暁命堂雑記

ときどき書きます。

 余は石だらけの土手のやうな處を歩いてゐた。夜である。ぢやり〳〵と歩きながら、余は何やら考へ事をしてゐた。凡そ世のくさ〴〵の美は、形式美と内容美とに別れると云ふ者があるが、そんな事はない。よしんば別れた處で、それが、騎士の持つ剣と楯とのやうに別れたまま物體の性質となることなんぞある筈が無い。余はずん〳〵道を歩いてゐた。

 真黑な空の中に滿月が出てゐて、その下をつがいの鳥が飛んでゐた。道には余の他には誰もゐないし、左手には月に照らされて、遠く見えなくなる位迄河が廣がつてゐた。風は、反對側の遠い山脈の彼方から吹き下りて來る樣だつた。

 余の考へてゐたのは何も難しい事では無い。美しいものを畫なり詩なりに描いても、腕が悪ければ醜くなる。筆を知らぬものに新粧に倚る飛燕を畫かしめた處で、その美が市井の婦女にも及ばないのは當然だし、詩の韻律や言葉を誤れば、矢張り中身も外身も遺憾無き月竝の面目を露呈して了ふに違ひない。余は段段いら〳〵して來た。

 相變はらず明月は河に入りて两鳥は還り、斜風は地に接して一途は曠しい樣であつた。山は圓い木の一本〳〵が白い光に映じて奇麗だつた。道は、どこまでも果てる事のないやうに思はれた。河が潺湲と流れてゐた。水はさら〳〵と美しい音を立てた。余は、目を閉じていつまでも河の音を聽いてゐやうと思つた。

 つまり、形式美と内容美とは、互いに獨立するものでは無く、寧ろ渾然一體となつてゐるのである。その交はりが複雑なのだから、時時どちらか片一方しか見えなくなつて了ふのである。例へば小説なんてだうだ、今や讀む者は殆どが内容美ばかり見て、外側はまるで無視してゐるでは無いか。余は更にぷん〳〵腹を立てた。この雙つの美は、少くとも互いに妙合せねばならぬ。美はごちや混ぜなのだ、さうに違ひ無い。

 そこ迄考へた時、突然目の前に大きな男が現れた。と云ふより寧ろ、余はぶつかりさうになるまで男に気付かなかつたのである。男は余をぬうと見下ろして「ぢやあ、澤山混ぜてみやう」と云つて、早足で何處かへ歩き出した。余は、はつとしたが、そのまま男に附いて徃つた。

 間も無く、余等は土手の下にある古びた饂飩屋に着いた。饂飩屋の中は狭かつたが、奥行きが妙にあつた。窗から差し込む斜光も縷縷として頼無く、天井にぽつんと提灯のやうな明かりがめら〳〵と燃えてゐるだけで何となく陰氣であつた。机も長くて白いのが雙つ竝んでゐた許りで、奥の厨房には例の男とまう一人別の男が彼方此方動き廻つてゐた。余が坐つた斜向かひには、見知らぬ老人が白い鬢を口や顎の鬚と繋げてもぢや〳〵とさせてゐた。老人が厠に立つた後で、余はがちや〳〵と騒がしい厨房に向かつて月見饂飩を所望した。

 饂飩が來た。しかし例の男が持つて來て、余が饂飩だと思つたのは、白い丼に這入つた卵かけ御飯だつた。湯気を上げる白米の上で卵がぷる〳〵と搖れてゐた。ただ、机に醤油が無かつたので余は随分弱つて了つた。手を叩いて醤油、醤油と云ふと、あの變な男と同じ顏付をしたまう一人の別の男が、老人の卵御飯と一緒に醤油を持つて來た。余が醤油をかけてゐると、老人が帰つて來た。老人は雙つの眉をぴく〳〵とさせたが、直ぐに醤油をかけ始めた。

 御飯は卵と好く混ざり、米の圓い粒粒は一つ〳〵が陸離として琥珀のやうであつた。箸を差込むと、米はもす〳〵と音を立てヽ離れ、中からぼわ〳〵と湯気が現れた。絶妙な温度と、醤油の香ばしさが堪らなくて、余は忽ち丼一杯を平らげた。丼の底には二匹の黃色い蛇の姿が描かれてあつた。時を同じくして老人もまた平らげたやうで、余等は滿足げな表情を浮かべながら同時にとんと丼で机を突いた。

 ところが、丼の中には湯気を上げる白米がびつしり這入つてゐて、矢張りその上に卵がぷる〳〵と搖れてゐたのである。老人は瞠目しては頻りに汗を拭いてゐた。余は水を二杯飲んで、それからかつと括目してみたが、矢張り卵は搖れ續けてゐた。余等は再び醤油をかけて、陸離とした卵御飯を食べた。味は變はらなかつたが、かなり苦しかつた。一杯目の倍程の時間を掛けて、漸く丼を平らげた。矢張り底には黃色い蛇が二匹ゐた。ちり紙で口邊の卵を拭き取りながら老人を見ると、彼もまた安堵した表情で口を拭きながらこちらを見てゐた。老人の鬚は卵でべた〳〵してゐた。

 だが一息ついて丼を見てみると、中にはまた白米がもり〳〵と積もつてゐて、窗から入る真白な斜光に復た照らされた卵が黄色いまヽで悠悠とその上を動き囘つてゐたのである。厨房はがちや〳〵してゐた。余は頻りに汗を拭きながら老人の方を見た。老人は愕然として、顎の位置が定まらない樣子であつた。その後余等は何度醤油に手を伸ばしたか知れない。白い机には、卵で出來た丼の底の跡が無數に附いてゐた。鬚が卵だらけになつた老人は、軈てあう〳〵と聲ならぬ聲を上げながら椅子から轉げ落ち、そのまま厠までばた〳〵と這つて徃つた。

 醤油を手に持つて、だうしやうと思案してゐると、がちや〳〵してゐた厨房が突然森閑として、物音一つしなくなつた。厨房の方を見ると、二人の男はきつと首を廻して、此方を凝視して來た。強い視線に割れて了ひさうな氣持ちがしたので、余は慌てヽ目を反らした。すると俄かにかたつと云ふ音がして、男が一人厨房の彼方からばた〳〵と驅けて來た。目や服や手が黄色いやうな濁つた變な色をしてゐた。余は思はず卵御飯の這入つた白い丼をひつくり返して、底を上にして置いた。底にも蛇がゐた。余は底を上から两手で抑えた儘、だうにも動けなくなつてしまつた。

 

詩人

 先日ある授業を受けていた折に、先生が突然李白になった。少し虚ろな目になりながら彼方此方を歩き回っては頻りに長吟している。柳の様な二束の口髯をしくしくと情けなく垂らし、それぞれが歌に合わせて根元からわさわさと揺れ動いていた。三盃通大道、一斗合自然と中国語で言いながら僕の横を通った時、次は何だっけなと考えていたら、どんと僕の席を叩いて「君、それじゃいかん、風雅の道に逍遥こうではないか」と言った。声も無くぼんやりながめていると、忽ち髯を上下に振り、続きを歌いながら教室を出てしまった。

 月が好かったので、寮の屋上で酒を飲むことにした。空気は冷冽として僕の皮膚をちくちくと刺した。透明な白酒の中に、円くて皓い月がゆらゆらと揺れている。少しばかり風雅の道にぶらつこうと思って、君と長吟してみた。何となく後は続かなかった。

 杯の中に月が無くなったので、二杯目を接いだ。また月がきれいに出てきた。何だか大きくなっている気がした。杯を上下に振りながら花間一壺酒と言って見ると、やけに楽しくなってきた。僕は酒の泡沫をのべつ幕無しぺんぺん飛ばしながら矢鱈に長吟した。月がさかずき一杯に広がってきた時、寮友が上がって来て、夜中に歌うのはよせと言って来た。僕は無視して三杯目を接ぎ、また君と声を響かせた。

 黄河之水天上来と言った時、急に頭から水を浴びたような気になって身震いをした。辺りも随分濡れている様に見えた。杯の中には小さな波紋が且つ生じ且つ消えながら月をもみくちゃにしていた。雨、と思って天を仰いだ時、月はもう空一杯に広がっていて、僕が月だと思って見ていたものが実は空だった事を知った。

 月の様な色の空は迢迢として果てしなく、盆槍と明るくて何だか夜か朝かも分からぬ按排であった。遠くの方まで絶巘が連連としていて、上の方は岩ばかりで厳めしかったが、麓へ目を遣ると、ところどころに樹が生えていた。河が流れている。本当は大きいのかもしれないが、そこから見ると潺湲と流れる小川に一般であった。暫くの間、少し虚ろな目をしながらそこを去るともなく低徊しては、遠くを眺め遣って酒を飲んだ。すると何だか世の中に僕一人しかいないような気がして随分と楽しくなった。杯を干し、目を閉じて君と声を伸ばすと、何処までも響いて行くらしかった。声が随分と遠くなったので目を開けると、鼻の下辺りから二筋の髯がしくしくと情けなく胸の辺りにまで垂れているのが見えてぎょっとした。風が吹いて、髯は俄かに紡錘形に広がった。

翌朝目が醒めると、酷い寒気と頭痛がした。雨は降り続けている。褥にくるまっていると、寮友が粥を持って来た。僕は寝返りを打って背を向けたまま、何時までも狸寝入りをしてやまなかった。

 

電氣

 寮の六畳の自室に歸つて外套を脱ぐと、奥の窗際にある寐床の上に見知らぬ女が獨り寐てゐた。茶地に黑い猫と其の足跡が無數に描かれた掛布團をすつぽりと被りながらじつとこちらを見てゐた。邊りがまう随分と暗くなつてゐるために薄盆槍としてゐるが、然し相當に日焼けしてゐるやうで、一見するに何處に眼が有るのかがはつきりしなかつた。布團の下には肩が露わになつてをり、服を着てゐないのだらうかと思つた。私は女性用の服を所持してゐないので、だうしたものかと困惑した。「きみ、窗を開けてゐて寒くはないかね」と私は云つた。部屋の窗は網戸になつてゐて、先程から黃色い窗掛けがやけにふわ〳〵してゐるのである。外套を右腕に掛けた儘、私は窗の方へ徃き、女の上を橋のやうに伸びあがつて、寐床の奥の窗を閉めた。「布團があるですので、寒さは、大丈夫です。」と女は布團の中をかさ〳〵と動きながら云つた。

 外套を掛けて椅子に座つた時、やつと部屋が真暗な事に氣附いた。私が電氣をつけねばと思つた時、女が突然「それはいけませんです」と云つた。オヤだうしてだねと訊くと、たゞ「電氣はいけませんです」と云ふのみであつた。見ると、矢張り同じやうに女は布團を被りながら私を見てゐた。私が布團に這入つても、女は私を見續けてゐた。

 突然降り出した雨が窗を叩き、泡沫となつて雨樋をだら〳〵と流れて徃つた。窗から見える大きな樹はびつしょりと濡れてぐつたりとしてゐた。私は睡郷へと赴きかけたものゝ、女は中中眠らうとしない。眠らぬのかと云つても「夜だと眼が冴えて了ふのです。」と云ふばかりである。さう云はれると私もなぜか急に寐附けなくなつて了つたので、何か物を食べやうと云つて布團を出た。女も附いて出て來た。私は何か食べたひ物はあるかと云つたが、食べる物は大して何もなかつた。冷蔵庫にだつて何もなかつたが、私は中を探すふりをした。すると女はがさ〳〵と音を立てゝ何處かへ徃き始めた。何だと思つて見ると、女は小さな尻をこちらに向けながら――そして何故かその尻もこんがりと日焼けしてゐた――赤子のやうに這つて部屋の出口に向かつてゐた。「出ちやいかん、この時間帯寮内は女性立入り禁止なんだ」と云つたが、然し女は出やうとしてゐた譯ではないやうだつた。見ると、女は扉の脇に置いてある茶色い小さなごみ箱を見下ろして、俄かにそれを漁り出した。私は突然目前で堂堂と昔の日記を盗み見られたやうな心地がして、慌てゝ「それはごみ箱だから、食べられるものは無いよ」と諭した。女は「私、嫌いな物はありませんです。」と云つた。さうか、それは好い心掛けだと私は納得したが、然しごみ箱を漁られるのには閉口したので、女をごみ箱から離して、たま〳〵あつたどら焼きを食べる事にした。どら焼きはこんがりとした焦げ茶色で柔らかく、糖分の多い表皮は明かりの少ない部屋の中にあつてもつや〳〵としてゐた。女は私の前で膝を前に出して座り、矢印のやうに两脚を左右に投げ出した格好をしてゐた。女は两手でどら焼きを持つてもそ〳〵と少しづゝ食べてゐたが、一口齧る度に五分ばかりは咀嚼して食べた。食べてゐる處を私に見られるのが堪らなく厭なやうで、極端に前かゞみになりながら、これまた確り日焼けした首を私に向けて、私の見えない處で食べやうとしてゐた。随分と辛さうだつたので、私は部屋の扉の方を向いてやる事にした。

 然し女が何時までたつても食べ終わらうとしないので、私は段段薄氣味惡くなつて來た。まう一時間はたつたやうな氣がした。どら焼きを食べるのに一時間もかかる筈がない。だが、私が食べ終わつたかと訊いても「まだです。」と云ふばかりで、またもそ〳〵と食べ始めるのであつた。私は何だか怖くなつて來た。一刻も早くこの女を置いて何處かへ逃げないといけないと感じた。後ろからは、相變はらずもそ〳〵と音がする。私が逃げ出さうと氣を固めた時、女は「電氣はいけませんです」と云つた。さうだ、電氣を附けてやらう、電氣を附けて、急いでたれかの部屋へ避難すれば好い。私はさう思つて、女が何やらごによ〳〵と騒ぐのも無視して扉の左の壁に附いてゐる電氣のボタンを押した。

 「ちくしやう、この野郎」と云ふ聲がしたが、驚いた事に振り返つた先に女はゐなかつた。やがて欠けたどら焼きの下から一匹の雌が這い出して、私の两脚の下を潜り抜けて、一目散にかさ〳〵と扉の下の小さな隙間を通つて、何處かへ消えて了つた。

鹿

 紂王が球琳金華に偃蹇たる煙火の裡に塵埃となった爲に、人間は忽ち周の世になつた。雪谿の既に溶けて了つた春先の事である。革命の知らせを受けた兄弟はいそぎも懇ろにせず、須臾のうちに軀に七穴を開けむばかりの勢いで胸裡に膨れ上がらむとする正義を抱へたまゝ、棲家を飛び出した。二人は康衢の好奇の眼も顧みず、糊口の憂慮の念も催さないで千里も一日と驅けに驅け抜いて、たう〳〵或る日の夕刻首陽山へ辿り附いた。

 周は不義の國であつた。周の文王は殷によつて西伯に任ぜられた。つまり周は殷の諸侯であつた。諸侯でありながら主君を殺すのは不義の至りである。加之、文王の子武王は、父の葬儀も丁重にせぬ内に文王の威光を頼りて紂王を誅した。此れもまた不孝の極みである。此處に於いて、兄弟は周の粟を食らふを好しとせず、二人して山中に逃げたのであつた。

 ざく〳〵と一刻ばかり只管石径の斜めなるを歩き續けた二人は、少し戸惑つてゐた。邊りに食べられさうな物が絶へて無かつたのである。天は宵に近い。首陽まで驅け續けた肉體は疲弊し、喉も渇いてゐた。邊りに生えてゐたのは、東月の斜光に些か燦燦として照る靑苔か、何だかよく分からぬ背の高い針葉樹位であつた。それから、それから石も澤山あつた。弟は團子の樣に圓圓とした石を拾つて盆槍然と眺めてみたが、やがて杳然とした深林の奥目がけて投げ捨てゝ了つた。

 ぼちやと云ふ音がした。弟は目を瞠つて、くらい林の奥を覗き込んでみた。まう一度投げ込んでみると、矢張りぼちやと云ふ音がした。邊りが暗いのもあるが、木木の先に何が有るかは絶へて分からぬのであつた。とは云へ、此の先には水があるに違ひなかつた。二人は欣喜して、互ひに慫慂し合ひつゝ林間を走つた。

 間も無く木木が無くなつて、湖に辿り着いた。暗中目測に堪へぬの感はあるが、せい〴〵奥行十間足らずの樣だつた。二人は岸にこゞんで、がぶ〳〵と水を飲み始めた。枯渇した身に這入る清水ほど美味いものは無い。美味いよ兄貴なんぞと云ひながら、二人は何時までも飲み續けた。

 昧爽岸邊で醒めた二人は、自身の更に幸運なるを悟つた。昨晩は水を得た喜びと暗さと疲勞とで氣附かなかつたが、二人の目前に一軒の蝸牛廬があつたのである。人のゐる氣配は無い。戸口には蓁蓁と薇が生えてゐるのが見えた。すでに廬を結ぶ手間も無くなつた。飲食の心配も無い。此處でかうして細細と隠遁しておけば、市井では兄弟が義士として人口に膾炙し、あはよくば來者の傳へ聽く處の者となつて徃くのでは無いだらうか。二人はそんな事を考へながら薇を二三束むしり取つて中へ這入つた。

 外から足音がするのを聞いて、二人は薇を齧る手を止めた。外を見ると、一人の老婆が此方へ向かつて歩いて來てゐた。老婆は背が圓く非道く尖つた眼をしてをり、くすんだ黃綠の襤褸を着てゐたが、それは黃綠と云ふより寧ろ全ての色を混ぜて水で薄めた樣な下品で汚い色だつた。背は稲穂のやうに垂れてゐたが、筇は突いてゐない。諸手を腰に當てたまゝ歩いて來た。

 「吾吾は不義の國である周を嫌い、周粟を食らふを好しとしなかつた義士である」兄は、老婆から何も云はれぬ内からづか〳〵と歩み寄り、いやに胸を張つて云つた。弟も慌てゝ兄に續き「義士である」と、稍荘厳に繰り返した。老婆は暫く上目遣ひに二人を睚眥してゐたが、そのまゝの表情で乃ち「周粟を拒むくせに周の薇は食らふのぢやな、望み通り來者の傳へ聽きて笑ふ處の者と爲れるぢやらうて」と云つた。兄弟は、薇をどさと落として了つた。老婆は續けて「わしの見ぬ處でだうしやうと勝手ぢやが、間違つても殺生を起こさうなんぞと考へるでないぞ」と云つて何處かへ去つて徃つた。

 それから數日間、兄弟は薇の束を捨てゝ、盡日物を食らふ事無くじつと堪へた。或る払暁、突然霞が廬を掩蔽した時、二人は空腹に堪へられなくなつて外へ出た。廬の外には春霞が一面に廣がつてゐるので、腕を伸ばした先に何があるかは絶へて分からぬのである。とは云へ、腕の先には指があるに違ひない。それ位邊りは白色に滿ちてゐる。兄は實に弱つたと許りに肩を竦めているが、隣の弟はやけに鼻息荒く佇んでゐる。霞を食らふを得たりと云つて、鼻から口から烈しく呼吸をしてゐる。深く霞を吸つてみると、豈にはからんや、舌上には僅かに水の甘味が漂ひ、その甘味の消えぬ間に鼻腔の奥や咽頭の邊りに妙に冷冽な感覺がして、それが忽然として胃の中へ蓄積して行くのである。とは云へ、後世に云ふ仙人の食らふ霞は、本來は霊木や霊地なんぞの氣を表すもので、春に浮く本物の霞ではない。兄弟は、云はゞ初めて倒錯した形に於いて霞を食らつた者であつたのかもしれない。兄は、より多くの霞を食らはんと欲して闇雲に驅ける弟の音を聞きつゝ、頼り無い滿腹を得るまで食事をしてゐる。足音が消えた頃、矢張りぼちやと云ふ音がした。

 次の朝には、兄弟は湖の畔で、こんもりと盛り上がつた蒼色の苔のもとにこゞんでゐる。霞が露になつて表面は些か燦燦としてをり、見るからに柔らかである。二人は苔を少し摘まんでみた。すると苔はもす〳〵と音ならぬ音を鳴らして剥がれていく。掌を轉がる苔はふんわりして、中には空氣と水とが豐かに含まれてゐる。さうして底の方には薄く土が附いてをり、其處は至極湿潤でありながら微かにざら〳〵してゐる。口に入れると、苔は根菜の葉の樣に極端な苦味を伴つてとろけ、一方で恰も口内に依依とした樣で留まらむとする土の優美な甘味が相對的に際立つて感ぜられる。微笑む弟の顏を見た時、齒と云ふ齒が不氣味なまでに鮮やかな綠に染まつてゐたので、兄は俄かに恟然として了つた。

 銀色の女鹿が軈て杳然とした深林の奥から歩いて來ても、二人は湖の水で渇きを癒さむとしてゐる。鹿は月の樣に輝いて豐満を極め、だらしなく乳をぽた〳〵と垂らしながらこゞんだまゝの二人の下へ近附いて來る。立ち止まつた鹿の足元には小さな乳溜りが出來てゐる。兄弟は無言のまゝ見つめ合つてゐる。二人は長らく獸肉から離れてゐる。豐かに肥え太つた女鹿は、二人にとつて至高の魅惑である。二人はどの樣にすれば上手く屠る事が出來るかを考えてゐる。兄は二人で抑へて絞めてやらうと考えてゐる。一方で、弟は溺死させるのが効果的だと考えてゐる。なぜなら、眼前の太つた女鹿の力は、慢性的に衰弱した自分達を凌駕しうるかもしれなかつたからである。だが二人掛かりで湖に突き落としてやりさへすれば、後は浮き上がつて來るのを待てば好いのである。御馳走は目前にじつと佇んでゐる。兄弟は堪らなく嬉しい氣持ちになつた。

 まさに弟が兄に自分の意思を傳へやうと決意した時、鹿が大きく嘶いた。二人が驚く間も無く、女鹿は逃げ出して徃く。兄弟は慌てゝ追いかけたが、女鹿は忽ち霞の中に見えなくなつて了つた。

 がつくりと膝を突いた時、突然霞がさつぱり消えて無くなり、二人はこれまで食べて來た物が、本當は全然大した物ではなかつた事を気附かされた。湖の水面が、笑ふやうにぴく〳〵と風に波立つてゐた。それぞれの手に萎れた薇を握りながら、兄弟は庵のそばに倒れ込んで、やがてぴくりとも動かなくなった。

花火

 男が早稻田の、丁度夏目坂通りを登つた處に在る下宿に住んでゐた。北向きの六畳一閒には、茶色い本棚が數多有つた――否寧ろ本棚しか無く、最早本棚が壁と爲つてゐたのである。男は日常凡そ如意の時は必ず書物に向かつて飽きる事が無かつた。實家からの學資も奬學金も、竝べて書物に尤も充てられた。男の部屋は、果たして渠が住む部屋に本が置いてあるのか、或ひは書物の住む部屋に渠が置かれてゐるのか、だうも分からぬ有様であつた。

 男の常常説く處はかうであつた。曰く「書の裡には自分の未だ知らざる情報が埋蔵されてゐる。其れが己の血肉、即ち知識と爲る事に對して堪へがたき愜心を催すのである」と。渠はいつも此の「知識」と云ふ處に力を入れて云つた。男は書淫であつた。畢竟渠は書に、或ひは書に内在する知と云ふ蛾眉に戀してゐたのである。

 男が尤も好んだのは漢籍も殊に唐詩であつた。渠は日夜李杜を打ち誦じて已まず、其の覚へたる處の詩は軽く数百に上つた。

 或る日の晝下がりの事である。男は薄汚い褥に仰臥して、茜さす日の閒に杜甫を讀んでゐた。然しだう云ふ訳か、俄かに、本來四角い筈の絶句が何だかくの字を倒にしたやうに曲つて見え始めたのである。個個の漢字も皆海老のやうに奇妙に反りかえつてゐる。はてなと思つて少し目を閉じてみた處、やけに瞼裏に光が明滅する。弱つたと思ふや否や、男は激しい頭痛に襲はれた。男は已む無く杜甫を抱いた儘眠りに就いた。幾度か苦しげに寝返りを打つた後、忽ち寝息を立て始めた。

 男が目覚めたのは昧爽、新聞も未だ這入らぬ時分の事である。淡黃色の薄い窗掛から漏れ入る曙光は、まうと上がつては邊りを舞う塵埃の中で舞台照明のやうにさつと伸びてゐた。男は褥の中で、随分と脳海が爽やかに醒めた事を快として、ぐわばと起き上がつた。寝覚めの快に反して頭を起こすのは些か骨を折つた。手元の杜甫を捲つてみた處、可なり頭に這入るやうに爲つてゐた。男は珍しく散歩に出る事にした。夏目坂を下り切つた處で思いがけず友人に出遭つた。彼は何だか釈然としない顏付きで男を見つめて來た。男が声を掛けると友人は其の儘の表情で、君少しく頭が大きく爲つてはゐないかねと云つた。男は少しく自身の頭を撫回してみたが、そんな氣もするし、さうでは無い氣もする。男は挨拶も懇ろにせず友人と別れ、爪先上がりに夏目坂を登つて徃つた。

 部屋へ歸ると、男は真先に鏡へ向かつた。成程頭が少し大きく爲つてゐた。顏が肥大したのでは無い。獨り頭のみが一回り大きく爲つてゐたのである。原因は直ぐに思ひ附いた。昨日の其れは單なる疲勞と思つてゐたが、其の實已に情報が入り切らなく爲つたが故の頭の物理的膨張――否寧ろ擴張であつたのだ。進化だ、と男は思つた。自分は進化した人類なのだと思つた。進化だ進化だと男は小躍りし乍ら離騒を手に取つて褥に這入つた。さうして亦容量の增えた頭に四角い詩句を詰込み始めた。

 頭が擴張してから、物事が以前より随分好く這入るやうになつた。男は、朝夜は下宿で高吟し、日中は圖書館に籠つて讀書をした。さうして二箇月許り經つた頃である。男は圖書館の地下にゐた。床は處處ぽし〳〵とほつれの見える黑い絨毯敷きで、窗はおろか吹拔けすら無いのでやゝ陰氣であつた。天井の照明はちか〳〵と頼無く、邊りにはたれもゐない。人の背丈の二倍は有る白い本棚は天井にすれ〳〵で、其の中にはびつしりと和紙綴じの書物や奇妙な漢籍が竝んでゐた。其の本棚に囲繞されて大きな焦茶の机が雙つあつて、丁度其の一角に男は坐つてゐた。男の斜向かひに老人が獨り來たが、男は絶へて意に介さなかつた。

 男が讀んでゐたのは詩經であつた。既に其の殆どは能く諳んじる處ではあつたが、律儀に周南から讀み進めてゐた。

 唐風を過ぎ、秦風に差し掛かつた時の事であつた。何やら見た事の無い詩が有つた。「終南何か有る、條有り梅有り……終南何か有る、紀有り堂有り……」男は首を傾げ乍ら帳面に句を走り書いた。書き終はるや否や、亦漢字がくねり〳〵と湾曲し始めたのである。詩全體が、矢張り西洋文字のKを裏返しにしたやうにぐにや〳〵なつて、何が書いてあるのか絶へて分からなく爲つて了つた。男は、目を閉じると亦渠の光が出て頭痛がするだらうと思つて、ぐにや〳〵の詩を見るとも無く眺めてゐた。閒も無く、男の視界に何やらぱし〳〵とした光が處處に明滅し始めた。ぱし〳〵は一向に已む事が無く、忽ち頭痛が始まつた。頭がぐわん〳〵した。脳の中でスクワツシユーが行われてゐるやうであつた。ぱし〳〵はどん〳〵激しくなつた。男は堪らなく爲つて机に突伏した。

 目が覚めると、頭痛は治まつてゐた。ぱし〳〵も無くなつてゐつた。男はほつとして邊りを見渡した。本棚もあつた。部屋は矢張り陰氣であつた。時計が二時閒許り進んだ以外は何も變はらぬ。只、例の老人が本を開いた儘瞠目して、あう〳〵と云ふ聲ならぬ聲を出し乍ら男を見てゐた。眼鏡を取つて看てみると、眼鏡は男に向かつて斜に情無くばんざいをしてゐた。亦進化したのかと思つて厠にある鏡を覗き込んだ處、なるほど矢張り進化してゐた。大村益次郎みたいだと思つた。顏を洗つてみた處、首がやけに怠くなつた。鏡をまう一度見てみると、益次郎よりも大きいやうな氣がした。男は髪をわさ〳〵と搔揚げた。

 三箇月經つた。まう夏に爲つて了つた。たはかれをたうに過ぎた公園では、花火がのべつ幕無し上がつてゐた。男は、連合ひの女と屋台の竝ぶ前を歩いてゐた。綿菓子屋を過ぎると、赤い暖簾の射的屋の前に人だかりが出來てゐた。人が見ると、三人の男がぽんぽんぽんと随意に射ちものをしてゐた。人だかりが、當ればやれ天晴れだの何のと打ち騒ぎ、外ればやれ下手くそだの何のと囃し立てるものだから兎角喧しい。射ち畢はつた三人は軈て銘銘に菓子なり煙草なり瓶酒なりを手に亦人だかりに混ざつて徃つた。歩みを進めると、煎餅売りが構へてあつた。暖簾には元祖大阪の味なんぞと書いてあるが、果たして何が大阪なのかは絶へて分からなかつた。黑い襤褸を着た薄汚い男が、如何にも慣れた風な手附きで橙色の煎餅の上にソオスや天かす、其れから鰹節なんぞを載せてゐた。夫れ煎餅なんぞ日頃鬻ぐには堪へぬ物だらうから、煎餅売りには大方熟練も木蓮も有つた物では無い。たゞ其の妙に小慣れたさまが祭屋台の妙なのである。煎餅売りは前を過ぎて徃く人を眇に睨んだ。

 屋台のある通りを拔けて、二人は他の若い男女と同じやうに小高い芝の丘へ掛けた。二人の直ぐ前には女が獨り坐つて空を盆槍然と見てゐた。暗い空には雲一つ無いが、香ばしい煙が蛸のやうにうるつとうねつては、梅雨のながめの雲よりも低く立ち込めてゐた。風も無いし、星も月も見えない。先程から花火が一端の小休止を迎へてゐる其の一帶は、俄かに生じた閒の悪い倦怠の爲に一層蒸し〳〵してゐた。

 無聊に耐へ兼ねてゐたのは男とて同じであつた。肌着が急にじつとりして、背に圓く汗染が出來てゐた。男は手元の芝を千切つては捩じり、撚るとも無くばら〳〵にしてゐた。

 「何か樂しい事は無いだらうか?」男が云つた。女は黙つてゐた。

「おい、何か無いのかい?」と男が云ふと、女は耳元の、息がかゝる位の距離迄すつと顏を寄せて、「彩雲光燦柳篠垂、桂水白沙酔妙姿。高踏忽爲竜駿舞、欣聲自作玉珠詩。」とさゝめいた。

「全対格か、誰のだらう。」男が怪訝さうな表情をしてゐた。男は渠の頭の裡に渺茫と廣がる知識の海をざぶざぶざぶと掻き分けてゐる様子であつた。然し、其の詩は何處にも浮かんでゐないやうだ。

 むずがる小兒のやうに適はざる處ある男の氣色を見て、女は始終微笑を浮かべてゐたが、軈て滿面をさつと破して云つた。

 「たれのでも無いわ、私が散歩しながら作つたのですもの。」

 「然し、いきなり中國語を使ふものだから吃驚したぢや無いか。」

 「だう、好くつて?」女は甘へた聲を出した。

 「前対が少し甘いやうだ。」

 「絶句なんだから好いでせう? 私、あなたに背(べい)して欲しいわ」女は奇妙な中國語の使ひ方をした。

 「分かつた、覚えやう、背してやらう。」

さう云つた時である。嬉嬉として男の袖をくい〳〵と引いてゐた女の顏が、鐵薬缶に映したやうに湾曲し始めたのである。例に拠つて頭痛が始まつた。

女の聲も何だか彼方此方跳ね返つてゐるやうで能く聞こえない。取り敢へず女が云ひ畢つたやうなので、男はまう一度と云つた。

 「えゝと……いけない、忘れちやつた」女が弓手で額を抑へてゐた。相變はらず頭痛はするが、視界は元に戻つてゐた。

 「確か、彩雲光燦柳篠垂……」

 「あゝさう、それだわ」女が如何にも合点したと云はん許りに大袈裟に掌を小突いた。

 「それから、確かあれだ、桂水白沙酔妙姿……」

 「やつぱり貴方すごいわね、スポンヂみたいに覚えちやうのね。」

男は何も云はなかつたが、頭痛はいとゞ激しく爲つてゐた。女が続きを促して來た。亦進化して了ふのだらうかと男は思つた。

「次は……次は、何だつけな。」

「次は、あれよ、高踏忽爲竜駿舞。」

「さうか、覚えやう」

さう云ふと、頭は更に痛んで來た。視界が亦歪んで來た。女の顏が三日月のやうに曲つてゐた。前に獨りゐた女が、何時の閒にか二人組に爲つてゐた。其れも三日月であつた。此れまでの頭痛とは明らかに違つた。脳味噌の裡で針鼠を強かに怒らせたやうな痛みが頭の奥から〳〵擴がつて來た。男は堪らず顏を顰めた。叫びでもすれば少しは痛みが紛れるやうな氣がするが、三日月型になつた彼女の顏を見るとさうは出來ぬのであつた。仕方無く、座つた儘立てた膝の間にすつぽりと頭を挟んで目を閉じてゐた。男は堪へ難い頭痛の中にも、彼女の七絶の結句を思ひ出さうとしてゐた。頭はじん〳〵してゐた。何だらう〳〵と心で繰返し唱へてゐると、ひゆーと云ふ音が細く響いた。見上げると、ひゆーと云ふ音の中、欣聲自作玉珠詩よ! と云ふ強いさゝめきが聞こえた。

 どーんと云ふ音がして、花が開いた。霜月の葉よりも赤い缺片がありとある方向へ素早く飛び散つて、如月の花なんぞよりもずつと綺麗であつた。たゞ残念な事に、其れは刹那にちり〳〵と煙に變はる事が無く其處にずつと居残つたし、人人は感嘆の溜息すら吐く事が出來なかつたのである。

文庫

※「〳〵」は繰り返し記号です。

 

 

 

  とある林の中、小さな石でじやり〳〵した徑の突當りに舊い洋館が有つた。今はたれも住んでゐない。いまは博物館となつてゐる其處は、何だかハイカラであり乍ら閑然としてをり、コツテエヂなんぞと云ふより寧ろ洋館と云ふのが餘程好いやうに思はれた。硝子の嵌つた白い扉は、浅葱色の木枠で田の字に劃られてゐた。其の扉の真中に附いた靑銅の握りは、手垢で磨かれてぴか〳〵してゐた。余は戸をぎいと引いて中に這入つた。

 余が窗口へ徃つて學藝員らしき赤い縁の眼鏡を掛けた女に一言名乗ると、女は好ござんす、お這入りなさいと云つて席を立つた。此洋館はのべつひつそりとしてゐて、客は殆どゐないのが常であつた。元の持主も分からなければ、何と云ふ名前の博物館なのかも分からぬ。只はう〴〵から此處へ來る纔かな客から聞いた處に拠ると、だうやら此處はひと〴〵の閒で文庫と呼ばれてゐるやうだつた。何故文庫なのか、其れはたれにも分からない。文庫の窗口が有る狭い玄関から伸びる細い廊下には、小さな燭台が點點と竝んであるのみで盆槍と薄暗かつた。此處からだと、突當りの白い壁が何とか彼とか見える許りであつた。女は珈琲の香りをぷん〳〵と漂はせ乍ら余の前に立つて、案内して差上げませうかと云つた。

 余は女の後に从つて廊下を進み、階段を上つた。階段には赤い絨毯が敷かれてをり、手摺はぴか〳〵の靑銅である。女は足音を立てずにする〳〵と進んだ。余も亦音を立てないやうに、さうして急ぎ足に女に附いて徃つた。

 余は一層暗い廣閒に出た。床は絨毯から焦茶色の木板に變はり、廣閒を圍繞するやうに絵畫や甲冑が展示されてゐた。展示物は皆透明の壁を隔てた五尺許り先に有つた。余は狩野派らしい金ぴかの絵の前に立つた。落款は柳雪匡信で、春と冬との山水が描かれてゐた。春を觀た。余は迢迢たる高天に碧めく山樹を望み、習習たる微風に波たつ湖水を眺めた。湖水の上にはたれもゐない。湖畔に一本立つ樹には花が咲いてゐるが、何の花かは能く分からない。雲雀が啼いてゐた。つがいは、頭上をさつと翔けて何處か遠くへ消えて了つた。溜息が喧しい位に聞こえた。

 「あそこに咲いてゐるのは、何の花だらう」余が云つた。

 「なんでせう、分かりませんわ」女は應へた。さうして、甲冑をじつと見た後、音も無く何處かへ去つて了つた。余は焦茶の上を去るとも無く低徊して、湖水を眺めてゐた。水面には丹頂が二羽佇んでゐた。余はふと、嘗て湘君が沈んだ洞庭の水は丁度此んな按排だつたかしらんと思つた。美女であらうが月竝であらうが、入水は何人にも無条件の美を授けるのでは無いだらうか。無爲にして彼處に浮かぶ者は、全て之信仰すべき美を孕む者と爲るやうに思はれた。余は、余が俯せになつて水を抱締めるやうに湖に抱かれる姿を想像した。何だかぷか〳〵して樂しさうである。然し浮かぶのが余では畫にならぬやうであつた。だうせなら浮かべ甲斐のあるものが好い。とは云へ湖水には、釣翁はおろか、なんぴとも浮かんでゐなかつた。水面は鏡のやうにぴんと張詰めてゐた。花が全て落ちた例の樹はごつ〳〵して湖面と竝行に伸びてをり、何だか松のやうにも見えたが、然し花は松の其れでは無かつた。其れでも幹に雪を載せてくね〳〵とする姿は、矢張り松みたいだつた。湖水を看ると、其の上邊には小さな雪波紋がぽつ〳〵と出来てゐて、鏡ではなかつた。空は何時の閒にか、もく〳〵とした雲に蓋はれてゐた。雪は滾滾と降つてゐた。傍らの樹が何なのか、其れはまうだうでも好い事のやうな気がした。仮令春には松で無くとも、花が違つても、まう此の樹は松で好いのでは無いだらうか。

 「わたし、きれいでして?」女が卒然として余の左の耳元で囁いた。女の鼻から出る細い息が余の頬を冷え〴〵となぞつた。さうして何か無機質の冷たい物が首筋に触つてぞつとした。余は何も答へなかつた。

 「わたし、きれいでして?」まう一度訊いた。女の鼻から出る細い息に余は冷え〴〵とした。金屬らしき物が首筋に触つた。ぞつとした。何も答へなかつた。

 「わたし貴方の爲に女神になつて差上げますわ、見て下すつて?」

 「あの樹は何だらう。」

 「貴方、随分と優柔不斷なこと。」

 「さうなのかな。」

 「兎に角ちやんと見てゐて下さいね。」

女はさう云つて、湖の中へざぶ〳〵と這入つて了つた。丹頂がばた〳〵と飛び去つた。水は女の膝を隠し、腰を隠し、胸を隠し、たう〳〵全て隠して了つた。女は一度も振り返らなかつた。

 余は、女がだうやつて女神に爲るのだらうと水面を凝視してゐた。然し女は何時まで経つても出て來なかつた。惘然と立つてゐると、背後で何か声がした。彼の女の聲ではない。余は振り返らなかつた。亦変な声がした。遅くなつたと云つてゐた。そして右肩をとん〳〵叩かれた。余はまだ振り返らなかつた。

食堂

 

 食堂の戸は横滑りである。勢い好く開けた處で、男臭がプンとする訳でも無い。食堂は略長方形の渺茫(びようぼう)たる大部屋で、戸は丁度右長辺の半ばに位置してゐる。余は、長方形の長辺の残りを大股で歩いてゐる。やけに運足が自由である。パンツが無いのだから仕方あるまい。只、服は着てゐるものだから、石造りのダヰデでは無い。人類は進歩する生物である。

 広い食堂には、寮毎に決められた五つ許りの長机が長辺に平行に列在してをり、其の両側に丸椅子が許多(きよた)に並んでゐる。此う云ふと何だか、ロオリングの何とかポタ〳〵に出て来る西洋の大学の食堂を連想するが、反して此處は極めて東洋的である。長方形の正面の短辺には、やけに大きい五観文が掲示されてゐる。此んな物を掲げてゐるものだから、下手に道心を催して風呂場で熱湯修業を行ふ者が現れるのである。全く美文では腹は膨れぬ。実に好い迷惑である。

 余は山積せらるゝ盆を取り、食物を貰ふ。食堂の者はやけに愛想好く余に笑ひかけて来るが、余は其れが笑ふ為に笑ふ第一義的の物では無く、寧ろ第二義的の、云はば商業的の物である事を知つてゐる。と云ふのも、彼らは、往来で遭つた時に余が食堂の愛想を持ち出すと、翻雲覆(ほんうんふく)雨(う)の体でツンとつれなくあしらつて来るからである。其んな訳で、彼等の第二義的の愛想に対しては、余も第二義的の挨拶を返すのである。余は、此れを二十一世紀の第二義的皮肉と呼んでゐる。

 室の短辺と長机との間には、長机に対して垂直に長い机が有り、味噌汁の這入つた大きな缶と白飯の大きな釜とが置かれてゐる。余は汁の椀を盆に載せ、釜の處へ向かふ。釜の隣には銀の深鉢が有つて、裡(うち)には大きな杓子が水に浸されてゐる。だう云ふ訳か、どの寮生も、杓子を取る度毎に深鉢の縁に其れをチインと当てゝから白飯を装(よそ)ふのである。従つて食堂は、のべつチインが響く為に、極めて仏教的の趣を帯びてゐる。五観文の下で素衣の坊主が神妙な顔附きでチインをやる様なんぞは、仏教的以外の何物でも無い。何とかポタ〳〵の魔法学校なんぞ以ての外である。余は無思考にチインをしてから、仕舞つたと思つた。

 乾寮の机へ徃くと、赤田君が坐つて飯を食つてゐた。余は極力赤田君を見ずに、然し赤田君の正面に坐した。下手に距離を置くのも水臭いからである。

 「オヤ、君も食事か。」赤田君は箸を止め、さも今気附いた様な顔をしてゐる。

 「そら風呂に這入りや、飯も食ひたく為るでせう。」余は、適当にあしらつた。先程、風呂で如何にも没分(ぼつぶん)漢(かん)な挨拶で赤田君を追い出した事が気に掛かつてゐたからである。またプラトオン云々(うんぬん)なんぞと云はれては、とても敵わぬ。余は只管味噌汁を手に取つて睨(にら)み続けてゐた。

 「何だい、味噌汁に自分の顔でも映つてゐるのかい。のべつ幕無し汁と睨み合いをしてゐる様だが。」

 「何でもありません、先生。然し、今日の汁は美味いですナア。」

看た處、赤田君との問答は本当に湯(ゆ)靄(あい)と共に消散した様である。風呂とは、実に方便な物である。余は空に為つた味噌汁椀を盆へ置いた。

 「處で君、先程の話だが真(ま)逆(さか)忘れてはゐないだらうね。」

消散してゐなかつた様である。余は亦た味噌汁椀を持ち上げた。幸い豆腐の欠片が残つてゐる。豆腐一片値千金。余は椀を睨み乍ら豆腐を咀嚼(そしゃく)してゐた。

 すると、赤田君が短兵急(たんぺいきゅう)にオヤと云つた。彼の視線の先には、先程の余の如く長方形の長辺を闊歩(かつぽ)する男がゐた。男――当然男以外には有り得ないのであるが――は、紺の小倉(こくら)の肩を洗い髪で濡らし、丸い銀縁の眼鏡を掛けてゐる。小倉の袖から見える腕は十人並で、大して肉附きが好い訳では無い。只姿勢は妙に好く、其の右手(めて)には万年筆を握つてゐる。赤田君はまう一度オヤと云つた。

 「オヤ、井瀬君では無いか。」

 「慥(たし)かに井瀬君ですな。」余は安堵した。彼は、云ふなれば茶みたいな男である。酒のやうな面白みは無い。面白くは無いが、ゐればゐるなりに有用である。今余が赤田君のプラトオンから逃れるには、知恵熱的の彼は丁度好いのである。とは云へ、余は別段彼を好んでゐる訳では無かつた。

 「全く、不相変彼は書生気質(かたぎ)を拗(こじ)らせてゐるね。現代において、小倉袴なんぞ一体誰が好んで着ると云ふのだね。」

 「其れに彼の万年筆ですよ。筆を箸にしやうつてのぢや有るまいし。」赤田君が井瀬君の人物評を始めたので、余は適当に合わせる事にした。

 「全くだ、あれで『刀剣の鋭なるは、文筆の妙なるに如かず』なんぞ云つて、凝りもせず漢字を弄(いじく)り回してゐるのだから、実に怪(け)しからぬ。」

 「先日なんぞは、顔を見るなり『君、蓋(けだ)し賢を賢として色に代ふるの精神は書生に当然の心意気だね。君の如く、さう日毎女性と交はり歩くものぢや無い。風雅の道に逍遥(ぶらつ)かふでは無いか。』とか云つて、突然李白をうち誦(ずん)じ乍(なが)ら去つて徃(い)つたのです。今時李白を歌い乍ら歩く者なんぞ中国にもをりますまい。」

斯く云ふ間に井瀬君は茶碗と汁とを盆に載せて、白飯の釜へ向かつてゐる。余はぼんやり然と彼を見てゐる。井瀬君は、殊更チインを確(しつか)りやるのである。彼の脳海に、古今漢詩の風雅が浮かんでゐる時は一度チインをやる。東洋思想の複雑が漂つてゐる時は二度チインをやる。余は、矢張り別段井瀬君を好いてゐる訳では無いが、其の法則を発見したのは余が初めてであつた。

 果たして井瀬君は哲学のチインをした。そして玉のやうな露の付いた杓子を軽く振つてゐる。だうせ亦、孔子がだうだとか蚊とか云つて来るのであらう。

 「オヤ、君か、其れに赤田さんも。此れは楽しげな夕餉ですな。」

 「井瀬君、気分はだうだい。差し詰め、孔子がだうだとか、僕は顔回だとか考えてゐたのだらう。」余は、彼が坐すなり云つた。井瀬君は眼鏡を右手の小指で押し上げて、にや〳〵してゐる。袖口からは万年筆が伸びてゐる。

 「否、今日はね、悲喜劇と斉物論(せいぶつろん)とについて考えてゐたのです。」井瀬君は、斉物論と云ふ處に妙に力を入れてゆつくり云つた。

 「何、斉物論かい。其れは随分面白さうぢや無いか、ねえ先生。」

 「さうだな、ちと聴かせて呉れ玉へ。」赤田君は些か前傾である。

 「何、大した事は御座いません。」井瀬君は咳払ひをした。

 「さう勿体ぶらずに早く云へよ。」余も前傾である。

 「漱石虞美人草にですな、悲喜劇の議論が有るでせう。」

 「ここでは喜劇ばかり流行る、と云ふあれの事か。」赤田君はだうやら漱石にも精通してゐる様である。

 「然様(さやう)、漱石は世上の草草の問題に関して、生か死かの問題が悲劇で、後は残らず皆喜劇だと云つてゐるでせう。」

 「さういや、さうだつた気もする。」余は曖昧模糊としてゐる。

 「其れで、悲劇は日頃ふざけたる者が襟を正すから喜劇なんぞよりも偉大だと、此うだつたね。」赤田君が苑転と述べる。

 「然うです、全く其の通りです。然しですな、斉物論を以て此の議論を見ると、だうも此うは云へませぬかな。」

 「だう云ふのだい。」余は更に前傾である。

 「夫れ何が偉大だとか蚊とか云つた處で、此の偉大かだうかと云ふのは、人類の浅はかな智慧で仕分けた物でせう。悲劇であらうが喜劇であらうが、謂はばどちらも演劇には変わり無いのです。変化と云ふ自然の道理に身を任せてゐれば、悲しからうが楽しからうが、だうだつて好いでせう。畢竟人生は演劇なのです。仮令友人や自分が、舞台上で或いは米を食はうが、或いは死なうが、我々は其れを桟敷(さじき)でぼんやり然と見てをれば好いのです。」

 「其れは随分と厭世的(えんせいてき)だナア、正しく浪漫的(ろまんちつく)アイロニイだ。はゝゝゝ。」赤田君は元の姿勢に戻つてゐた。

 「だう云ふ事です。井瀬君の理論では、舞台上と桟敷裡(り)とに、二人の自己がゐる事になりますが。」余は未だ前傾である。少し頭痛がする。

 「蓋し、我々は生活する中で、常に自分を客観的に見る必要が有るでせう。其の意味で、舞台上の自己の他に、桟敷裡の自己が存在すると云ふ考えは、全く撞着(どうちやく)しては無からうと思うのです。」

井瀬君は、大して下がつてもゐない眼鏡を亦小指で押し上げた。

 「畢竟、桟敷裡の自己は観念的なのだね。」赤田君は何時の間にか食事を終へて茶を啜(すす)つてゐる。

 「然うです、そして僕は常に桟敷裡にゐます。」井瀬君は恬(てん)としてゐる。

 「ぢやあ、目の前にゐる井瀬君は観念的なのかね。」余は可なり混乱してゐる。

 「無論然んな事は無い。此處にゐる井瀬は実体の井瀬だ。然し本当の井瀬は少し上で此の体を見てゐるのだ。」井瀬君は亦眼鏡を押し上げた。

少し上とは何だ、訳が分からぬ。余は益益頭が痛くなつた。井瀬君の浪漫的アイロニイは手に負へぬ。此うなれば最早、赤田君のプラトオンの方が余程ましである。

 余は、「時に先生、プラトオンはだう云つてゐるのです。」と云つてみたものゝ、赤田君は已に目の前から姿を消してゐた。オヤと思つて見回した處、長方形の長辺にゐる。彼は此方を見乍ら、且つ走り且つ会釈して出口へ向かつてゐた。余は惘(まう)然(ぜん)と彼を見送つた。

 溜息を洩らし乍ら膳へ向き直ると、今度は井瀬君がゐない。然し膳は残つてゐる。彼は白飯の代わりを装はんとしてゐた。今度は漢詩のチインである。余は嗚呼(あゝ)と口の中で云つた。

 そして井瀬君は、席に坐すなり酒に酔つたやうに苑転と語り始めた。

「時は頃襄王、泪(べき)羅(ら)の水に立ちし屈原、其の意万丈、才覚常ならず……」

「好い加減にしろ。」

余は熱い緑茶の椀を顔面向けて投付けた。