暁命堂雑記

ときどき書きます。

死なない身体の生かしかた——劉慈欣と技術的永生の問題

 香港の哲学者ユク・ホイは、2020年の世界的な感染症の危機に際して、医学的ないし技術的な手段によって死を克服しようとする精神は「ハムレットの文化」を継承するものではないかと述べている。

 

というのも、ヴァレリーの論考〔1919年の「精神の危機」〕から100年を経たいまもなお、私たちはいつか不死身になれると信じてきたし、まだ信じ込もうとしているのだから。つまりひとは、やがて免疫のシステムを向上させてあらゆるウイルスに対抗できるようになると、また最悪の事態がおこったときにはたんに火星へ逃げればよくなると信じているのだ。[1]

 

 「いつか不死身になれる」というこのような願望は、こんにちのいわゆるトランスヒューマニズムや資本家による宇宙開発によって端的にあらわされている。そこにあるのは、技術によって不死を実現しうるだけでなく、惑星の破滅といった決定的な外部要因にもとづく死すらも宇宙技術(space technology)によって克服できるという信念だ。しかしながら、それはあくまでひとつの信念にすぎず、ユク・ホイがいうように「いまだにこの地球と呼ばれる惑星に住みついているわれわれ死すべき者には、彼らの言葉どおり不死身になるまで待てる見込みなどない」[2]。とはいえ、当然ながら、そうした不死への欲望の根底には逃れがたい死への自覚がある。これは明白な事実だ。

 そうであるならば、不死を欲望し、多種多様なやりかたで喧伝するような言説は、じつのところ「ひとはやがて死ぬ」という至極まっとうな教説を逆説的に反復しつづけているといえるのかもしれない。つまりそこには、(乗り超えるべきものであったとしても)依然として生と死の根本的な対立が根強く存続しているのである。では、その対立の彼岸にはなにがあるというのか。いいかえれば、死が端的に否定されてしまったあとに、生はどのように変容するのだろうか。

 この記事(ちょっと高度な読書メモ?)では、中国のSF作家・劉慈欣のふたつのテクストからこの問題について簡単に考えてみたい。『三体』三部作で世界的に知られる劉だが、じつは彼は、人間の寿命を左右し、場合によっては永遠の生すなわち「永生」を可能にするような技術をしばしば主題的に描いている。

 

 ## 1

 

 ひとつめのテクストは「2018」である。これは劉の短編集『2018』(2014年、江蘇鳳凰文芸出版社)の表題作だ。

 この作品の主題は「遺延」(原文では「基延」)と呼ばれる遺伝子工学をもちいた延命技術である。技術的な細部は描かれないが、それによってひとは老化を大幅に減速させ、200年をゆうに超える寿命を手にするという。物語の舞台は遺延が商業化されはじめた2018年の中国で、そのころ遺延には莫大な料金がかかり、ごくわずかなひとしか手術を受けられなかったため、国内の各地で抗議活動が行なわれていた。

 他方、平凡な経理担当の会社員である主人公の「私」は、会社の資金を横領して秘密裏に遺延の手術を受けようと画策する。むろん、多額の資金を横領すれば重罪になるだろう。しかし「私」にとって、刑罰はそれほど大きな問題ではなかった。

 

かつて私は法律を細かく調べあげたのだが、汚職罪の量刑にもとづくと、500万元〔の横領〕では最長でも20年〔の懲役〕という判決になるようだ。だが、20年経ってしまえば、私の面前にはまだ200年以上もの魅惑的な歳月が待っているのだ[…]じっさい、遺延を受けた人々のグループに入ってしまえば、現行の法律のうち死刑を除くあらゆる罪が、一度は犯してみる価値のあるものになってしまうのである。[3]

 

これはじつに簡単な算数の問題だ。20年の懲役が重い刑罰になるのは、いまのところ人間がせいぜい80年前後しか生きられないからである。したがってその3倍近い寿命を獲得してしまった人間に対して、監獄と懲役に依存した刑罰の多くは十分に機能しなくなってしまう。さらにもし永生が実現すれば、無期懲役ですら同様の困難に直面することだろう。したがって、死なない身体に対して、既存の法は機能不全をおこす。とはいえ、これはほとんど自明であり、議論としては凡庸ですらある。私たちは、テクストをもう少しさきへ読み進めていこう。

「私」は資金調達のための準備を着実に進めていくのだが、計画の実行をまえにひどく逡巡してしまう。その最大の原因はガールフレンドの簡簡の存在だった。というのも、「私」だけが遺延を受けることで、彼女とは根本的にことなる時間を生きることを運命づけられてしまうからである。この葛藤は、「私」にとって愛の問題が計算(ないし交換)不可能なものの範疇にあることを端的に示しており興味深い——合理的に考えれば、200年間のあいだに似たような出会いの体験がある確率はきわめて高いはず——のだが、それはひとまずおいておこう。

 ここで注目したいのは、「私」が計画の実行を決意し、簡簡に別れを告げる場面である。そこで「私」は、彼女もまた手術を検討していることを知らされる。しかしそれは遺延ではなく人工冬眠(管理された低温状態で長期間の睡眠を行ない、代謝の速度を大幅に低下させること)であった。

 いうまでもなく、遺延は寿命を有限のまま延長する技術であって永生ではない。また冬眠にいたっては延命の技術ですらない。あえていうなら、それは一方通行のタイムトラベルの技術である。とはいえ、劉慈欣の小説においては、これらの技術がみな根本的な部分で永生につながっているのだ。たとえば劉は、『三体III 死神永生』のなかでつぎのように述べている。

 

冬眠技術が現実化する以前は、それは不治の病を抱えるひとに未来での治療の機会を与える程度のものだと考えられており、多少深く考えたところで、せいぜい遠距離の星間航行のための一種の手段でしかなかった。しかしこの技術が現実のものとなったとき[…]それが人間の文明の様相を完全に変えてしまう可能性をもつものだと気づいたのである。

 冬眠のすべては、ある信念の上に成り立っている。つまり、明日はもっとよくなる〔明天会更好〕というものだ。[4]

 

 一方通行のタイムトラベルである人工冬眠は、未来がいまよりよいものになる(最低でもよりわるくなることはない)という信念があってはじめて可能になる。というのも、裏返していえば、社会が下り坂にあると考えるひとは、より悪化した未来へ一足飛びに向かおうとは考えないからだ。さらに「2018」にはつぎのような対話がある。

 

簡簡がいった。「生きるのにほとほと疲れてしまったの。それにつまらないし。わたしはただ逃げたいだけなの」

「1世紀先なら逃げられるとでも? その頃じゃきみの学歴はもう認められないし、時代にもあわなくなっている。ちゃんと生きていけるのか?」

時代はいつだってよくなっていくものよ。ほんとうにダメならまた冬眠すればいいだけ。遺延をしてもいいわ。そのころならきっと安くなってるはずよ」[5]

 

明らかに、ここには『三体III』で提示された冬眠の条件としての楽観主義があらわれている。そしておそらく同じことが遺延に、まして永生にはなおさらいえるだろう。それを象徴するのが、「2018」の終盤にあるこの一節である。

 

「きっとご自身の決定を祝福することになりますよ」と〔遺延センターの〕主任がいった。「というのも、あなたが手にされたのは単なる二世紀あまりの寿命ではなく、永生かもしれないのですから」

私にもその意味がわかった。だれも二世紀後にどんな技術があらわれるかわからないのだ[…]

「じつは私自身は遺延をしていないのです」

「なぜですか?」

主任はしばらく沈黙してからいった。「この世界はあまりに目まぐるしく変わっています。あまりに多くの機会や誘惑、欲望、そして危険に満ちている。私はめまいがしそうなんです。まあ、歳を取ったということでしょう。でも安心してください」彼は続けて簡簡のあの言葉をいった。「時代はいつだってよくなっていくものです[6]

  

ここに引いた対話が示すのは、時代はかならずよりよくなっていくという楽観主義こそが、冬眠や遺延を、ひいては永生を可能にするということである。逆にいうと、未来がいまよりよくなることはないという予感を抱くひとにとって、寿命が撤廃されることほど絶望的なことはない(さらにいえば、冬眠や遺延の根底には、単なる未来への楽観にくわえて、やがて技術は死を克服しうるはずだという一種のテクノ-オプティミズムが二重に挿入されている)。つまり、死なない身体には無限の楽観主義が必要なのだ

 

 永生という問題に対して「2018」というテクストが提示したのは、法の機能不全という帰結であり、また無限の楽観主義という条件だった。ところでこのテクストには、可能な永生そのものについて具体的に触れた箇所はあまりない。劉はただ、一種の可能性として、精神転送によりデータ化した精神のバックアップを取り(SFドラマの「オルタードカーボン」のように)さまざまな身体に入れ替えていくことや、端的にウェブ上に生きるデータ的存在者になることなどに言及するにとどめている。それ自体いまやありふれたイメージではあるが、いずれにせよ「2018」のなかだけでは、死を克服した人間のなかで生がどのように変容するのかという問いには十分に答えられないのである。そこでもうひとつのテクストを参照することにしよう。

 

## 2

 

  ふたつめのテクストは「中国2185」という小説だ。これは1989年に書かれたとされる劉の幻の第一作である。「幻」というのはこの作品が刊行されなかったからだが、にもかかわらずウェブ上ではこれが劉の第一作として認知されており、各種小説系のサイトで全文の閲覧ができてしまう[7]。テクストの信憑性や著作権の問題など、あらゆる面において明らかに問題含みではあるが、ここではひとまず中国のウェブ上の慣習にしたがって「中国2185」を劉の作品としてあつかっておこう。

 

「中国2185」はかなり奇抜な設定のパニックものである。舞台は2185年の中国で、雑草の生い茂る天安門広場に安置された毛沢東の遺体の頭部に対し、分子レベルで3Dスキャンを行なったひとりの青年の手により、毛沢東がデータ的存在者としてウェブ上に「復活」するところから物語がはじまる。つまり「中国2185」は、「2018」で示唆されたデータによる永生の形式にくわえ、技術による復活というモチーフによって支えられている。さらに医療の発達の結果、平均寿命は200歳を超えており、「2018」の設定とも近い部分がある。ただ残念なことに、その後物語は青年が同時期にデータとして復活させた別の老人の暴走と、それに対処する中国政府の「最高執政官」である若い女性やその部下たちを中心に展開していき、毛沢東は終始傍観者の立場を保ち続けている。その結果、総じて毛沢東がウェブ上に復活するという魅力的なアイデアを活かしきれておらず、物語全体としてはやや低調な印象を受ける。なので、ここでは私たちの問題にかかわる箇所だけ引き出しておこう。

 それは物語の最後に展開される、デジタル毛沢東と最高執政官の女性との対話である。データ的存在者としての老人の暴走——絶えざる自己増殖と各種システムへのサイバー攻撃、そしてウェブ内での独立国家の建設など——を全国的なネットワークの遮断と停電によって食い止めたあと、(その間ウェブからは隔離されていた)デジタル毛沢東と最高執政官が永生について語りあう。

 

A〔最高執政官〕「電脳総網〔インターネットのこと、当時は「互联网」という中国語がまだなかったか〕におけるあの違法国家および彼らの行為についてどのようにお考えですか?」

B〔デジタル毛沢東〕「あの国家のなかでは、老人たちはもはや死んでいた」

 A「死んでいた!? では……」

B「ははは……ムダに一杯食わされたわけだ」

A「ですが私たちは、〔データ的存在者の誕生によって〕永生が実現したことを言祝ぎ、よろこびのあまり発狂しかねないほどでした」

B「なにが『永生』だ、こんなもの『永死』にすぎない」[8]

  

このように、永生は「永死」つまり永遠の死であると毛沢東は述べる。どういうことか。

 

生きることは変わることだ。だから永生とは永遠の変化である。百年程度であれば、その大本〔其宗〕を離れることなくいつづけられるかもしれないが、「永遠」となるとかならず大本から離れてしまうものだ。永遠といわずとも、一万年もあれば離れざるをえないだろう。その大本を離れてしまえば、「大本」は死んでしまうのではないか? 生きるのは新しいものであり、「大本」は永遠には生きられない。変わることがなければ、それはもう死んでしまっているということだ。[9]

 

たとえば生命体にとって新陳代謝が不可欠であることを想起すれば、「生きることは変わることだ」という彼なりのテーゼをひとまず素朴に(つまり世俗的な組織論などに応用することなく)受け取ることができるだろう。そして不断に変化する過程のなかで同一個体(あるいは同一のもの)としての状態を維持できなくなったとき、それは「大本から離れてしまう」。その意味で、「大本」をめぐる話は、いわゆる「テセウスの船」的なパラドックスの臨界点を問うていると考えてもよいだろう。

 とはいえ、デジタル技術による永生の問題を考えたとき、より重要なのは「大本」にかんする議論ではなくむしろ「変わることがなければ、それはもう死んでしまっているということだ」という最後の一文である。少なくとも「中国2185」に描かれたかぎりでのデータ的存在者は、有機体論的なフィードバックループによって自己を変容することができず、いわばコピー&ペーストで永遠に同一個体の自己増殖を続けるしかなかった。劉の描いたデジタル毛沢東は、その状態がまさしく「永遠の死」にほかならないと考えたのではないか。

 さらにいうと、前半の「大本」にかんする議論は、(作中では変容する中国という近代国家を対象としているが)私たちの議論の文脈では、おそらく「2018」が提示したふたつの永生の可能性のうちのもうひとつ、すなわち精神をデータ化してバックアップを取り、さまざまな身体に挿入していくという方法での永生の形式に適用できるだろう。というのも、そこでは生き続けるためにつねに変化がおきているが、千年万年の単位で身体をまるごと入れ替え続けるというのは、もはや「大本から離れ」るほどに大きな変化となりうるからである。私たちは、このセリフが二百年近い眠りの末に意識を復元され、身体から切り離されてしまったデータ的存在者によって語られている意味を考える必要があるだろう。してみれば、デジタル毛沢東のことばでいえば、この形式での永生もまた、永遠の死であるといわざるをえないのだ。

 

 永生とは永遠の死である。これが「中国2185」で提示された劉の永生観念だ。これを大胆に換言すれば、生と死という二項対立から片方の死というファクターを除去されたとき、ひとはもはや死んだように生きるしかないということを意味しているのかもしれない。そしてこれこそが、劉のテクストから考えうる可能な永生の形式であり、それによって起こりうる生の変容の内実である。

  

## 3

 

 この記事でまとめておくべきことはある程度明らかにされた。劉慈欣と技術的永生をめぐる問題系にはまだ多くの論点が含まれているが、ひとまずこのあたりにとどめておこう。最後に少しことなる角度から一点だけ補足して議論を終えることにしたい。

 

 さきほど引用した対話のあと、「中国2185」は若き最高執政官によってネットワーク再興のプランが語られる場面で幕を閉じる。そこでは、超高寿命社会が引き起こす人口問題や世代間ギャップ(代沟)の解決策として、高齢者をデータ化してウェブ上のユートピアに転送し、そこで永遠の生を謳歌させるとともに、「この星を青春の星に、少年時代の星に変える」という最高執政官の野望が語られる[10]。まるでウェブ上に底なしの姥捨山を実装するかのようなこのおそろしい計画は、はっきりいってディストピア以外のなにものでもない。

 とはいえ、この対応策が示唆しているのは、寿命が長くなればなるほど——そして永生を実現すればなおさら——莫大な居住地が必要になるという事実だ。つまり、ひとが死なずに増え続ければ土地が足りなくなるのは当然なので、この計画は(たとえ非人道的であっても)ある意味理にかなっている。つまり、いいかえれば死なない身体には無限の居住地が必要だ。たとえば「中国2185」の最高執政官がその居住地をウェブ上に求めたように、それはやがて地球上の土地では足りなくなることだろう。

 

 このような技術による復活や永生およびそれにともなう居住地の問題というきわめて類似した課題を抱えながら、「中国2185」とはまったくべつのアプローチを取ったのが、20世紀ロシアのいわゆる宇宙主義である。

 ロシア宇宙主義は、19世紀末の思想家、ニコライ・フョードロフにはじまり、彼の影響を受けたもろもろの科学者や思想家を曖昧に包括する用語として機能している。いま詳細を論じる余裕はないので、ここでは批評家のボリス・グロイスによる秀逸な宇宙主義論[11]を中心にその概要を確認し、劉のユートピア論と簡単に比較しておきたい。

 フョードロフのプログラムは、大きく二点に要約できる。ひとつはかつて地球上に生きたすべての人類を技術によって復活させるとともに、全人類の永生を実現すること。そしてふたつめは、復活した祖先のすみかを確保するために宇宙を植民地として開拓することである。このような主張の背景には、近代のロシアが経験した宗教的伝統の破綻があった。

 

フョードロフは魂の不死を信じず、キリストの再来を待つなどという消極的な考えは持たなかった[…]魂を信じずに、肉体を信じた。フョードロフにとっては、物理的、物質的な存在だけが、唯一可能な存在形式だった。また、技術を絶対視してもいた[…]しかしながら、フョードロフがなにより信じていたのは、社会組織の力だった。彼の考えでは、人間の人工的復活の事業に身を捧げるために必要なのは、ただ、しかるべき決断を下すことだけだった。[12] 

 

そこでフョードロフは、このような技術にもとづく不死と開拓の事業は中央集権的な世界国家の意志によって推進されねばならないと考えた。つまりグロイスのいうように、フョードロフの思想はいわばミシェル・フーコー的な「生権力」の完成形態である。というのも、それはあらゆる場所と時代の人間に対し徹底的に「生きることを強い、死ぬに任せない」ようにするからだ[13]

 すべての死者を復活させ、全人類の永生を実現したのち、あらたな植民地として宇宙を開拓しようというフョードロフの呼びかけは、一見荒唐無稽であり、夢物語でしかないようにも思える。だが興味深いことに、この思想は、のちにソ連のロケット工学を主導し「宇宙旅行の父」などと称されたコンスタンチン・ツィオルコフスキーによって継承されるのである。「ツィオルコフスキーが目的としたのは、復活した祖先をほかの惑星に運ぶための交通手段の開発であった。のちのソ連宇宙飛行学の歴史はここから始まったのだ」[14]

 

 ここでさきほど言及した「中国2185」のユートピア構想を思いだそう。そこでは、デジタル技術によって永生するデータ的存在者に転換した老人(やおそらく死者)をウェブ上の生活世界へ移住させる計画が語られた。表面的にみれば、これは復活した祖先をほかの惑星へ運ぼうと考えたロシア宇宙主義と似た排除の構造をもつように見受けられる。つまりさきほどの比喩を使えば、両者の構想にはいずれもある種の姥捨山的な発想が存在しており、単にその場所が宇宙かウェブ上かの違いがあるだけではないか? むろんそうではない。もちろん両者にはさまざまな細部の相違があるが、それ以上に根本的な差異がある。

 じつのところ、フョードロフの宇宙主義的プログラムは、近代的な「神の死」への唯物論的応答である以上に、当時の社会主義に対する彼自身の強い批判を起点としている。フョードロフは、社会主義の理論があらゆる規模における世代間の不平等に対してまったく無力であることを強く問題視していた。

 

社会主義は社会の完全な平等を約束する。しかし、社会主義は、その約束を進歩への信仰と同一視している。進歩への進行においては、新しい社会に生きる未来の世代だけが社会的な正義を享受することが前提とされている。逆に現代の世代と過去の世代には、進歩の一方的な犠牲者としての役割が割り当てられる。永遠の平等は、現在と過去の世代に対しては想定されていない。要するに、未来の世代が社会的平等を享受するためには、過去の世代を平等の帝国から追放し、許しがたい歴史的不平等を冷ややかに容認しなければならないのだ。[15]

 

つまり社会主義の来るべきユートピアにおいては、革命に参与した(あるいは現在している)死者や生者と、のちにユートピアを享受する未来の人々とのあいだに決定的な不平等がまったく手つかずのまま残される。フョードロフは、このような「生者のための死者の搾取、後世を生きる者のための現世を生きる者の搾取という社会主義の本質」を根本的に解決するために、技術の力によって社会主義を時間的な位相にも導入しなければならないと考えたのだ。したがってフョードロフの技術的永生と復活の問題の根本には、世代間の不平等への強い問題意識がある。

社会の生命は、歳を重ねてゆく老人と成長してゆく若者によって構成されている。成長を続け、死者への優越性を実現していく若い世代の人々は、進歩の法にしたがっており、年老いていく人々や死にゆく人々に対する自分たちの優越性に気づくことがない[…]もし若者が〔年老いた者に〕「私は成長していくが、あなたは墓場へいくのだ」といえば、それは進歩などではなくむしろ嫌悪のことばであり、いわば放蕩息子が示すような露骨な嫌悪にほかならない。[16]

 

 フョードロフの技術的永生論は、まさにこのような生者と死者、あるいは若者と老人といった世代間の齟齬を解消するために提唱された。したがって、老人をデータ化してウェブ上に送り、「この星を青春の星に、少年時代の星に変える」のだと何のためらいもなくいってのける「中国2185」の若き最高執政官の技術的永生論とは根本的に違う方向性からはじまっているのがわかる。くわえて、そもそも「中国2185」的な「ヴァーチャル姥捨山」にかぎらずしばしば見受けられる、世代間ギャップをあおり、より激化させようとする「若者」の態度に通底するのは、やがて自分も歳をとり「若者」の側にいられなくなるというあまりに明白な事実への無自覚さだろう。

 

                                                     ■

 

「中国2185」において、デジタル毛沢東は、最高執政官の計画を「天に登るより難しい」と評したうえで、つぎのように激励する。

 

ならば天へ登ってみることだ! 天へ登るのは難しいが、それもおまえたちはやってのけるのだろう。月のうえに街をつくろうというわけじゃないんだから。[17]

 

 

しかし理想の社会主義のために「月のうえに街をつくろうと」し、あるいはそれ以上の共同事業を夢見た宇宙主義者の観点からは、デジタル毛沢東によるこの肯定はいささか受け入れがたいもののように思われる。劉慈欣自身がこのようなユートピアの構想をどのように評価しているかは不明であり、また劉があえて毛沢東社会主義と平等性の問題にかんして鈍感な人物として描こうとしていたなどと考えるのも正しくないだろう。とはいえ、いずれにせよ「中国2185」が要請する技術的永生やそれにともなう居住地/ユートピアの問題は、平等性をめぐる根本問題を依然として抱え続けることになったのである。

 

[1] Hui, Yuk. "One Hundred Years of Crisis," e-flux Journal, no. 108, April, 2020. URL=https://www.e-flux.com/journal/108/326411/one-hundred-years-of-crisis/ 邦訳は伊勢康平「百年の危機」、「ゲンロンα」、2020年6月13日配信。URL=https://genron-alpha.com/article20200613\_01/

[2] Ibid.

[3] 刘慈欣, "2018",《2018》,江苏凤凰出版社,2014年,页3。

[4] 刘慈欣《三体Ⅲ 死神永生》(典藏版),重庆出版社,2016年,页57。なお強調は筆者(以下同)。

[5] 《2018》,页7-8。

[6] 《2018》,页8。

[7] 今回は「努努书坊」に掲載された「中国2185」(2012年2月7日配信、2020年7月20日閲覧)にもとづいて議論を行なう。URL=https://www.kanunu8.com/book3/6655/index.html

[8] 刘慈欣《中国2185》,第13章“永生和永死”。URL=https://www.kanunu8.com/book3/6655/116266.html

[9] 同上注。

[10] 同上注。

[11] ボリス・グロイス「ロシア宇宙主義——不死の生政治」上田洋子訳、東浩紀編『ゲンロン2 慰霊の空間』、ゲンロン、2016年所収。これはロシア語からの翻訳であり、英語で読めるものとしては以下がある。Grois, Boris. "Russian Cosmos and the Technology on Immortality," in Grois ed. Russian Cosmism (Cambridge: MIT Press, 2018). 以後は前者の邦訳論考のみを引用する。

[12] 同。頁106-107。

[13] 同。頁106。

[14] 同。頁115。

[15] 同。頁107。

[16] Fedorov, N.F. "The Philosophy of the Common Task," in What Was Man Created For?: The Philosophy of the Common Task (London: Honeyglen Publishing Ltd, 2008), p. 52.

[17] 刘慈欣《中国2185》,“永生和永死”。