暁命堂雑記

ときどき書きます。

ひとの目を気にしないで生きるために

 

※もしあなたがこの題にまつわるなんらかの教訓や有効な手段を求めるならば、ただちにこのページを消し去らねばならない。いますぐにだ。そして可能であるならば、いつもブラウザの閲覧履歴を消すような仕方で、この雑文にたどり着く数分前からの記憶を抹消するべきである。なぜなら、以下の議論は、あなたがひとの目を気にしないで生きることを完全に不可能としてしまうからだ。

 

ぼくはけっこう他人の目を気にする人間であるが、できれば他人の目を気にしないで生きていきたい。けれども、他人の目を気にしないでいることはきわめて困難だ。じつのところ、どうすればよいかまったく想像もつかない。もちろん、「自分を信じればいいんだよ!」とか「気持ちの持ちようだよ!」などといった助言は蔑むことすら惜しまれるなにかとしてただちに棄却される。それらは完全に無益であるばかりか、時と呼気の無駄であるという点においては有害ですらある。そのことを示すために、ここで少し抽象的に考えてみよう。

 

抽象的といったが、さほど難しいことではない。ぼくのあまり頑張ってない文章を読むひまなどない忙しいひとのために*1、以下に要点を示そう。

 

1、他人の目を気にしないひととは、およそ自分の言動が他人にたいしてどのような結果をもたらすか、またそれによって他人がどのように(とりわけ自分にたいして)思うかについてまったく無頓着なひとのことである。

 

2、他人の目を気にしないひとは、「私は他人の目など気にしない」といってはならない。

 

3、他人の目を気にしないひとは、「私は『私は他人の目など気にしない』などといってはならない」と考えてはならない(以下無限後退)。

 

4、ゆえに他人の目を気にしないひとは、自分が他人の目を気にしているかどうかという問いからまったく隔絶されていなければならない。

 

5、意味とはつねになんらかの心的作用であるのではなく、むしろ知覚可能なしるしの使われ方であると考えるならば、あなたはじつに計算深く「他人の目を気にしないひと」になることもできる。しかしながら、それはとりもなおさず、もっとも他人の目を気にする生き方のひとつである。

 

それではくわしくみていこう。
他人の目を気にしないでいるために必要なのは、なによりまず「他人の目を気にしないひと」とはなにかを知ることである。そこでひとまず以下のように定義する。

 

1、他人の目を気にしないひととは、およそ自分の言動が他人にたいしてどのような結果をもたらすか、またそれによって他人がどのように(とりわけ自分にたいして)思うかについてまったく無頓着なひとのことである。

 

とくに難しいことはないだろう。
多少文句があっても我慢していただきたい。ぼくもこんなトピックについてあまりまじめに考えたくはないからだ。とりあえずこれで定義されたことにしよう。

 

他人の目を気にしないひとがどういうものかはわかった。では、つぎにどうすればなれるかを考えよう。いったいどうすればいいのか?

 

たとえば自分は他人の目など気にしていないと考えているひとが、だれかに向かって「私は他人の目など気にしない」というとき、それはいわばひとつの立場の表明であり、かならず「私はあなた(という他者あるいはひろく他者一般)に自分が『他人の目を気にしない人間』であると見なしてほしい」という欲望を暗示している(話し手が欲望を自覚しているかは問題ではない、言葉を発するというのはそういうことだ)。そうであるならば、じつは「私は他人の目など気にしない」という文言は、つねに(本質的に)他人の目を気にするひとによってのみ宣言されなければならない。だから:

 

2、他人の目を気にしないひとは、「私は他人の目など気にしない」といってはならない。

 

したがって、もしも他人の目を気にしないで生きようと思ったら、なによりまず「私は他人の目など気にしない」と言うことだけは避けなければならない。そしてじつに困ったことに、上記の理由で「私は『私は他人の目など気にしない』と言ってはならない」と考えるとき、ひとはすでにその宣言が他人に与える意味や印象にもとづいて自分の行動を決定あるいは制限していることになる。つまり、他人の目を気にしてしまっているのだ。だから、他人の目を気にしないひとは「『私は他人の目など気にしない』と言ってはならない」と考えることすら許されないのである(ここから無限の入れ子構造が立ち現れる)。ゆえに:

 

3、他人の目を気にしないひとは「私は『私は他人の目など気にしない』などといってはならない」と考えてはならない(以下無限後退)。

 

したがって、他人の目を気にしないで生きている(と自覚の有無にかかわらず信じている)ひとにとって、「あなたは他人の目を気にするか」という問いほど厄介なものはない。なぜなら、それを否定しようが肯定しようが、回答するやいなやかならず他人の目を気にするひととなってしまうからである。だからこそ:

 

4、ゆえに他人の目を気にしないひとは、自分が他人の目を気にしているかどうかという問いからまったく隔絶されていなければならない。

 

ぼくは他人の目を気にしないで生きてみたい。だけれども、ぼくにはそれがいったいどのようにして可能なのか、まったく見当もつかない。

 

ここですこし角度を変えて考えてみよう。

 

たとえばなにやら奇抜な格好をして外を出歩き、ひとから「あなたは他人の目を気にするひとですか」と聞かれるやいなや、まったくなんの打算もためらいもなく、即座に「納豆!」と宣言してラジオ体操を始め、まったく恥じる気配のないようなひとは、はたして他人の目を気にしていないのだろうか。「他人の目を気にしないひと」という言葉の常識的な用法を考えれば、それはただしいように思える。詳しく考えるのは面倒だが、私たちは通常そうした奇妙キテレツな行ないをするひとは、たいてい他人が自分をどう思うかなど考えていないはずだと思う。

 

しかしこれを読んだあなたが、そうか、そうすればよいのかと思って街へ繰り出し、おもむろに「納豆」と言ってのけたところで、もはやそれはのぞむような効果をもたらさないばかりか、それは「納豆」と口にすることの可能な帰結(ひとから「他人の目を気にしないひと」とみなされること)をあらかじめ想起しているという点で、じつはとても強く他人の目を気にしていることになるのである。それゆえ:

 

5、意味とはつねになんらかの心的作用であるのではなく、むしろ知覚可能なしるしの使われ方であると考えるならば、あなたはじつに計算深く「他人の目を気にしないひと」になることもできる。しかしながら、それはとりもなおさず、もっとも他人の目を気にする生き方のひとつである。

 

ここまで考えると、他人の目を気にしないで生きることがいかに難しいかがよくわかるだろう。いやむしろ、この困難さは思考そのものに由来している。つまり他人の目を気にしないで生きるにはどうすればよいだろうかとか、私は他人の目を気にしているのだろうか、などと考えはじめたとたん、この課題は限りなく不可能に近いものとなってしまうのである。つまりこれは問題自体にある種の罠が仕掛けられた悪質な問いなのだ。したがって、この文章をここまで読んでしまったひとはもはや後戻りができないだろう。ぼくが勧められる唯一の選択肢は、せいぜいいさぎよくあきらめて、現実的な落とし所をさぐるくらいだ。なんと平凡な答えだろう!

 

だからもし、あなたの身のまわりでいかにも他人の目を気にしないで生きていそうなひとを見かけたら、まずこのように問いかけてみよう。たとえ相手がどんな精神的境地に身をおいていようとも、彼女/彼はたちどころにこの悲劇的な沼に引きずりおろされるに違いない。残念だが、それが論理的帰結というものである。

 

 

*1:かくいうぼくもいまはわりと忙しいのだーーこんなつまらない情報のためだけに注を踏んでくださったすべてのひとにぼくは申し訳ないとおもう……。