘性を担保する――ことにもある。それゆえ、「たとえ実際に秘密はなくても、それでも舞台裏とは、とにかく秘密があると信じられる」のだ。隠されるから秘密や神秘性がみいだされるのであって、その逆ではない。

 

このマキャーネルの6つの基準にしたがって見ると、くだんの枯れ草は観光客に見せるために演出された第一段階の表舞台であるということができる。むろん、ぼくたちはそんな当たり前のことを確認するためだけにマキャーネルを召喚したのではない。ぼくたちが考えねばならないのは、あの植え込みという空間自体がどの段階に属するかではなく、むしろ枯れた芝生が深緑に着色されていくきわめてスリリングな瞬間が一体どの段階に属するのか、という問題なのだ。

 

このことに着目すると、じつはこのマキャーネルの区分方法が片手落ちであったことに気付くことができる。つまり、この分類には、ある一つの場所がある時には表舞台になり、ある時には舞台裏になるという時間的変化への視点が完全に欠落していたのだ(※5)。 

 

これは至って簡単なことだが、重要な視点である。たとえば、閉園時間を迎えた遊園地を想像してみるとよい。閉園後のディズニーランドでは、おそらくメンテナンスやパフォーマンスの確認などが行われているだろう。そして、観光客はそれをみることができない。そのため、閉園後のディズニーランドに関しては往々にして荒唐無稽な都市伝説が語られることがある(※6)。それは、間違いなく、日中華やかな表舞台として機能していたディズニーランドが閉園とともに第六段階の舞台裏に転じたからにほかならない。そこが純粋な舞台裏である以上、秘密がなくても、秘密はあると信じられてしまうものなのだ。

 

また、さきほどメンテナンスといったが、その主要なものには清掃がある。清掃は普通、観光客に見せるためにするものではない。清掃とは、機能的に舞台裏に属するものだ。しかし、少し考えればわかるように、それは必ずしも単一の段階に属するわけではない。

 

遊園地で考えれば、それが行われているのが閉園後(第六段階)なのか、開園中(第五段階)なのかに分けることができる。つまり、開園中の園内の清掃とは、表舞台に一時的に登場した舞台裏(第五段階、見られても構わないもの)だということができる。そこでは、一つの場所に表舞台と舞台裏が同時に存在しているのだ。この表裏共存の状態は、観光対象の性質が空間/構造の差異のみならず、時間の差異にも依拠していることを表している。

 

開園中の清掃に関しても、ぼくたちはさらに分けることができるだろう。たとえば、よく知られているように、ディズニーランドでは園内の清掃さえパフォーマンスとして行われている。そこでは、清掃が見られてもよい(が、極力目につかないようにすみやかに遂行される)舞台裏ではなく、表舞台として見せるための舞台裏(第四段階)として存在している。つまり、この時清掃が機能的に表舞台となるのだ(あえて付け加えておくと、ぼくは別にディズニーランドが特別好きなわけでもないし、なんなら小学生のころ両親に連れていってもらったきりいっていない)。

 

遊園地とその清掃を簡単に見ていくなかで、ぼくたちは観光対象の表舞台‐舞台裏という性質が、単に空間的/構造的差異のみならず、時間的差異によっても決定され、なおかつ表裏の異なる段階に属する舞台が、ある種の時(空)間的偶然として共存しうることも確認した。冒頭でいった「深緑の枯れ草」を理解するには、およそこれで十分だろう。

あの芝生は観光客のまなざしを考慮してより草らしくされた草であり、いわば純粋な表舞台(第一段階)である。しかし、残念ながらぼくたちはそれらが深緑に塗りたくられた瞬間を目にすることはできない。なぜなら、その加工の過程は観光客には絶対に見られてはならない舞台裏(第六段階)であったからだ。それゆえ、塗装はおそらく人気のない深夜か早朝に行われたことだろう。

 

観光対象の表舞台‐舞台裏という区分が「ある場所で演出される社会的パフォーマンス」、つまり空間的/構造的な差異によってなされるとき、純粋な舞台裏(第六段階)はつねに観光客に対して閉ざされている。表舞台に立っているぼくたちが舞台裏をみることができないのは、そこにあるものが物理的に遮断/隠蔽されているからであり、ぼくたちは(実際にみていなくても)舞台裏があること自体は認識している。

 

一方で、一つの観光対象の表裏の区分が時間的差異に依拠している場合、ぼくたちが表舞台から純粋な舞台裏をみることができないのは、それが物理的に遮断/隠蔽されたからではなく、それが表舞台への転換と同時に消失してしまうからだ。換言すれば、表舞台‐舞台裏という性質が時間性によって決定されるとき、両者が純粋であればあるほど(つまり第一段階か第六段階に近いほど)、相互に消失し合うという特徴を持つのである。

 

もしかすると、読者の中には、そもそも観光対象はそんなに単純な状態で存在していないといって批判する人がいるかもしれない。たしかに、ふつう観光対象は空間的/構造的な表裏の舞台と時間的な表裏の舞台の両方の側面を持ち合わせているものだ(ホール、営業時間、バックヤード、キッチン……)。

 

しかし/だからこそ、ぼくはここで「深緑の枯れ草」に注目したい。というのも、ここには空間的舞台裏がほぼ存在しないことによって、純粋かつ高度に時間的な表裏の舞台の展開をみることができるからだ。芝生の植え込みという空間が時間性によって表舞台へと転換したのであって、そこに隠蔽すべき舞台裏などない。そこには、芝生しかないのだ。(あえて厳密にいえば、業者の倉庫がそれにあたるかもしれないが……)

 

枯れきった深緑の草ぐさを、ぼくらはどうみればよいのだろうか――それは、観光客へ向けられた華やかな(?)表舞台であり、同時にその時間性によって隠蔽すべき舞台裏を消去することによって、舞台の表裏を決定づける時間性という要素への気づきをもたらしてくれる場所なのである。

 

 

 

 

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ふ、ふむう……

 

 

註 

 

1:詳細は、たとえば松浦友久編『漢詩の事典』(大修館書店 1999年)605頁以下。また、ぼくがかつて編集人をつとめていた同人誌『乾文學』三月特別號に趙君という中国人留学生のエセーの翻訳とぼくの解題を掲載したことがある。見てくれるとぼくがたいへん喜ぶ。

 

2:春节假期热门景区客流爆棚,有游客在寒风中滞留三四个小时_中国政库_澎湃新闻-The Paper (2月8日閲覧)観光地が飽和状態になり、各地でトラブルが発生しており、事前に通知するなどの対策もうまく効果を発揮していない。予約数やチケットの販売量の管理などの対策を急ぐべき、という旨の記事。

 

3:アーヴィング・ゴフマン 石黒毅訳『行為と演技』(誠信書房 1974年)。

 

4:マキャーネル 安村克己訳『ザ・ツーリスト』(学文社 2012年)122頁以下。

 

5:マキャーネルは表舞台‐舞台裏という区分に対して「観光経験の理念的両極」(p122)と述べており、(広く読めば)この批判はあたらないという人がいるかもしれない。しかし、かれの分析に時間的差異への視点が欠落していたのは、第五段階の舞台裏として「キッチン、工場、船内」(p123)という空間的状況に続いて「交響楽団のリハーサル」という時間的状況を列挙していながら、じつはそれが唯一時間的な差異によることを明記しなかったことからも明白である。ここまでこの点にこだわる理由は、本文でいった通りこれが単純であり同時に重要な視点だからだ。(マキャーネルはその後に「ニュースの漏洩」も挙げているが、情報は単に空間的でも時間的でもないだけでなく、可視的でもあり不可視でもあるという至って不思議な性質の持ち主であり、今回の議論では処理しきれないのでここでは取り上げない。)

また、この問題は、この本の邦訳が「高度近代社会の構造分析」であるように、マキャーネルの方法が多分に構造主義的であることに起因するのだろうし、構造主義的な議論に対してもっと時間をみろというのは少し卑怯な気もする。とはいえ、表舞台‐舞台裏の区分に時間軸を導入するとよりよく整理できるのは間違いないし、なによりぼくたちは芝生について考えねばならない。ここで怯んでいるわけにはいかないのだ。

 

6:たとえば、閉園後のディズニーには怖い都市伝説が…秘密のイベントとは!? | これはヤバい!ジブリやディズニーの怖い都市伝説(2月8日閲覧)など参照。