暁命堂雑記

ときどき書きます。

詩人

 先日ある授業を受けていた折に、先生が突然李白になった。少し虚ろな目になりながら彼方此方を歩き回っては頻りに長吟している。柳の様な二束の口髯をしくしくと情けなく垂らし、それぞれが歌に合わせて根元からわさわさと揺れ動いていた。三盃通大道、一斗合自然と中国語で言いながら僕の横を通った時、次は何だっけなと考えていたら、どんと僕の席を叩いて「君、それじゃいかん、風雅の道に逍遥こうではないか」と言った。声も無くぼんやりながめていると、忽ち髯を上下に振り、続きを歌いながら教室を出てしまった。

 月が好かったので、寮の屋上で酒を飲むことにした。空気は冷冽として僕の皮膚をちくちくと刺した。透明な白酒の中に、円くて皓い月がゆらゆらと揺れている。少しばかり風雅の道にぶらつこうと思って、君と長吟してみた。何となく後は続かなかった。

 杯の中に月が無くなったので、二杯目を接いだ。また月がきれいに出てきた。何だか大きくなっている気がした。杯を上下に振りながら花間一壺酒と言って見ると、やけに楽しくなってきた。僕は酒の泡沫をのべつ幕無しぺんぺん飛ばしながら矢鱈に長吟した。月がさかずき一杯に広がってきた時、寮友が上がって来て、夜中に歌うのはよせと言って来た。僕は無視して三杯目を接ぎ、また君と声を響かせた。

 黄河之水天上来と言った時、急に頭から水を浴びたような気になって身震いをした。辺りも随分濡れている様に見えた。杯の中には小さな波紋が且つ生じ且つ消えながら月をもみくちゃにしていた。雨、と思って天を仰いだ時、月はもう空一杯に広がっていて、僕が月だと思って見ていたものが実は空だった事を知った。

 月の様な色の空は迢迢として果てしなく、盆槍と明るくて何だか夜か朝かも分からぬ按排であった。遠くの方まで絶巘が連連としていて、上の方は岩ばかりで厳めしかったが、麓へ目を遣ると、ところどころに樹が生えていた。河が流れている。本当は大きいのかもしれないが、そこから見ると潺湲と流れる小川に一般であった。暫くの間、少し虚ろな目をしながらそこを去るともなく低徊しては、遠くを眺め遣って酒を飲んだ。すると何だか世の中に僕一人しかいないような気がして随分と楽しくなった。杯を干し、目を閉じて君と声を伸ばすと、何処までも響いて行くらしかった。声が随分と遠くなったので目を開けると、鼻の下辺りから二筋の髯がしくしくと情けなく胸の辺りにまで垂れているのが見えてぎょっとした。風が吹いて、髯は俄かに紡錘形に広がった。

翌朝目が醒めると、酷い寒気と頭痛がした。雨は降り続けている。褥にくるまっていると、寮友が粥を持って来た。僕は寝返りを打って背を向けたまま、何時までも狸寝入りをしてやまなかった。