暁命堂雑記

ときどき書きます。

およそありうべき最善でただひとつの結末——『月球植民地小説』について

 もう5年以上まえ、まだ大学生だったころに書いた文章がみつかった。卒論の構想すら立っていなかったころだ。いま見返すと、あまりスマートではないし、よくないかたちで「批評」の影響を受けている——率直にいうと毒されている——感じが否めない(もちろん「批評」自体はよいものだ)。とはいえ、最低限ポイントを押さえているようには見えるし、扱っている小説もまあ珍しいものなので、ここに置いておくくらいならよいかと思った。あまりこのブログを見ているひともいないだろうから、いわば公の場に死蔵するといったところだろうか。

 

   ***

 

空を飛んで旅をする、だって ! あいつは今、鷲をうらやましがっているんだ。でも、そんなことをさせちゃだめだ ! わしはやめさせてみせる。あいつに好きなようにさせておくと、いつか月にむかって飛んでいってしまうぞ!
ーージュール・ヴェルヌ『気球に乗って五週間』

 

 

 ケン・リュウ(劉宇昆)の短編集『紙の動物園』や『もののあはれ』が日本で話題となり、テッド・チャン(姜峯楠)の「あなたの人生の物語」をもとにした映画『メッセージ』が大ヒットしたことなどを受けて、中華系の作家によるSF、いわゆる「中華SF」がにわかに日本で脚光を浴びつつある。早川書房の発行する「S-Fマガジン」の2017年6月号では「アジア系SF作家特集」が組まれ、ケン・リュウや「折りたたみ北京(北京折叠)」で知られる郝景芳らが紹介された。おそらく、中国人によるSFの金字塔である劉慈欣の『三体』が翻訳されたとき、この流れは一度ピークを迎えることとなるだろう。
 とはいえ、当然ながら、中国人(あるいは中華系の人びと)は近年になってはじめてSFを書きはじめたわけではない。一般的に、中国のSF史は、「SFの父」ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』が翻訳されたことをもってはじまるとされている*1。1900年のことだ。つまり、中国のSFにはおおよそ100年あまりの歴史があることになる。そして中国人の手によるはじめてのSF小説は、1904年に書かれた「月球植民地小説」(以下「月球」)である*2

 

 ## 1

 

「月球」の作者は荒江釣叟だとされているが、このあからさまなペンネームの持ち主が誰なのかはよくわかっていない。雑誌「綉像小説」に第31回まで連載されたのち休止し、やがて再開したものの第35回で再び連載が止まり、そのまま未完となった。そしてその後の長い忘却を経て、1981年に作家の葉永烈によって「再発見」される*3
「月球」の物語は、中国の文人龍孟華が敵討ちと称して役人を殺害するところから始まる。龍孟華は妻と国外逃亡を図るものの、船の事故で妻が行方不明となってしまう。龍孟華は失意のままに南洋(具体的には英国領マレー半島)で八年の時を過ごすのだが、ある日「気球」に乗って突然あらわれた日本人藤田玉太郎らの協力を得て、妻を探してニューヨークからロンドン、アフリカ、インドや東南アジアをめぐる旅に出る。
「月球」を少し紐解けば明らかなように、この作品は旧態依然たる文人気質の龍孟華と、科学やテクノロジーに明るく先進的な藤田玉太郎のくっきりした対比を軸に物語を展開させている。英語と中国語を自在に操り、欧米人にも作れないほどのすぐれた「気球」を発明し*4、なおかつ冷静沈着で義侠心も持ち合わせる玉太郎が順調に旅を進めるいっぽうで、外国語も出来ず*5、酒と詩作にばかりふけり、折に触れて妻の不在を嘆いては吐血し卒倒し続ける龍孟華は、一貫して足手まとい以外の何者でもない。とはいえ、近代化≒西洋化が日本人によって象徴され、伝統中国がそれに対置されるというこの構図自体はさほど興味深いものではない。この小説で興味深いのは、むしろ物語の最後でこの構図が逆転するところにある。
 玉太郎らの尽力によって、龍孟華は無事に妻の鳳氏と再会するのだが、その直後に彼らは月から来たという宇宙人と遭遇する。そこで龍孟華は鳳氏が漂流中に生んだという息子と奇跡的な出会いを果たし、いっぽう玉太郎は月から来た「気球」が「自分のものよりはるかに強力である」と感じ、宇宙人との技術の差に絶望する。

 

    このちっぽけな月だけ見たとしても、文明はここまで発達しているのだ。あるいはもう数年もすれば、植民地を開拓するためにわれわれの地球へやって来るかもしれない[……]月でさえこうなのだから、金・木・水・火・土の五つの惑星や天王星海王星のすべてに人が生息しているなら、そしてそれぞれが文明を持っているなら、その強さはわれわれの何千何万倍、いや数えきれないほどのものとなるだろう。もし彼らがわれわれと接触してきたら、一体どう対処すればよいのだ?*6

 

 かくて終始冷静沈着だった玉太郎は発狂し、月へ行けるほどの新しい「気球」を開発しようとして重傷を負うのだが、いっぽうで、龍孟華は鳳氏との再会によってすっかり元の気力を取り戻し、宇宙人(および息子)に従って月へ「遊学」にいってしまう。小説はここで未完のまま終わってしまうため、この後どうなるかは誰にもわからないが、おおかた月で最先端の技術を習得した龍孟華らが玉太郎を超える科学者、発明家となって帰還すると見て間違いないだろう。なかには、北京師範大学の賈立元のように「地球が月と〔武力〕衝突を起こし、〔敗北して〕月の植民地となるのだが、龍孟華ら親子の活躍によって中国は災厄をまぬがれ、物語は大団円をむかえることを暗示している」とまでいう人もいる*7。つまり、「月球植民地小説」とは、地球人が月を植民地にする小説ではなく、月によって地球が植民地にされる(かもしれない)小説なのだ。

 こうして全体を俯瞰するだけでも明らかなように、この小説には近代化と伝統や、人種をめぐる対立、それから科学技術や植民地主義の問題にまつわる論点がいくつも配置されており、「月球」に関するほとんどの議論はこれらの点をめぐって展開しているといってよい。
 とはいえ、こうした点にのみ注目した場合、この小説でもっとも興味深い点は、終始一貫する「未開(東南アジア、伝統中国、有色人種…)と文明(日本人、西欧人、白人…)」の対立の構図(むろん、単純な二項対立ではない)が、そのすべてを超越する「宇宙」という審級によって相対化され、ひいては「未開」の象徴だった伝統中国の文人が一足飛びに「宇宙」的な存在へと変身を遂げることによる価値転倒にある、ということになる。それはそれで結構だが、しかしそのように判断を下した瞬間、われわれは必然的にこの小説が未完であることを欠陥としてしか捉えられなくなってしまう。なぜなら、上記の価値転倒は、作品が未完であるために、あくまで可能性として見出されるにすぎないからだ。たとえば、さきほど引用した賈立元は次のように述べている。

 

    小説は第35回で中断されており、作者の“荒江釣叟”の正体はいまだによく分かっていない。すでに書かれた十数万字の〔テクストの〕中には、同時代を批判しようとする熱い思いや広大な構想が見られるが、しかし妻を探す冒険の旅や亡国を救う志士〔の物語〕から宇宙戦争に至るまでを同時に語ることは、じつに作者の力に余ることであって、物語のテンポも悪く構造もバラバラになってしまい、結局連載の継続が困難となった。*8

 

 こうした見解そのものはじつにもっともであり、中断された後に続いたであろう物語の可能性を想起すれば、もはや反論する余地も理由もない。しかし/だからこそ、われわれはここで、あえて「月球」が未完であることの意味を積極的に考えてみたい。つまり、じつは中国最初のSF小説「月球植民地小説」は、ほかでもなく未完であることにこそ意義があるといいたいのだ。それは、可能性としての価値転倒をあえて見出さないこと、いやむしろ価値が転倒しないまま終わったことに注目することで可能になるだろう。
「月球」が未完であることに意義を見出すこと。そのためには、物語に通底する「未開−文明」の構図は引き受けつつも、そこから人種や植民地の問題へゆかないようにしなければならない。そこで、われわれはまず、この小説が旅の物語であることに注目したい。

 

 ## 2

 

「月球」における旅について考えるためにふたつの小説を参照することにしよう。ひとつめはジュール・ヴェルヌの『気球に乗って五週間』だ。
『気球に乗って五週間』は、みずから発明した気球によって初の空路によるアフリカ横断を目指すイギリスのファーガソン博士らの冒険を描いたもので、同様に気球を用いた旅を物語の中心とする「月球」は、しばしばこの作品の影響を色濃く受けているとされる*9。とはいえ、たいへん重要なことに、「月球」に登場する玉太郎の「気球」は、「客を迎え入れるロビーや、身体を鍛えるためのジムに加えて寝室や大きな食堂がある」*10とあるように、じつは気球と呼べるようなものではまったくなく、むしろ巨大な飛行船や飛行機に近い。「月球」が旅のツールとして「気球」を導入したのは『気球に乗って五週間』の影響かもしれないが、その「気球」とヴェルヌの気球の間には相当のずれがある。そしてこのずれの中にこそ、「月球」における旅を考える重要なカギが隠されているのだが、それを確認するためには、ひとまず『気球に乗って五週間』の内容を簡単に追う必要がある。
 さきほどもいったとおり、この小説は空路によるアフリカ横断を目指す探検家ファーガソン博士の冒険を描いた物語である。当時空路によるアフリカ横断はまったく前例のない試みであり、ファーガソン博士の計画が公表されるやいなや、たちまち「嵐のような疑いの声」が上がった*11
 とはいえ、ファーガソン博士が空路を選んだのは、それがなにより安全な手段だったからだ。ファーガソンは空路のリスクを危惧する友人(彼も旅に同行する)にこのようにいっている。

 

    恐れることなんかあるだろうか。気球が墜落しないように、わたしがどんなに念入りに考えているか今にわかる。もし万が一落ちたとしても、地面に下りてふつうの探検家と同じ条件になるだけだ。だが、わたしの気球は大丈夫だ。そんなことは考えなくていい。[……]気球がなかったら、こういう探検につきものの危険と障害のまっ只中にほうりこまれる。気球に乗っていれば暑さも、急流も、嵐も、熱風も、からだにわるい風土も、野獣も、原住民も、恐れるものはなにひとつない。*12

 

 それからいささかくどいほどに技術的細部が語られたあと(とくに7章や10章)、博士は勝ち誇ったように宣言する。「成功に必要な条件は全て整った」(第29段落)。
 ところが、旅のなかでは「暑さも、急流も、嵐も、熱風も、からだにわるい風土も、野獣も、原住民も」、どれ一つ欠けることなく博士たちの前に立ちはだかることになる。彼らは熱にうなされ、雷雲を突き抜け、砂漠で極限状態に追い込まれ、鷲に気球を破られ、たびたび原住民に襲われる。結局博士たちは横断に成功するのだが、気球は急流に流され、滝壺の奥底へ消えてしまう。
 彼らの冒険譚自体はじつにスリルに満ちていてよいのだが、そもそもこの旅は博士の最先端のテクノロジー(気球)によってあらゆる「危険と障害」から解放されるべきものであったことを忘れてはならない。つまりこの小説は、人びとが科学やテクノロジーに託す安全性への信頼が、ときに幻想にすぎないことをわれわれに教えてくれる。とはいえ、元も子もないことをいえば、そもそも多少なりとも冒険的要素のあるSFにとって、「最先端のテクノロジー」ほど危なっかしいものはない。それはつねに「予期せぬ」アクシデントにみまわれる。安全な冒険などないのだ。

 しかし、である。このやや平凡な知見を念頭に置いたわれわれにとって、「月球」における旅は少なからず異様にうつる。なぜなら、彼らの旅はあまりに安全だからだ。玉太郎の「気球」は一度たりとも損われないし、龍孟華を除いては、だれも事故らしい事故に遭わない(龍孟華については後述する)。例外的にインド洋にあるという架空の島々をめぐって冒険する場面があるが、玉太郎らはつねに科学とテクノロジーによって完璧に守られる。原住民や野獣に襲われても、彼らはまったく歯牙にもかけないか、せいぜい圧倒的な火力でねじ伏せるだけである。たとえば、中国の南宋末期に蒙古軍からのがれた人びとの末裔が住んでいる「魚鱗国」という島で、玉太郎らは帰り際に現地の「秀才」たちに襲われるのだが、その場面は次のようになっている。

 

 魚拉伍〔一時的に同行していたイギリス人医師〕が窓にもたれて下を見ていると、とつぜん馬車から矢が何本か飛んできた。彼らが何をしたいのかはよく分からなかったが、とにかくモーゼル銃を手に打って出ようとすると、玉太郎が彼を止めて言った。「あいつらはあいつらで矢を飛ばしてるだけだ、われわれには関係ない。いまはやるべきことがある、あんな古くさい秀才どもを相手にするな。」そう言って、技師に南方へ迂回するよう言った。*13

 

 このほか、魚拉伍が獅子に腕を食いちぎられるというアクシデントがあり、おそらくこの場面で(あるいは作中で)最大の危機であるのだが、しかし彼らはまったく怯むことなく腕を取り返し、爆薬で獅子の群れを秒殺したあと、西洋医学に通じたインドの医者によってたちどころに「いつもとなんら変わらない」状態まで完璧に回復してしまう*14
『気球に乗って五週間』がそうであったように、「月球」には科学とテクノロジーへの期待と信頼が通底している*15。しかし「月球」では、それが裏切られることは決してない。そして、その限りにおいて彼らの旅は絶対的な安全を保証されるのだ。

 少し旅からは遠ざかるが、ここで「月球」と科学およびテクノロジーについてもう少し掘り下げてみよう。
「月球」において玉太郎が「気球」に乗って登場するのは第五回なのだが(玉太郎単体ではそれ以前にも登場している)、興味深いことに、それまでの四回分の間、物語はおどろくほどに悲劇的な色彩を帯びている。冒頭で龍孟華が妻とはぐれるだけではない。マレー半島へたどり着いてすぐに、龍孟華は優秀で人望厚い唐蕙良という女性と出会うのだが、彼女は登場後まもなく父を無くしてしまう。南方系の中国商人とユダヤ人宣教師らの資本をバックに、門人を率いて長江一帯で反乱をおこそうとしたのが露呈して処刑されたのだ*16。それにともなって、マレー半島に滞在していた彼の門人の一族が連座に遭って本国で皆殺しにされるなど、冒頭ではとにかく災難がつづく。そして彼らに出来ることは、せいぜい恨みを引きずるか、あるいは天を恨み、嘆くことだけである。龍孟華はしばしば酒杯を片手に月へ嘆息し、冒頭で龍孟華夫妻を助けた憂国の志士・李安武は中国を「暗黒地獄」だと断じ、不条理な世界を嘆く。

 

 蒼天よ、ああ蒼天よ! なぜお前はこんな世界をつくり上げたのだ? まさか、この世界のほかに別世界は存在しないとでもいうのだろうか?*17

 

 しかし、玉太郎(というよりむしろ「気球」)の登場によって事態は一変する。玉太郎は決して天に嘆くことはない。もっとも象徴的なのは旅の最初に立ち寄ったニューヨークから出発する場面だ。そのとき、唯一あった妻の手がかりが失われたショックで「内臓を吐き出さんばかりに」激しく吐血したあげく、自殺したいと泣き言をいい出した龍孟華へ玉太郎が次のようにいうところである。

 

    龍さん、物事を計画して進めるのは人間の仕事ですが、それがうまくいくかどうかは天次第です。ですからわれわれは出来る限りやり遂げなければなりません。天をうらんでもむだなことです[……]ましてやあなたもご存じのとおり、私の気球は汽車のように遅くはないのですから*18

 

 こうした玉太郎の世界観を支えているのは、「気球」をはじめとする自身の科学とテクノロジーへの信頼である。そして、すでに見てきたとおり、玉太郎らはテクノロジーに守られた安全な旅をつづけ、無事に妻の鳳氏のもとへとたどりつくのだが、その後すべてを取り戻した龍孟華らが宇宙へ旅立ち、いっぽうの玉太郎は宇宙へ行けずに(絶対的な技術的優位性を失ったことで)発狂することも念頭に置くと、この小説における科学やテクノロジーへのまなざしがより一層明瞭になるだろう。つまり、われわれが「月球」から読み取れるのは、人生の不条理から人間を救済するのは科学であって詩でも酒でもない。蒼天とは仰ぐものではなく、むしろ文字通り蒼天へとゆけるものだけが不条理な世界から救済されるという、一種の極端なテクノ・オプティミズムなのだ*19(それを裏づけるように、後半第30回には、李安武が中国で反乱を企てたことで政府に捕らえられるという場面がある。冒頭で世界の不条理を示す要素としてあった唐蕙良の父の死がここで反復される。しかしこの場面では、玉太郎の「気球」と塩素を用いた兵器によって、処刑されるすんでのところで救出に成功する。ここでも人間を悲劇から救い出すのは科学である。この対比はじつに印象的だ)。

 さて、話を旅へ戻そう。さきほども述べたとおり、「月球」における旅は絶対的な安全性を確保されたものであった。それは決して主観的な安心感ではない。そして「月球」の旅には、安全性に加えてもうひとつの大きな特徴がある。それは反復すること、つまり作中での旅がほとんど既知の場所へおもむくものであることだ。
 じつは、玉太郎は龍孟華らと旅立つ以前から、すでに「気球」でなんども世界各国を旅している*20。さきほど唯一冒険的であるといったインド洋の島々に関しても、「[人が住んでいる]110の島のなかでも、玉太郎が遊びに行ったことのあるのが20以上はあ」ったという*21。また、賈立元がいうように、玉太郎の「気球」は世界中を飛び回っているように見えて、じつは「つねに日本およびその[当時の]盟友である大英帝国アメリカの勢力範囲内から出ることがない」*22
 ところで、哲学者の東浩紀は、大衆消費は「反復」と深く関わっており、観光もその例外でないと述べた上で、次のように述べている。

   

ぼくは観光客をテーマに本を書きましたが、知らないところに行く探検家と、知っているところに行く観光客は根本的にちがう存在ですね。そして観光の本質は、この「すでに知っている場所に行く」というところにある。*23

 

 また、「反復」とならんで観光の本質的条件となるものに安全性があるという。「観光客は、そこが安全な場所であり、だれからも特別の配慮を求められないからこそ、自由に町を歩き、食事をし、お土産を買って買って自宅へ帰ることができる。」*24
「月球」における旅は、「気球」をはじめとする最先端の科学とテクノロジーによって絶対的な安全を約束されている。そして玉太郎にとって、ほとんどの目的地はすでに知っている場所である。要するに、「月球」の旅は『気球に乗って五週間』のような探検の旅ではなく、むしろ観光旅行というべきものなのだ(この旅には玉太郎の妻である濮玉環も同行するのだが、興味深いことに彼らはそれを「新婚旅行」だとみなしている*25)。

 とはいえ、これはあくまで「気球」の発明者である玉太郎(やその妻)にのみいえることであって、龍孟華は事情が大きく異なっている。
 たいへん興味深いことに、じつは龍孟華は、玉太郎らの旅の多くにそもそも参加していない。正確にいうと、彼は訪問先で拘束されたり折に触れて吐血・卒倒し続けたために、ほとんどの時間を「気球」や監獄、病院のなかですごすのである。
 たとえば、ニューヨークではパスポートを所持していなかったために到着直後に拘束され*26、ロンドンでも到着直後にかつて見合いでトラブルになった女性を見つけて激しく狼狽し、玉太郎に急いで「気球」へ押し戻される*27。その後ムンバイで彼の一連の体調不良や吐血癖が八股文に心臓を侵された(!)ためだと発覚し、「心臓を洗う」手術を受けるのだが*28、その結果、「月球」の旅の山場であるインド洋の島々をめぐる旅にはまったく参加せず、およそ一週間に渡って「気球」のなかで眠り続けることになる*29

 玉太郎は信頼すべき科学とテクノロジーに守られた観光客である。しかし、彼と同行しているはずの龍孟華は、大胆にいえば、その徹底した不能性ゆえにいくども世界の旅に失敗しつづける存在であるといえるだろう。(旅先でインフルエンザにかかって観光旅行を棒に振るタイプの人間だと卑近にいい換えてもいいかもしれない)では、この対比はなにを意味しうるか。

 そのためにはもうひとつの小説を読まねばならない。それは『カンディード』である。

 

カンディード』はフランスの思想家ヴォルテールが書いた小説であり、ウエストファリアに住む青年カンディードの旅を描いたものである。カンディードは家庭教師パングロスからライプニッツの「最善説」を教わり、美しい貴族の娘キュネゴンドに恋をしていた。
 しかし、そんなカンディードは、ある日キュネゴンドをめぐるトラブルから町を追われてしまい、ヨーロッパ北部や地中海から南米へいたるまで世界各地をさまよう旅に出る。その旅のなかで、彼はときに戦争に巻き込まれ、大地震に遭い、大量の宝石を手に入れるなど波乱に満ちた経験をする。同時に、旅のなかで多くの人と出会うことによって、カンディード自身には想像もつかないような悲惨なことが世の中には存在することを知ってゆく*30。そうしたなかで、カンディードは、かつてパングロスから教わった最善説を疑うようになっていく。

 

「おおパングロスよ!」とカンディードは叫んだ。「お前にはこのようなあさましいことを見抜く明がなかった。万事休すだ。とうとうわたしはお前の楽天主義を棄てねばならないのか」

楽天主義って何なんで?」とカカンボがいった。

「ああ!」とカンディードは答えた。「それは不幸な目にあってもすべては善だときちがいのようにいい張ることだ」*31

 

 そして、長い旅の果てに、カンディードはパングロスやキュネゴンドらと再会する。パングロスは梅毒にかかってやつれ果て、キュネゴンドは見るも無残なほどにかつての美貌を失っていた。しかし、それでもなおパングロスは自身の最善説を否定しない。なぜなら「個々の不幸が多ければ多いほど、すべては善」であるからだ*32

 これが『カンディード』の内容だ。一見して明らかなように、この物語は最善説の批判を目的としている。つまり、カンディードをはじめ多くの人が悲惨な経験をし、カンディード自身が最善説を疑うようになるまでのプロセスを提示することによって、この世界には「まちがい」があるということ、あるいは現実には、つねに想像を超えた悲惨な現実があるかもしれないという認識を読み手に与えようとしているということだ。東浩紀はこうした『カンディード』における試みを「思考実験としての世界旅行」と呼んだ*33

 旅によって人びとの価値観や世界観が変わること、またはその過程をフィクションのかたちで、一種の思考実験として提示すること。『カンディード』は、旅の物語のもつそのような可能性をわれわれに示している。そして、『カンディード』が最善説とその否定の対立構図を軸に、前者から後者への変化を描いていたように、「月球」はその旅の物語の中で、いくども未開と文明と対比させ、後者の卓越を描いた。
カンディードは旅によって最善説を疑い、その過程を通じて読者は世界の「まちがい」の可能性を考える。ならば、同じ「思考実験としての世界旅行」として「月球」に期待されたのは、ほかでもなく未開の象徴である龍孟華が、旅を通じて文明の卓越や未開であることの悲惨さを知り、多少なりとも文明の側へと変化するという物語だといえるだろう。じっさい、多くの人が指摘するように、玉太郎らが遭遇する架空の島々に住む架空の原住民は伝統中国を戯画化したものであり*34、こうした要素や、科学やテクノロジーを中心とする文明の強力さを描くことを通じて、作者の荒江釣叟は同時代の中国を批判しようとしていた。つまり「思考実験としての世界旅行」を通じて、読者に近代化の重要性を認識させようとしたわけだ。
 とはいえ、肝心の龍孟華には、作品の冒頭からほとんど変化がない。なんどもいってきたように、龍孟華は最初から最後まで無知蒙昧な役立たずであり、八股文による心臓疾患から回復したあとも懲りずに詩を書きつづけている。作者によるその描き方はときにかなり皮肉的だ。たとえば第23回には、龍孟華が自分の詩に夢中になるあまり尿壺を蹴倒してしまう場面がある。たまった尿が部屋中にぶちまかれて「気球」内はたちまち騒ぎになるのだが、当の本人は気にもかけずにじっくり清書推敲をし、慌ただしく処理をする玉太郎に「杜工部〔杜甫〕と比べてどうだろう?」と笑顔で問いかけるのだった*35
 旅の物語によってカンディードが変わったようには龍孟華が変わらなかったのはなぜか。それは、さきほどもいったように、龍孟華が旅をしているようでじつはあまり旅に参加していなかったからだ。とりわけ、伝統中国の縮図であったインド洋の架空の島々にほぼ立ち入っていないことは注目すべきである。読者はすぐれた思考実験としてあの探検の場面を読むだろうが、そのとき龍孟華は術後の回復を待って「気球」で眠りつづけていたのだ。この点はなんど強調してもしすぎることはない。

 

 いったん整理しよう。
『月球植民地小説』は「気球」に乗って世界を旅する物語である。「気球」の持ち主である玉太郎にとって、その旅は危険と発見にみちた冒険の旅というより、むしろ安全ですでに知っている場所へいくような観光旅行であり、その安全性は特権的な科学とテクノロジーによって保証されていた。とはいえ、「未開」の象徴である龍孟華は、その不能性ゆえに何度も旅から離脱する。その結果、彼は無事に妻と再会したものの、旅による変化も成長もなく、結局「未開」の状態に甘んじつづけることになる。そしてわれわれ読者は、このすべてを「思考実験としての世界旅行」として受け取ることになるだろう。

 玉太郎は観光客である。だが龍孟華はそうではない。龍孟華がいつまでも蒙昧で古くさくて「未開」なのは、彼が旅をしているようでじつはあまり旅をしていないからだ。これが、旅に注目して「月球」を読み解いたわれわれの、ひとまずの結論である。
 だが、すでにお気づきの方もいるだろうが、これ以上話を進めるのはいささか危険である。なぜなら、われわれは龍孟華が最後の最後で月へ旅立つことを知っているからだ。つまり、これ以上旅に関する話を進めることによって、われわれは必然的に龍孟華が宇宙を旅することによって「未開」から劇的な変化を遂げる可能性に言及せざるを得なくなる。それはそれで面白いかもしれないが、はじめにいったとおり、今回の目的はあくまで「月球」が未完であることにこそ意義があると言うことである。そのためには、ここで「月球」と旅に関する議論を終えるしかない。それはやむを得ないことだ。

 

 ## 3

 

「月球」は未完の小説である。それゆえ、そこには無数のありえたかもしれない結末の可能性が見出されることになるだろう。そして、おそらくそのほとんどが、最後に示された龍孟華らの月への「遊学」を手がかりに、物語に通底していた「未開−文明」の構造の転倒を、いわば伝統中国の文人による「宇宙」的存在への転換を前提するだろう。だが現実には小説は第35回で終了し、龍孟華はあくまで「未開」の存在のままであり続ける(厳密には、月への旅による変化が明らかにされないまま、物語が宙吊りにされる)。その理由はすでになんども述べた。
 たしかに、この小説が未完という結末を迎えたことは惜しむべきかもしれない。物語としての面白さを追求するならなおさらだ。しかし、「月球」の連載から百年以上がたったいま、われわれにとって重要なのはむしろ、この小説がかくも科学とテクノロジーの全能性を説き、文明や社会の優劣すらそれによってはかられるような世界観を提示しているにもかかわらず、その主人公*36に対しては、いわば個人のあり方として、伝統中国の価値観を保持することを許している——いや、むしろ結果的に許すことになってしまった——という点である。なぜなら、この構図は「月球」が書かれた1904年における中国の思想史的状況と見事に一致しているからだ。

 どういうことか。
 思想史家の金観濤と劉青峰によれば、日清戦争義和団事件を経た20世紀初頭の中国において、儒学がその社会や普遍性への回路を絶たれつつも、たんなる学問的関心とはべつの「私徳」として、いわば個人のありかたとして居場所を確保しえた時代が、新文化運動までの十数年のあいだだけ存在したという。

 

    厳復が『天演論』を翻訳した直接的な動機のひとつは、道徳が時代とともに進化するということを証明することだった。しかしながら、1900年以後の知識人の多くは進化論を社会制度や宇宙的秩序に限定し、個人の道徳や家庭の倫理までには広げなかった。つまり、1900年から1915年のあいだ、科学一元論は不完全さを強いられ、道徳と宇宙がふたつの異なる領域に分断されたのだ。*37

 

 結論へ急ぐまえに、金観濤らの議論を簡単に整理しておこう。
金らによれば、中国の伝統社会の特質とは、個人や家族から皇帝へ至るあらゆる社会組織や政治的権力が儒家思想というひとつの統一的なイデオロギーによって基礎づけられていること、もっと本質的にいえば「社会の制度と道徳的理想が同一化している」ことである*38。彼らはこれを念頭に置きつつ、これを補強する役割を果たしていた儒家の道徳論を「天人合一(普遍的な「天」の道徳性を社会や個人へ演繹するかたちで道徳を説く)」モデルと「道徳価値一元論(個人に宿る道徳性を起点に、社会や国家を語る)」モデルの二つに分類している*39。とはいえ、いずれにせよ重要なのは、個人の道徳的な向上がそのまま社会の/での向上へと直結する(少なくともその可能性がある)と考えられていたことであって、その点ではどちらのモデルも同じである*40
 とはいえ、中国社会のこのような社会構造は、外来的な要因によってしばしば危機に瀕している。具体的には魏晋南北朝期(天災や異民族の侵入、それから仏教伝来)と清末民初(西洋文明あるいは日本の衝撃など)がそれであり、さきほど引用した『中国近代思想の起源』における問題意識は、おおよそ両者の比較を通じて、社会組織と一体化したイデオロギーの危機・解体と再構築のプロセスに一定の法則性を見出そうとするものだ。その法則とはすなわち、儒家思想の道徳性と社会の/での向上が一致しなくなったとき、はじめは道徳への強い拒否感が生じることで外来思想が儒家思想のアンチテーゼとして導入されるが、儒家思想が完全に否定されてしまうと、やがてそれに代わって社会組織と一体化しうる「道徳」が要請されるため、結局「天人合一」モデルか「道徳価値一元論」モデルの構造を持つ思想が選択的に受容され影響力を持ち始めるようになるというものだ*41
 以上の観点をもとに宋明理学の形成や近代中国の思想的挑戦を論じてゆく金らの議論はたいへん興味深いものだが、ここではさきほど引用した箇所に関わる部分だけ紹介しよう。よくいわれるように、清末の中国で最大の衝撃は(アヘン戦争などではなく)日清戦争の敗北であった。それはたんに伝統的な価値観における「夷狄」への敗北というだけでなく、李鴻章曾国藩らを中心に、19世紀後半にわたって推進された洋務運動の失敗を意味するものでもあった。
 こうして儒学と一体化した社会構築そのものに疑念が生じた結果、儒学打ち砕くためのアンチテーゼとして導入されたのがマルクス主義的な唯物論と社会ダーウィニズムだった。ところが、きわめて重要なことに、ヨーロッパではほぼ同時に誕生した両者だが、じつは中国への受容には15年ほどの隔たりがある。つまり、厳復によって『天演論』が翻訳されたのは1898年だが、マルクス主義の翻訳は新文化運動が活発化する1915年以後を待たねばならない。そして、金観濤らは受容のずれによって偶然生じた十数年における儒学の特殊な状態——「儒家の倫理と社会の制度を相互に無関係なふたつの領域に分断し」、「儒学を私的な生活空間まで退却させ、一切の公共的な領域では近代的な価値観を採用した」——を「二元論の儒学」と呼んだ*42。そして「月球」は、ほかでもなく「二元論の儒学」の時代に書かれた小説だったのである。

 すでに見てきたように、「月球」は科学が完全勝利を収めた世界で、伝統中国の価値観を引きずる文人が、みじめながらも伝統的な文人として生き続ける小説である。いや、ほんとうは月への旅で変われたのかもしれない。もはや社会の/での向上をこれっぽっちも約束してくれなくなった伝統的な価値観を、宇宙の彼方へ投げ捨てることができたのかもしれない。しかし彼はそうはしなかった。いや、結果的にしないままに終わってしまった。なぜなら小説が未完に終わったからだ。
「未完」ということばほど可能性への想像をかきたてるものはない。だが、それでもなお、龍孟華がみじめな文人のまま終わってしまったこの結末こそ、およそありうべき最善でただひとつの結末だと断言したい。なぜなら、「月球植民地小説」はこのアクシデンタルな幕切れによって、またおそらく書き手の意図に反して、中国の思想史上じつに稀有な「二元論の儒学」の時代をこれ以上になく象徴する小説となってしまったからだ。

 

 

*1:叶永烈“中国科幻小说发展简史”,叶永烈主编《大人国(中国科幻小说世纪回眸 第一卷)》,福建少年儿童出版社,1999年,第3页。

*2:同上,第6页。本稿では同書に収録された版を「月球」の底本とする。そのため、以後「月球」に関連して提示するページ番号もまた、同書にしたがうものとする。

*3:贾立元“晚清科幻小说中的殖民叙事——以《月球殖民地小说》为例”,《文学评论》2016年05期,第118页。

*4:《月球》,第35页。

*5:《月球》,第24页。

*6:《月球》,第167页。

*7:贾,2016年,第124页。

*8:同上,第118页。

*9:叶,1999年,第6页。

*10:《月球》,第21页。

*11:ジュール・ヴェルヌ『気球に乗って五週間』、手塚伸一訳、集英社、1993年、(Kindle版)、第2章第8段落。

*12:同上、第3章第64-66段落。強調筆者。

*13:《月球》,第78页。

*14:同上,第85-88页。

*15:同上,第28页。

*16:同上,第14页。

*17:同上,第8页。

*18:同上,第38页。強調筆者。

*19:本文では詳しく触れないが、「月球」における科学へのまなざしを如実にあらわす特徴として、およそ作中に登場する科学的意匠に対して、その技術的細部が描かれないという点が挙げられる。「気球」も内装の描写こそされるものの、『気球に乗って五週間』に見られたような素材や設計、作動原理についての説明はない。同様に、西洋医のあらゆる治療行為には「薬水」なる謎めいた万能の道具が登場するが、これも具体的にどのようなものなのかまったく明かされない。まるで「細かいことは何だかよくわからないけれど、とにかく科学はすごいんだ」とでも言いたげなこの態度は、あるいは西洋の科学とテクノロジーへの恐れの裏返しであると言えるかもしれない。とはいえ、この点について掘り下げるのは本稿の問題を越えている。いずれにせよ、本稿でオプティミズムと言っているのは、こうした点にもかかわっている。

*20:同上,第46页。

*21:同上,第62页。

*22:贾,2016年,第120页。

*23:佐藤大、さやわか、東浩紀サイバーパンクに未来はあるか」、東浩紀編『ゲンロン7』、ゲンロン、2017年、238頁。

*24:東「ダークツーリズム以後の世界」、『ゲンロン3』、ゲンロン、2016年、19頁。

*25:《月球》,第30页。

*26:同上,第31页。

*27:同上,第39页。

*28:同上,第55页。

*29:お同上,第60页。

*30:この小説に登場する人物はおしなべて悲惨な目にあっている。そして重要なことに、彼らは腹を割かれようが絞首刑にされようが決して死ぬことはない。なぜなら、生き残ったものだけが「世界が最善である」ことを疑えるからだ。

*31:ヴォルテールカンディード』、吉村正一郎訳、岩波文庫、1956年、98頁。

*32:同上、29頁。

*33:東『ゲンロン0 観光客の哲学』、ゲンロン、2017年、73頁。

*34:邹小娟:“二十世纪初中国“科幻”小说中的西方形象——以荒江钓叟《月球殖民地小说》为中心”,《海南师范大学学报》2013年02期,第25页。

*35:《月球》,第117页以下。

*36:玉太郎と龍孟華のどちらが主人公かというのはじつに難しい問題だが、おそらくどちらもというのがもっとも穏当な考えだろう。

*37:金观涛、刘青峰《中国现代思想的起源:超稳定结构与中国政治文化的演变》,法律出版社,2011年,第326页。

*38:同上,第15页以下。

*39:同上,第20页

*40:フランスの哲学者フランソワ・ジュリアンは、孟子についてこのように語っている。「孟子にとってこの道徳的な要請は、見てきたように、この世界で勝利を収める最善の方法であり、世俗的な幸福をもたらす「転ばぬ先の杖」にほかならない」。フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』、講談社学術文庫、2017年。

*41:金、刘,2011年,第47页。

*42:同上,第212页。