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どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

童貞は政治を語ってはいけないのか? ――ショッピングモールでつかまえて

黑夜给了我黑色的眼睛

我却用它寻找光明                ——顾城《一代人》

 

 

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4 森友学園問題について言いたい事を言う放送《東浩紀×津田大介×茂木健一郎》

 

先日YouTubeにアップされたこの動画の後半で、16歳の男子高校生リスナーが「日本の選挙制度には問題がある。どうしたらよくできるか」みたいな質問をした際に、批評家の東浩紀とジャーナリストの津田大介から「いや童貞が政治や社会を語るなよww」的な返しをされていた(※1)。

 

かれらのことばが冗談かどうかはさておき、童貞は、ほんとうに政治や社会を語ってはいけないのか? ブログなのでもったいぶらずに結論からいうと、童貞には政治や社会を語る権利はあるが資格はないというのがぼくの意見だ。

 

これは一体どういうことか。

 

政治や社会を語るということは、たとえば「法とはなにか」、「政治とはなにか」、「権利とはなにか」あるいは「責任とはなにか」などといったことについて考えること(あるいはそうした諸問題に対する暗黙の合意の上で具体的なことがらを議論すること)である。そして、そうした根元的な問題にあまねく(そして暗に)通底しているのが「人間とはなにか」という問題なのだ。なぜなら、大胆にいえば、政治や法、権利などといったものはすべて人間がよりよく生きていくために作り出した制度であるからだ(※2)。

 

また、「人間とはなにか」と問いかけることは、人間を定義することにほかならない。定義とは、差異の確認である。つまり、ぼくたちがなにかを定義するのは、それ(ここでは人間)がいかに類似の概念/存在と異なっているかを明らかにするためである。逆にいえば、ぼくたちが定義を必要とするのは、つねに類似の概念/存在があることに気付いたときなのだ。

 

ちかごろ人間を再定義しようとする機運が高まっているのは、ほかでもなくロボット工学や人工知能の台頭とそれへの不安が原因なのであるが、そもそもぼくたち人間が人間の定義を必要としたのは、当然ながら自身を動物と区別する必要/欲望を感じたからである。人間は動物と(いかに)異なるのかという議論は、たとえば中国の戦国時代の『孟子』に早くも登場している(※3)。「人間とはなにか」という問題は(少なくとも東アジアの)道徳に関する議論にも通底しているといえるだろう。(もちろん、この問題がいまなお重要さをいささかも失っていないことは、べつにコジェーヴアーレントなどという固有名を持ち出さずとも明かなことだ)

 

ところで、いまを生きるぼくたちにとって人間と動物を感覚的に区別するのはさほど難しくはない。というのも、ぼくたちは物心がついたころから動物園、ペット、自然のドキュメンタリー番組などといった形で動物を人間とは異なるものとして対象化して消費/享受することに慣れ切っているからだ。それゆえ、いま人間を定義する、すなわち人間と動物を明確に区別する必要/欲望が生じるとするならば、それはたとえば「われわれはいまや動物よりも高度な知能を持つ生物となってしてしまったのだ」と誇らしげになる瞬間にではなく、むしろ「じつはわれわれもまたあの動物たちと同じなのではないか」と疑ってしまう瞬間にこそあるのだ。

 

そして、いまを生きるぼくたちにとって、この疑いが生じる最も普遍的な瞬間は、おそらく恋愛と性愛の差異の中に隠されている。というのも、性愛(/性欲)のディスクールは恋愛/友情のディスクールとは全く異なる地平で展開されるからだ。

 

ぼくたちは、小さいころから道徳教育などを通じてかけがえのない個人を尊重しようということをやたらに聞かされて育ってきたし、それはある程度人間関係の基本であると考えている。(もちろん、それを疑ったり否定したりすること自体はあまりに容易だ)友情や恋愛が本質的(あるいは理念的)にここを起点としているのは、その手の「さわやかでまっすぐ」なフィクションがいつまでも喜んで消費されることをみれば明らかである。

 

恋愛(/友情)のディスクールが、程度に差はあれ「かけがえのない個人」を起点にしている一方で、性愛(/性欲)のディスクール相手を交換可能なモジュールとして対象化することから始まる(※4)。そこでは本質的には「かけがえのない個人を大事に」などといった人間関係の道徳は必要とされていない。例などだれでもいくらでも挙げられるだろうが、たとえば一晩限りの関係は成立するのに、初対面の人と一度だけ昼過ぎの日比谷公園をぶらぶらするだけの関係がほぼ成立しないことを想起すればよい(※5)。

 

相手を交換可能なモジュールとして対象化すること、それによって「かけがえのない個人」という人間関係の道徳的基盤――それ自体かなり疑わしいのかもしれないが!――を一時的に捨て去ること。おそらくもっとも多くの人がはじめて「じつはわれわれもまたあの動物たちと同じなのではないか」と疑う瞬間は、ほかでもなく性愛のディスクールが前提として求めるこのふるまいの中にあり、同時にそれによって自分は動物ではなく人間であるという確信が根底から揺さぶられる不安の中にある。

 

童貞が無条件に嘲られたり、偉そうに政治や社会を語るななどといわれたりするのは、ほかでもなくかれらの生活感覚に人間性とは矛盾した動物性の台頭による根底からの揺さぶりが感覚的に欠けており、その点で「人間とはなにか」という問題およびそれが暗に通底している各問題系への接続が片手落ちにならざるをえないとみなされるからだろう。

 

むろん、その揺さぶりを実感する機会は性愛と恋愛(ある側面における動物性と人間性の差異のほかにも無数に存在する。しかし問題は、人々が(あえていうならば世の中の元‐童貞たちが)その他のすべての機会にもまして、性愛と恋愛の差異に揺さぶられること、もっといえばその矛盾を矛盾のまま自分のなかに共存させた状態へ到達することを決定的な契機だと認識していることにある。人間(ヒト科の動物ではない)に関する議論は、自分が動物なのではないかと本気で疑うところから始まるのだ。

 

いい換えてみよう。大自然に身を置くライオンやゴリラは、たとえば田舎の中学生が土曜日の午後にショッピングモールでデートをするような、生殖と全く無関係の恋愛を決して行わないだろう。(その意味で、しばしば恋愛の物語に触れたことのないものは決して恋愛をしないだろうといわれるのはもっともなことだ)

 

性愛と恋愛が矛盾をはらんで共存するというのは、とりもなおさずショッピングモールの中学生とジャングルのゴリラがシームレスにつながることである。童貞は、いわばショッピングモールの向こうのジャングルを知らないのだ。

 

さて、ここまでいってきたのは、端的にいえば童貞がいかに動物性へのおそれに欠ける(とみなされている)かであり、それはまた政治や社会の問題の根本に通底している「人間とはなにか」という問題のもっとも重要なカギとなる感覚の一つであるということだった。これこそが、かれらに政治や社会を語る資格がない理由である。

 

権利に関しては、これはそれほど複雑な話ではない。単に言論の自由参政権などといったことばを想起すれば事足りるだろう。

 

では、権利はあるが資格がないとはどういうことか。それはすなわち、社会的には正しいが、しかしそのふるまいによって浴びせられる数多の罵倒や嘲笑から、社会は決して守ってくれないということだ。換言すれば、童貞がしたり顔で政治や社会を語ることを問答無用に抑圧する公的な力はどこにもないが、しかし社会は周りの人々の嘲笑や憐みに対して例外なく永世中立の原則を貫いてくるということだ。

 

もう一度いうが、童貞が政治や社会を語るなと嘲笑されるのは、かれらに権利がないからではなく、資格がないからである。なぜなら、かれらは感覚的に性愛と恋愛(動物性と人間性)が矛盾をはらんで共存する状態へと到達しないままに、いつまでも土曜日のショッピングモールをさまよい続ける存在にほかならないからだ。

 

ただ、ここでもっとも矛盾に満ちているのは、ぼくもまたショッ(筆者急逝のため未完――編集者注)

 

  

 

1:なお倍速で通してみたが、個人的には前半(1,2)より後半(3,4)の方がかなり面白かった。

 

2:Frans de Waalの『チンパンジーの政治学』は、こないだ北京の本屋で安く買えたがまだ読んでいない。読んだら考え方が変わるかもしれない。

 

3:「人之所以異於禽獸者幾希,庶民去之,君子存之。舜明於庶物,查於人倫,由仁義行,非行仁義也。」『孟子』離類下 

 

4:ここでは、モジュールということばを、いくつかの部品的機能を集め、まとまりのある機能を持った組み立てユニットという意味で使用している(参照Wiki)。劇場版『スタートレック』でヴィージャーが人類のことを「炭素ユニット」と呼んでいたが、イメージとしてはあれに近いかもしれない。

 

5:ここではそうした商売があるかどうかということは問題にしていない。