暁命堂雑記

ときどき書きます。

文庫

※「〳〵」は繰り返し記号です。

 

 

 

  とある林の中、小さな石でじやり〳〵した徑の突當りに舊い洋館が有つた。今はたれも住んでゐない。いまは博物館となつてゐる其處は、何だかハイカラであり乍ら閑然としてをり、コツテエヂなんぞと云ふより寧ろ洋館と云ふのが餘程好いやうに思はれた。硝子の嵌つた白い扉は、浅葱色の木枠で田の字に劃られてゐた。其の扉の真中に附いた靑銅の握りは、手垢で磨かれてぴか〳〵してゐた。余は戸をぎいと引いて中に這入つた。

 余が窗口へ徃つて學藝員らしき赤い縁の眼鏡を掛けた女に一言名乗ると、女は好ござんす、お這入りなさいと云つて席を立つた。此洋館はのべつひつそりとしてゐて、客は殆どゐないのが常であつた。元の持主も分からなければ、何と云ふ名前の博物館なのかも分からぬ。只はう〴〵から此處へ來る纔かな客から聞いた處に拠ると、だうやら此處はひと〴〵の閒で文庫と呼ばれてゐるやうだつた。何故文庫なのか、其れはたれにも分からない。文庫の窗口が有る狭い玄関から伸びる細い廊下には、小さな燭台が點點と竝んであるのみで盆槍と薄暗かつた。此處からだと、突當りの白い壁が何とか彼とか見える許りであつた。女は珈琲の香りをぷん〳〵と漂はせ乍ら余の前に立つて、案内して差上げませうかと云つた。

 余は女の後に从つて廊下を進み、階段を上つた。階段には赤い絨毯が敷かれてをり、手摺はぴか〳〵の靑銅である。女は足音を立てずにする〳〵と進んだ。余も亦音を立てないやうに、さうして急ぎ足に女に附いて徃つた。

 余は一層暗い廣閒に出た。床は絨毯から焦茶色の木板に變はり、廣閒を圍繞するやうに絵畫や甲冑が展示されてゐた。展示物は皆透明の壁を隔てた五尺許り先に有つた。余は狩野派らしい金ぴかの絵の前に立つた。落款は柳雪匡信で、春と冬との山水が描かれてゐた。春を觀た。余は迢迢たる高天に碧めく山樹を望み、習習たる微風に波たつ湖水を眺めた。湖水の上にはたれもゐない。湖畔に一本立つ樹には花が咲いてゐるが、何の花かは能く分からない。雲雀が啼いてゐた。つがいは、頭上をさつと翔けて何處か遠くへ消えて了つた。溜息が喧しい位に聞こえた。

 「あそこに咲いてゐるのは、何の花だらう」余が云つた。

 「なんでせう、分かりませんわ」女は應へた。さうして、甲冑をじつと見た後、音も無く何處かへ去つて了つた。余は焦茶の上を去るとも無く低徊して、湖水を眺めてゐた。水面には丹頂が二羽佇んでゐた。余はふと、嘗て湘君が沈んだ洞庭の水は丁度此んな按排だつたかしらんと思つた。美女であらうが月竝であらうが、入水は何人にも無条件の美を授けるのでは無いだらうか。無爲にして彼處に浮かぶ者は、全て之信仰すべき美を孕む者と爲るやうに思はれた。余は、余が俯せになつて水を抱締めるやうに湖に抱かれる姿を想像した。何だかぷか〳〵して樂しさうである。然し浮かぶのが余では畫にならぬやうであつた。だうせなら浮かべ甲斐のあるものが好い。とは云へ湖水には、釣翁はおろか、なんぴとも浮かんでゐなかつた。水面は鏡のやうにぴんと張詰めてゐた。花が全て落ちた例の樹はごつ〳〵して湖面と竝行に伸びてをり、何だか松のやうにも見えたが、然し花は松の其れでは無かつた。其れでも幹に雪を載せてくね〳〵とする姿は、矢張り松みたいだつた。湖水を看ると、其の上邊には小さな雪波紋がぽつ〳〵と出来てゐて、鏡ではなかつた。空は何時の閒にか、もく〳〵とした雲に蓋はれてゐた。雪は滾滾と降つてゐた。傍らの樹が何なのか、其れはまうだうでも好い事のやうな気がした。仮令春には松で無くとも、花が違つても、まう此の樹は松で好いのでは無いだらうか。

 「わたし、きれいでして?」女が卒然として余の左の耳元で囁いた。女の鼻から出る細い息が余の頬を冷え〴〵となぞつた。さうして何か無機質の冷たい物が首筋に触つてぞつとした。余は何も答へなかつた。

 「わたし、きれいでして?」まう一度訊いた。女の鼻から出る細い息に余は冷え〴〵とした。金屬らしき物が首筋に触つた。ぞつとした。何も答へなかつた。

 「わたし貴方の爲に女神になつて差上げますわ、見て下すつて?」

 「あの樹は何だらう。」

 「貴方、随分と優柔不斷なこと。」

 「さうなのかな。」

 「兎に角ちやんと見てゐて下さいね。」

女はさう云つて、湖の中へざぶ〳〵と這入つて了つた。丹頂がばた〳〵と飛び去つた。水は女の膝を隠し、腰を隠し、胸を隠し、たう〳〵全て隠して了つた。女は一度も振り返らなかつた。

 余は、女がだうやつて女神に爲るのだらうと水面を凝視してゐた。然し女は何時まで経つても出て來なかつた。惘然と立つてゐると、背後で何か声がした。彼の女の聲ではない。余は振り返らなかつた。亦変な声がした。遅くなつたと云つてゐた。そして右肩をとん〳〵叩かれた。余はまだ振り返らなかつた。