どらや記

どらやきはつぶあんが吉。

読書メーターとめまい

先日知り合いに「読書メーター」をすすめられた。読書メーターはウェブ上のサービスで、おもに読んだ本を自分のアカウントに登録することで、読書の記録をとったり読書の傾向が似ているほかのユーザーと交流したりできるものだ。一種のSNSだといってもいい。おそらく少しは本を読みネットを使う人の間では有名なはずで、ぼくもいちおう存在は知っていた。そしてそれが結構いいといわれたのではじめてみた。

 

bookmeter.com

 

 

だが、会員登録して1時間あまり経ったとき、ぼくはひどくめまいがしてウィンドウを閉じた。

 

なぜめまいを催したのか。その原因は少なくとも3つある。それはつまり、登録の限界、還元の暴力性、それから読了の誇示への恥じらいである。

 

本の登録に限界があること。これは必ずしも読書メーターだけの問題ではない。というのも、読書メーターでは基本的にamazon.co.jp(以下アマゾン)に出品されている本しか登録できないからだ。つまり、アマゾンに出品されていないような少し/おそろしく古い本、絶版本、同人誌、それから一部(あるいは多く)の海外の本は登録できないということになる。また元も子もないことをいえば、論文なんかそもそも望むべくもない。しかし、ぼくたちの読書経験は決してアマゾンの奥地から一歩も出ないような窮屈なものではないはずだ。

それから海外の本に関していえば、洋書=西洋の本はさすがに割合充実しているが、東洋(ぼくの場合だと中国)の本は圧倒的に少ない(翻訳も少ないし原書はもっと少ない)。そしてアマゾンにないということは、すなわち読書メーターに登録できないということでもある。いちおう「オリジナル」の本として登録する機能がついているが、これははっきりいってすこぶる面倒くさい。あまりの面倒さにぼくはめまいがした。

 

還元の暴力性。これは読書メーターの記録の方法に由来する。そこでは、登録された本のページ数や本が登録された日時によって、ぼくたちユーザーが一定期間にどれだけ本を読んだかがグラフを用いて量的に示されるようになっている。そこで用いられる単位はもっぱら冊数およびページ数である。これは一見きわめて妥当であり合理的な方法のようである。

 

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読書メーター読書メーターとは」より(https://bookmeter.com/about

 

しかしこれが意味するのは、簡単にいえば『はらぺこあおむし』も『純粋理性批判』も『ゴルゴ13』も同じ「1冊」であり、同じ「1ページ」として「読書量」を示すグラフに還元されてしまうということだ。もちろん、読書量を記録・管理するには現状これがもっとも優れた方法(の1つ)であることは間違いない。とはいえ、そもそも単純な計量化はつねに質的なものの切り捨てを伴うものであり、それは読書経験も例外ではない。『国民クイズ』と『孟子正義』が同じ緑のグラフに吸収された瞬間、ぼくはふとめまいがした。

 

読了を誇示することへの恥じらい。これは読む本によって、あるいは人によって感じ方が異なるだろう。ここでいいたいのは、つまり読了の誇示とは(それが再読を意味するものでない限り)、とりもなおさず過去における未読を暴露する行為にほかならず、場合によっては、それはたまらなく恥ずかしい行為であるということだ。たとえば、ぼくは大学で中国の文学や思想を学んでおり、とうとう4年生になってしまったが、いまここで「論語」を読んだ、魯迅を読んだなどというのは(再読でない限り)なかなか恥ずかしいことである。なぜならいま「論語」や魯迅を読んだというのは、大学で何年も中国の文学を学んでいるのにまだ「論語」や魯迅も読んでいなかったのだといっているのに等しいからだ。

もちろんだれでも初めはあらゆる本に対して未読の状態だから、読んでいないのは仕方がない(そう思わないと死ぬ以外に未読のプレッシャーから逃れるすべはない)。だが、ここで重要なのは、なにもそれをわざわざウェブ上で公開する必要はないのではないかということだ。たしかに、読了を誇示するのに恥じらいを感じない本はある。比較的新しい本や、大して有名でない本なんかはそうだ。しかし、ぼくは文学部の大学4年生になってしまったいま、たとえば『資本論』第一巻を初めて読んだなどとあまり大きな声でいいたくない[※1]。なにとはいわないが、たいそう有名な本を登録してしまった時、ぼくはひどくめまいがした。

 

読書メーターにまつわるめまいの原因はおおかた明らかになった。今後ぼくがめまいを催さないようにするには、これら3つの問題を乗り越えなければならない。そのために要請されるのは、以下の3つの戦略である。

 

1:アマゾンにない「オリジナル」の本もめげずに登録する。あるいは読書メーターに登録できる本をもっと増やすために将来頑張って海外の本を大量に翻訳し、アマゾンをもっと豊かな密林に仕立てあげること。 

 

2:古典とか思想書のせいでグラフがしゅんとしてもめげない。あるいは読書メーターには読後の感想を書く場所がある。ここを充実させることでグラフにあらわれない読書経験の質的な記録が可能かもしれない。とはいえ、そもそも感想が充実しているかどうかというのは、その読書経験そのものが充実していたか/タフであったかどうかを必ずしも示すわけではない(ものすごく頑張って格闘し、なんとか読み終えたが結局半分くらいしか理解できていない気がするというのは、それはそれでよい読書経験だと思うが、その場合読後の感想がきわめて充実したものとなるとは考えがたい)。やはり「グラフにならないものがある」という熱い気持ちを抱き続けるしかないだろう。

 

3:恥じらいなど気にせず開き直ること。多少恥ずかしくてもめげずに公開すること。さきほどもいった通り、だれだって初めは読んでいないのだから仕方ない。さあ恥じらいなど捨てたまえ、古来「無知の知」というではないか!!

 

以上3つの方法は、大胆に換言すれば「とにかくめげない」という一点に尽きる。しかしぼくは、読書経験の記録にそこまで根性を発揮できるほどまじめな人間ではない。したがって、読書メーターによるめまいを回避するには、当然の論理的帰結として、読書メーターそのものからの逃走という戦略以外に選択肢はない。それゆえ、ぼくはもう二度と読書メーターを開くことはないだろう。それはやむをえないことだ。

 

 

1:『資本論』第一巻はいちおうわりと前に読んだ。