暁命堂雑記

ときどき書きます。

真夏の猫

※「〳〵」はくりかえし記号

 

 昧爽既に山ぎはは真白、人の起きたるを待たで鳴きたる蟬の喧囂、高潔聡明の云はれも最早今は昔ぞかし。唐土が騒人處士の、かれを以て賢に見立てたるは、まこと暑さにお頭の厶りしゆゑならむと扇しならせ一人合點。絶へず枕の浮きて吾が袖濡れたるは、見ぬ目の憂きにも世を忍ぶるにもあらず、即ち獨り汗玉の高じて大河と爲るのみなり。褥を發つさへもの憂きに、輾轉二轉三轉の果てなきは三峡の河上り、夢郷の境、逍遥く刹那にぶん〳〵蚊の音、儚く破るるいたちごつこ。かくなる儘に、廻る廻るわ時計の大小、書生は即ち之れ人生の休暇、況や本日休暇は葉月の十日、朝寝の一、二何の論ずる處ぞや、そも書生はもとより暁を覺えて過ぐる者、天地に恥ずるは絶へて無用ぞかしと云ひてはうと〳〵、更に數刻黒甜郷裡に遊びたるもまた己には覺えざることなりき。

 

 扨々疾うに金烏は南中、蟬はいとゞ喧しきに吾やう〳〵驚きぬ。褥はしとゞに濡れて末の松山、體反して時計を見るに、南無三、二分過ぎたりお八つの時間、意はけつするもの、けすものは火なり。褥を發てば六畳一間にでんと陣取る丸机、上にはちり紙漱石急須に茶碗、更に立錐の遑だにもなし。机を除ければちり紙はら〳〵、洛陽城東なればをかしきものをと蹴散らし散らし、みだれ髪もそのまゝに蕎麦屋がり發ちぬ。

 

 下宿が軒下幅は五寸の日陰を選みて平地によろ〳〵綱渡り、寝ぼけゆゑに定まらぬ足遣ひ、云ふなれば素面の宿酔のをかしさぞかし。

 

 數丈目先の軒果つる端つこ、影はなきそこに猫の一匹あり。黄土の毛色にうつすら虎の縞模樣、耳裏稍傷ましく爛れて、吾に向くるは先の曲がれる鉤尾つぽなり。二三歩寄りても更に氣付かず、如何にと看るに腰高頭低のすべり臺、目先にしゆる〳〵蛇の鎌首、上がりたり五条大橋の幕。猫はずむぐり、蛇はさらぬ三尺ばかりの牛蒡縞、されど窮鼠の嚙むは猫の大腹、蛇の嚙むは之れ云ふもさらなり。寄ること更に二歩餘、フウと漏るる憤慨の氣に怒毛天を衝く勢ひ、鉤尾つぽもさながらぶわゝと膨れる仙人掌ぞかし。蛇はじつと腹這ひ、尾つぽは隠るとぐろの裡、絶へず動くは二叉の舌先、見れば根迄ぷつ〳〵、舌は血も滴る鮮紅なれば、暗き牛蒡に映えておぞましおそろし。やがてとぐろを解きて真白な鳩胸どゝん、鱗は竝べて菱形、歴歴と際立つ間隙に付着せる砂の粒粒、吾を見下ろす瞳は濁りて死んだ魚の冷冽さ。

 

 今に〳〵と睨むうちにしびれの切れてヤツと出したる弓手の爪、懶惰の内に昨日切りし鋭さの幸ひ、眼下に走るは一筋の傷、舌先に漏るゝは一層の怒、憤気朦朦として渦を爲しては體軀を囲繞してたゞならぬ氣色、猫の後の身にも危険はしられけり、知らず三歩の後ずさり。見るに、猫は變はらぬすべり臺、尾つぽの仙人掌もいよゝ膨れて毛毛の本白みたるまで手に取るが如し。見上ぐれば淺からぬ傷、血は頬を傳つて牙より雫と爲る。鱗は怒りに逆立ち半ば捲れて痛まし。血走つて飛出す眼、舌は出入り激しく今にぷちんと千切れんばかり、

 

(未完)