暁命堂雑記

ときどき書きます。

「野球」という訳語について

甲子園の中継を漫然と流していた昼下がり、ふと baseball を「野球」とするのはあまりよい翻訳ではないんじゃないかと思った。というのも、屋外でフィールド=「野」を必要とするすべての球技は原理的に「野球」になるはずだから。

他方原語の baseball は、ある意味すごろくのように選手が塁間を進む(のを阻止する)という野球の特徴を、じつにうまくとらえた表現になっている。じゃあなんで「塁球」にならなかったんだろう?

そこでなんとなく Wikipedia をみると、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)なる人物がはじめて「野球」と訳したらしい。で、「塁球」はソフトボールを指すとのこと。

中馬庚 - Wikipedia

中馬は「底球」という従来の訳語がテニス=「庭球」とまぎらわしいことから、1894年に「ball in the field」なる言い回しをもとに「野球」と名づけたそう。やはり「野」はフィールドだった。

ちなみにショートを「遊撃手」と訳したのもこのひとらしい。こちらはおしゃれなのに的確な意訳という、なかなかすごい訳業である。

いまからみれば「野球」という訳語は、まるでこのスポーツが屋外の球技を一身に背負っているかのような印象を抱かせる。偶然か必然か、それは後の日本で野球がやたらにメジャーな球技となっていることと符合しているが、おそらく実情としては、当時の日本では屋外の球技がそれほど多くなかったことが背景にあるのだろう。

興業としての社会的地位を考えれば、いまさら訳語を変えるのはさすがに無理な話ではある(文学や哲学の用語でもないわけだし)。けれども、これが訳語である以上、べつの表現の可能性を考えてみるのは重要な言葉のエクササイズであるはずだ。

そこでまず注目したいのが、中国語の「棒球」という訳語。ぼくはこれも訳語としては微妙だと思っている。まず打撃に焦点を当てすぎている。そのうえ、ビリヤード——日本語では「撞球」、中国語では「台球」——と混同するリスクもある。じっさい、中国語をまったく知らない多くの日本人からすれば、「棒球」はビリヤードを、「台球」は卓球を意味するように見えるかもしれない。

とはいえ、個人的には「野球」より「棒球」のほうがましな翻訳だと思う。それはなによりまず、「棒球」のほうがより特徴をとらえられているからだけれども、「野」という漢字の問題もある。

この語は、むろん名詞としては中立的な意味をもつわけだが、形容詞的には粗野なことや野蛮なこと、あるいはがさつなことを意味する場合がある。たとえば「野哉由也」(がさつだね、由は)という孔子の発言がその一例(『論語子路第十三)。こうした文脈において、「野」は相当にネガティブな意味を帯びる。ちなみにこうした「野」と対をなすのが「文」、つまり文明の「文」である。

要するに、「野球」が「野原の球技」を意味するのは明らかではあるけれど、漢字の性質上、「『野』な球技」を意味するようにも見えてしまう。あくまで推測だけれども、近代以来多くの造語を日本語から輸入してきた中国語において、「野球」がその例外となったひとつの原因がここにあるように思う。

もちろん、かと言っていまさら訳語を変えるのも不可能なことはすでに言ったとおりだし、ぼく自身はほぼ野球と無縁の生活をしている。なので結局のところ、あまり気にせず生きていくしかないというしかないだろう。