暁命堂雑記

ときどき書きます。

2020年の仕事とか

今月のはじめに修論を提出した。

とにかく時間がなくてたいへんだったけど、なんとかなった、と思う。

はっきりいうと、11月ごろまで論文と並行して仕事してたのはいろいろミスった感があった……。

なにはともあれ、いちおう出すには出した。そして今週中に口頭試問、来月にはD進のための試験がある。合格するかどうかはわからないけど。

 

ところで以前、このブログで井筒と牟宗三にかんする仕事の成果を都度報告する、みたいなことを言っていたのだが、申し訳ないことに完全に忘れていた。いや、じつは覚えてはいたけど意味不明なくらい時間がなくてそんな余裕はなかった。(Trello にめちゃくちゃ期限がきれてる「ブログ記事書く」的なカードが何枚かある。。)

 

それに、とくに井筒にかんして、たぶんふつうに個別の論文とか論考とかとして発表できそうな発見がひとつかふたつくらいはあって、そういうのはブログではなくべつの場所で発表したほうがいいかも、という気もちもある。

 

というわけで、去年は修論のほかにも結構いろいろ仕事をしたので、なんとなくまとめておく。だいたいゲンロンから個人で依頼してもらったものが中心。ありがたいなあ。

 

1)Geert Lovink, "Cybernetics for the Twenty-First Century: An Interview with Philosopher Yuk Hui" (e-flux journal, no. 102, September 2019)

philosophyandtechnology.network

 

これは翻訳。ユク・ホイの Recursivity and Contingency にかんするインタビュー。

この本の理解のためには有益だしおもしろい。ただ構成の仕方の関係なのか、あんまり対話になってない感があるのがちょっと気になる。それはそれでおもしろいけど。

いま見返すとちょっと訳を修正したいところもある。ウェブの記事なんで、今年中に時間をつくって修正版をアップするかも。。。

 

2)Yuk Hui "One Hundred Years of Crisis" (e-flux Journal, no. 108, April 2020)

genron-alpha.com

 

これも翻訳。新型コロナウイルスの感染が世界的な問題になりはじめた昨年4月に書かれた論考。

こういう時事的な問題とつなげて論じられると、ユク・ホイの「宇宙技芸」の概念が、抽象的な哲学的概念であると同時に、かなりアクチュアルな問題にも関係しうるものであることがよくわかる。

とてもいい記事。でも、記事の性質上(丁寧さは前提だけど)めっちゃ急がねばならず、かるく生命を削った。

 

3)Yuk Hui, "Art and Cosmotechnics #2: After Europe, Beyond the Tragic" (書き下ろしなので『ゲンロン11』が初出)

genron.co.jp

 

これも翻訳。今年は前半にたくさん翻訳の仕事をさせてもらった。

西洋的な文脈では芸術と技術はおなじくテクネー technē から展開してきたということになっている。ユク・ホイの仕事のひとつのねらいは、技術にかんする思考の多様性を追求することだが、この連載は、各地域のもつ芸術的な思考の複数性を(ここでは中国を例に)探究しつつ、それによって技術にかんする思考の多様性をすこしちがった角度から考えるもの。今回は悲劇論。読み応えがある。

なおこの『ゲンロン11』に掲載された安藤礼二中島隆博の対談の企画・構成・編集をした。勉強になった。

 

4)料理と宇宙技芸

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ひょんなことから、なぞの中華料理連載をはじめることになった。

経緯はこんな感じ。

「弊社ウェブサイトの「ゲンロンα」、硬いガチな論考が多いから、なんか軽い記事でものせよう、レシピとかどうかな」

「ゐせ氏は中華つくれるらしい」

「いいね」

「ユク・ホイの翻訳やってるし、タイトルは『中華料理と宇宙技芸』でいこうww」

 

なお、ぼくはこの対話が発生した現場にいなかった……。

ただ、いざ書こうとしたら意外といろいろ書けそうなことが浮かんできて、

いまやなかなか本気の連載になってしまったという始末。

タイトル負けしないものを書かないと、という焦りもあった。編集の妙だなあ。

 

結果的に、連載をはじめてから読む本の種類が増えて料理本も結構読むようになったし、料理自体も多少上達した気がする。いやはや、ありがたいかぎり。

ひとことでいうと、中華料理の哲学? みたいなものの探究。でもレシピ(本)としてもちゃんと実用的。

さしあたって中華料理を支える思想をきっちり描くことが目下の課題だけれど、中華料理自体も変わってきてるわけだから、それにあわせてそこにひっついている思想のほうもアップデートしたいという野望もある。

あと、修論でちょっと止まってたけど、つぎは2月か3月に炒飯回で復活する予定。

 

6)あたらしい東洋哲学はどこにあるのか

genron-alpha.com

 

『ゲンロン11』の対談の続編的な立ち位置で開催されたゲンロンカフェのイベントのレポート……という体のまじめな論考。同時並行で書いてた修論の論点が一部登場している。ちなみにさっき言った井筒にかんするちょっといい議論、というのはここには出ていない。

 

***

 

ほかにもあったかも。思い出したら追加する予定。

 大学院で人文系を研究すると「テクストを読むとき一文字もゆるがせにしない」ような姿勢が要求される/つちかわれる、的な話がある。これは事実だと思うけど、それはそれとして、ここ数年の率直な印象として、ひとたび報酬が介入すると、書くにも訳すにも編集するにも、また別種の厳密さ、というか本気さが発生するように思う。

あと翻訳とか、「料理と宇宙技芸」のような軽いノリ(だが結構本気の)の文章書いたりとか、そういうことをやるととてもいい文体の鍛錬になる。そもそも翻訳は、あらかじめ書くべき内容がすべて与えられている状態で、それをどういう形式で書きあらわしていくかという作業。だから(まずはきちんと読解をするという前提のうえで)ほとんど純粋に文体の力を問われる仕事、というのがぼくの理解。

 

今年の目標は、『中国における技術への問い』の邦訳をなるべく早く出すこと、それから「料理と宇宙技芸」を4、5回は書きたいかなあ……。まだ来年度の進路は決まってないんだけど、どこに所属することになっても、この二点は確実に達成したいところ。

 

 

 

 

井筒俊彦と牟宗三を比較する 第1回 導入(1)

 

 これからしばらくのあいだ、このブログ上で何度かにわけて、日本の井筒俊彦(1914-1993)と中国の牟宗三(1909-1995)という20世紀のふたりの哲学者にかんするはなしをしていきたいと思う。

 

 井筒俊彦の名前を聞いたことがあるひとは少なくないだろう。『コーラン』をはじめて原典から翻訳したとか、30以上もの外国語ができたとか、英語でたくさん本を書いているとか……。たとえいまやじっさいに井筒の著作を読んでいるひとはそれほどいないとしても、またじっさいに読んだ人々のあいだで評価がわかれるにしても、彼が20世紀とりわけ戦後日本の著名な哲学者であるという認識はある程度共有されているはずだ。
 しかしながら、ぼくの印象をいえば、中華圏での井筒俊彦知名度はきわめて低い。おそらくほぼゼロである。かつて北京にいたころ、頻繁に現地の書店をめぐり歩き、すみずみまで見てまわったものだが、井筒が読まれている気配はまったくなかった。もちろん、井筒に言及する中国語の研究もほとんどない(あってもたいてい概説的になぞるくらいのものだ)。

 

 他方、牟宗三(ぼう・そうさん/モウ・ゾンサン)については、日本でその名を知っているひとはかなり少ないだろう。彼にかんする日本語の研究はたいへん少ないし、もちろん彼の著作はまったく邦訳されていない。とはいえ、日本で井筒がある程度よく知られているように、中国、あるいは台湾や香港(さらには欧米の中国学)での牟宗三の知名度は高く、しばしば20世紀の中国哲学を代表する人物だとみなされている。
 ようするに、中国での井筒俊彦知名度は、日本での牟宗三の知名度とおなじくらい低い。井筒と牟宗三は、すくなくともそれぞれ自分の国(や地域)では20世紀の大哲学者ということになっているが、互いの隣国では一部の研究者をのぞきほぼ名前すら知られていないのである。当然の結果として、両者が比較検討されることはなかった*1


 にもかかわらず、じつは両者にはきわめて豊かな比較の可能性がある。というのはつまり、このふたりの哲学者のあいだにはある絶妙な対照性と共通性があり、そこから20世紀の、ひいては21世紀の東洋の哲学を考えるうえで、非常に重要な論点が引き出せるのではないか、ということである。この点を示すというのが、ぼくのひとまずの目標になるだろう。今回はさしあたり、前提となる簡単な情報や、ふたりの比較をめぐる理論的な問題意識を共有しておこう。

 ちなみにこのはなしはぼくの修士論文のための準備、あるいは思考を整理するための研究メモのようなものとして書かれることになる。だから今後どこかで発表するとか、論文として提出するとかそういうことがあるかもしれないが、そのときは形式も内容もずいぶん変わったものになるはずだ。

 

  
 
 はじめに前提となる情報を簡単にまとめておこう。 

 

 井筒俊彦というひとは東京生まれの哲学者である。日本では広くイスラームの研究で知られているかもしれないが、彼は古代ギリシアや東アジアの哲学だけでなく、西洋の文学や現代思想までじつに幅広く研究した。
 井筒の生い立ちや関心などについては、慶應大学出版会のウェブサイトに掲載された「井筒俊彦入門」にいろいろと書いてあるので、ここではごく簡単に紹介するにとどめる。詳しく知りたい方はこちらを参照してほしい*2

 

 慶應大学の英文科を卒業して講師をしたのち、井筒は1959年から20年間、カナダや中東などの国々で研究生活をおくる。そこで井筒の人生はおおきく海外以前、海外時代、帰国後の三つの時期に分けられる。


 海外以前の時代のおもな仕事は『神秘哲学』と Language and Magic (1956年、邦題は『言語と呪術』)だ。『神秘哲学』はソクラテス以前からいわゆる新プラトン主義のプロティノスまでを描く独特なギリシア哲学史の本である。『言語と呪術』とは、ごくおおざっぱにいえば、言語にはいまでいう「パフォーマティヴ」な側面がつねに備わっており、なおかつその機能の源泉は、根本的には「呪術的」と呼ぶほかないある種の力によってもたらされているのではないか、と主張する本である。
 ふたつめの時期は海外生活時代である。この時期井筒は、カナダやイランなど各国を転々とし、イスラーム哲学、とくにスーフィズムと呼ばれる神秘思想や、老荘思想など東洋の哲学にかんする仕事を英語で発表している。このときの主著が Sufism and Taoism である。これはイランのイスラーム哲学者、イブン・アラビー(1165-1240)と、中国の老荘思想をもちだして、それぞれの鍵概念を分析し、両者のあいだにある種の構造的類似性をみいだすものだ。
 1979年にイラン革命が勃発したため、井筒は滞在先のテヘランから帰国し、以後は日本語で著作を行なった。これが第三の時期だ。この時期の特徴は「東洋哲学」を主題にしたことである。井筒は、いわば自身の仕事の集大成として「東洋哲学の共時的構造化」というプロジェクトに着手する。その代表的な仕事が『意識と本質』である。以後詳しく展開されるぼくたちの思索は、基本的にこの時期の諸著作をおもな対象とすることになるだろう。

 

          ■

 

「東洋哲学の共時的構造化」について、井筒はつぎのように語っている。

 

いま仮に極東、中東、近東と普通呼び慣わされている広大なアジア文化圏に古来展開された哲学的思惟の様々な伝統を東洋哲学という名で一括して通観する〔…〕東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的聯関から引き離して、共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化しなおしてみたい*3

 

東洋哲学に通底する共時論的構造の把握〔…〕要は、古いテクストを新しく読むということだ。「読む」、新しく読む、読みなおす。古いテクストを古いテクストではなく〔…〕古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み展開させていくこと*4

 

 簡単にいうと、「東洋哲学の共時的構造化」とは、現代の文脈にあわせて東洋の古いテクストを再解釈し(共時的)、ひとつの体系のもとに再構築すること(構造化)だ。彼はこれによって西洋と東洋の比較が真に可能になると考えた。すでに述べたように、この試みを代表するのが『意識と本質』という作品である。具体的な分析は以後にゆずるが、あえて一言でいえば、『意識と本質』というのは、人間の意識が現象と本体——井筒の言葉でいうと存在者の「本質」と「存在」——とのあいだに、どのような関係性をもつのかという観点から、東洋哲学の根本的な性質を明らかにしようとした本だ。ここでの井筒のおもな主張のひとつは、ようするに東洋の思想においては、究極的に人間の意識が存在と端的に一致するというものだった。

 

「未発」とは〔…〕第一次的には心の未発動状態。だがしかし〔…〕それは全存在世界の未展開状態をも意味する。意識のゼロ・ポイントであって、同時に存在のゼロ・ポイント。〔…〕これは宋学だけでなく、東洋哲学の大部分に共通する顕著な特徴であるのだが〔…〕意識と存在、内と外、は密接な相関関係にあり、窮極的には全く一つである*5

 

 単純にいうと、井筒はたとえば老子宇宙論における「道」のような、ある絶対的なひとつの「存在」が自己分節することで世界が形成されると考えている(「道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む…」)。そのうえで彼は、このような単一の存在が自己分節してゆくプロセスと、人間が言語や意識によって事物を分節してゆくプロセスとのあいだには、たんなる相関性があるだけでなく、むしろ万物が無分節になる一点、つまり「ゼロ・ポイント」で意識が存在そのものに到達し、両者は統一されると考えた。そして、それこそが東洋の形而上学的思考のひとつのおおきな傾向であると述べたのである。井筒はこの傾向を「意識即存在」という言葉で表現している*6

 

 意識と存在がたんに相関的な分節プロセスをたどるだけでなく、究極的には両者が端的に一致する。そこには人間の意識と存在そのものを隔てるものはない。これが井筒が「東洋哲学」のなかにみいだした理論的な傾向である。一見してあきらかなように、ここにはいわゆるカント的な意味での(有限性をもった)認識という次元が介在していない。のちほど確認するが、この観点は、ある意味で中国の牟宗三とかなり近いものがある。 

 

 西洋の文脈を把握したうえで、新しい「東洋哲学」の構築を試みた井筒俊彦だが、しかし彼は自分自身とおなじ時代にべつの地域で同様の試みがあったことには無頓着だったようにみえる。ぼくがここで念頭に置いているのは、20世紀後半のいわゆる現代新儒家である。じっさい、井筒の本を読んでいると、彼は京都学派をのぞき、東アジアにある類似の試みにはいっさい触れないまま、新しい「東洋哲学」について語っている。
 これは井筒本人に限ったことではない。目下日本で行なわれている井筒俊彦研究は、おおむね井筒の思想体系の分析やおのおのの古典解釈の検討にくわえ、井筒が提示したあらたな「東洋哲学」を継承し発展させるといった方向に分類できるのだが、このあらたな「東洋哲学」を語るときには、ひとはいまだに中国とくに現代中国といった観点をまったく欠いたまま、「東洋哲学」の未来を語っているのである*7


 井筒本人にかんしていえば、彼はあまりに広大な領域に目を向けていたので、このような見落としがあったとしても多少やむをえないところがある。とはいえ、後世のぼくたちがそれにならって無頓着でありつづけているのはよくないだろう。つまりぼくたちは、さまざまな国や地域に分散する「東洋哲学の共時的構造化」という試みそのものを共時的に接続し、継承しなければならないのだ。そこで井筒と同時代のべつの試みとして、いわゆる現代新儒家の、とりわけもっとも理論的な成功をおさめた人物のひとりである牟宗三を参照したい。これからみていくように、牟もまた、20世紀後半の東アジアで、東洋哲学(彼は一貫して「中国哲学」というが)の体系的な再構築を試みた人物だ。(つづく)

 

 

*1:儒家井筒俊彦という比較の組み合わせはぼくの知るかぎり皆無だが、西田幾多郎ら京都学派と新儒家を比較する試みはすでにある程度行なわれている。たとえば、朝倉友海『「東アジアに哲学はない」のか——京都学派と新儒家』(岩波書店、2014年) 、吳汝鈞 《純粹力動現象學》(台灣商務印書館,2005年)、Yuk Hui, The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics (Urbanomic, 2016)など参照。つまりぼくは、ややマニアックな文脈でいえば、「京都学派と新儒家」という比較研究の存在を念頭においたうえで、いやむしろ井筒と新儒家ではないか、と言ってみようとしているわけだ。

*2:さらに詳しく知りたいひとは、まず若松英輔井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011年)を読むべきである。また、このあいだ刊行された『群像』の2020年7月号に掲載された安藤礼二の「井筒俊彦——ディオニュソス的人間の肖像」も参考になる。目下、ある一貫性のもとに井筒俊彦の全体像を示し、彼を近代日本の精神史のなかに位置づけるという作業は基本的にこのふたりの批評的な仕事によって進められている。若松・安藤編『言語の根源と哲学の発生 増補新版』(河出書房新社、2017年)なども参照。

*3:井筒俊彦『意識と本質——精神的東洋を索めて』、岩波文庫、1991年、7頁。

*4:井筒『意識の形而上学——「大乗起信論」の哲学』、中央公論社、1993年、11-12頁。

*5:井筒『意識と本質』、82頁。

*6:「意識と存在の統一」にかんする議論は『意識と本質』に詳しく書かれているが、『イスラーム哲学の原像』(岩波新書、1980年)110頁以降にも簡潔にまとめられているので、そちらも参照のこと。

*7:たとえば近年相次いで刊行されている論集を見ると、わずかな例外をのぞき、中国に関連する論考はほとんどないことがわかる。もちろん、近代以降の中国(思想)はまるで存在しないかのような扱いである(ただ論集全体としては興味深く、たいへん勉強になる)。若松編『井筒俊彦ざんまい』(慶應義塾大学出版、2019年)、澤井義次・鎌田繁編『井筒俊彦の東洋哲学』(慶應義塾大学出版会、2018年)、若松・安藤編『言語の根源と哲学の発生 増補新版』(河出書房新社、2017年)など参照。

【发言稿】井筒俊彦与牟宗三_导言

 

 

之前在研究室里做了简单的发言,题目是“井筒俊彦与牟宗三”。由于发言时间的关系,我只能介绍基础性的信息以及自己想探讨的关键问题。下面所发表的是此时所用的发言稿。

 

          ■

 

 作为硕士论文的主题,我打算对中国的牟宗三和日本的井筒俊彦这两位20世纪的哲学家进行比较。井筒俊彦和牟宗三在他们自己的国家里被认为是20世纪的具有代表性哲学家之一,不过遗憾的是牟宗三在日本的知名度以及井筒俊彦在中国的知名度都非常低。因此,自然就从来没有人对两者进行对比*1尽管如此,我认为两者之间有丰富的比较的可能性。由于时间的关系,我想在这次的发表中简单地说明一下我的论文的导言的部分和以后想展开的讨论的方向。

 关于牟宗三的工作或至少他的名字,可能有很多人都知道或听说过,但恐怕知道井筒俊彦的人并不多,所以首先我介绍一下井筒俊彦

 

 ## 1

 

 井筒是出生于东京的哲学家,他不仅研究古希腊、伊斯兰和东亚的哲学,也研究西方文学和法国当代思想。他庆应大学毕业以后就当了讲师,然后从1959年开始在加拿大和中东各国度过了20年的研究生活,那时他用英文写了很多书。那个时期的井筒的代表作是《Sufism and Taoism》,即是彻底地分析伊朗的哲学家伊本・阿拉比(Ibn Arabi)和中国的道家思想。后来由于1979年的伊朗伊斯兰革命的爆发,井筒从伊朗回到日本去,然后开始用日文写作。从那以后,作为自己的研究的集大成,井筒就着手“东方哲学的共时的结构化”这个项目。

 

掌握东方哲学之共同的共时的结构〔…〕就是要重新阅读传统的文本。要“阅读”、以新的视角阅读、重新阅读。不是将传统文本看做传统的〔…〕而为了使古典的文本所暗示的哲学思维的可能性,创造性地、面向未来性地展开而阅读。*2

 

 根据井筒,“东方哲学的共时的结构化” 是指在当代思想的文脉下重新解释东方传统的一些文本,以及在一个体系的基础上将它们重新作为新的一个结构。井筒认为经过这样的结构化,我们才能真正意义上进行东西哲学的比较。《意识与本质》这本书就是代表着井筒的这个尝试的一部作品。用一句话来说,在《意识与本质》里,通过探讨在东方的一些传统思想中的人的意识跟现象和本体——用井筒的话来说是“本质和存在”——之间的关系,井筒试图阐明东方哲学的一个根本的性质。他的主要的一个结论是在东方的哲学中有一个倾向,就是人的意识能够在它的最高的境界上和存在合而为一。

 

这意识的绝对零点(zero point),同时也是存在的绝对零点。〔…〕这不仅是宋明理学的特色,也是大部分的东方哲学之间的共同的显著特点。意识与存在,内面与外面是密切相关的,归根结底是一体的。*3

 

简单地说,井筒认为就像老子的宇宙论中的“道”一样,世界是由一个绝对的“存在”的自我分节(self-articulation)而形成的。与此同时,他强调在这样的存在的自我分节的过程和人类通过语言和意识来分节各种事物的过程之间具有一种同一性。据此他断言在这两个过程的起点上,也就是绝对零点上就实现意识和存在的统一。根据井筒,这是东方的形上学的主要的一个思维倾向。他将这种倾向叫做“意识即存在”*4

 

 意识和存在不仅分享几乎同一的分节过程,甚至也能够合而为一。我们很容易发现在这样的思维方式里就缺少着康德意义上的认识的有限性的视角,尽管井筒他基本上不提到康德的哲学,但我们可以说,在井筒的东方哲学中人类能超越康德式的认识之限制而直接达到存在本身。稍后我们确认一下这个论点在某种程度上很接近于中国的牟宗三的观点。

 

 虽然井筒俊彦在西方现当代的文脉下,试图构建新的“东方哲学”的体系,但是他却似乎完全没有注意到当时有人在不同的地域上从事着类似的尝试,比如说香港和台湾等地区的现代新儒家。我们看一些井筒的书就能发现,虽然他讲的是“新的东方哲学”,但除了京都学派的哲学以外,东亚国家的其他的尝试一概不谈。

 这个问题并不限于井筒本人。目前在日本有些人试图将井筒所构想的“新的东方哲学”进一步发展,不过那些人讲“新的东方哲学”以及它的未来的时候,他们仍然没有中国尤其是现当代中国这个观点*5

 牟宗三以他的中国哲学史的全面性的重新构建和中国哲学与康德的批判哲学的比较等工作而闻名,这次我主要关注后者的工作。这在《智的直觉与中国哲学》以及随后出版的的《现象与物自身》等著作中进行。用一句话来讲,牟宗三的主要策略之一就是根据康德所说的现象界和本体界的区别阐明西方哲学和中国哲学的差异,并且表示后者的重要性。比如牟宗三说:

 

依康德智的直觉只属于上帝,吾人不能有之。我以为这影响太大。我反观中国的哲学,若以康德的词语衡之,我乃见出无论儒释或道,似乎都以肯定了吾人可有智的直觉,否则成圣成佛,乃至成真人,具不可能。*6

 

牟宗三说,康德认为因为人没有智的直觉,它只属于上帝,因此人不能超越认识这个层次而直接掌握事物本身,然而在中国哲学之中,人也能达到事物本身。那么牟宗三提出这种主张的根据是什么呢?

 

存有轮是如何骄傲的一个名称!康德把它谦和化而为超越的哲学,纯粹知性底超越分解。我再就康德的谦和,如期本性,把它说为使知性之执之所至。存有论就是成就遍计执以为经验知识的可能立基础。因此,这个存有论就是执的存有论,因而亦就是现象界的存有论,因为现象本亦就是执成的。*7

 

简单地说,牟宗三认为康德所讲的作为规定人类经验的可能性的条件的认识就相当于佛家所说的“执着”。除此之外,牟宗三拿出宋明理学中的“见闻之知”等类似的概念,总之他认为在中国哲学里,成为圣人、佛陀或真人,可以说是脱离被“执着”限定的认识层次而达到更高的一个认识层次,因此在这一阶段上能获得到的直觉就是康德意义的智的直觉。

 正如上面所述,井筒俊彦所构想的东方哲学的根本特点就是“意识即存在”,也就是人的意识和存在能够统一。因为牟宗三不会说日语,井筒也对当代中国没有兴趣,所以恐怕生前的井筒和牟宗三之间一个交流都没有,他们也都不会知道彼此的工作。而且,像我以后在论文里叙述一般,他们的哲学之间有很多的区别。尽管如此,他们具有一个根本的共同之处:那就是,东方哲学的一个本质就是最广义的思考能跟存在一致,而且这里面不会介入康德式的认识这一层次。

 

## 2

 

 刚才我将井筒和牟宗三的主张概括为“思考和存在的一致”,这是有理由的。犹太人的哲学家汉娜・阿伦特在“什么是存在哲学?”这一篇文章中说到:

 

康德是现代哲学之隐秘的、但也可以说是真正的创始人。不仅如此,他还一直是隐秘之王。打破思考和存在的一致的人无非是康德。〔…〕如今,我们既不能确信现世的基督教世界的意义和存在,也不能确信古代的宇宙具有的永远在场(present)的存在。除此之外,连“知与物者即一也(aequatio intellectus et rei)”这一传统的真理的定义都维持不了了。*8

 

 康德的批判哲学表明,一方面存在超越了我们的思考领域,另一方面我们对现实的判断也超出了给予的存在概念。换句话说,即使人的思考要使用概念来说明各种各样的存在的性质,仍然完全不能说明存在的现实。

 在她的文章中,阿伦特分析了海德格尔等面对这个思考和存在的断绝的一些哲学家的尝试,但关于这点我们暂且不提,现在想提问的是;20世纪后期井筒和牟宗三在西方哲学的影响下,试图重新构建东方哲学以及通过各自独特的方法去肯定人达到存在本身的可能性,我们是否将这些挑战看做一种在康德以后的时代上重新恢复“思考和存在的一致”的东亚式的尝试?

 但问题是,今天对西方和东方的思想进行比较的时候,井筒和牟宗三的观点有多少有效性。例如,关于牟宗三哲学的一条生命线,即是“在中国哲学中,人也能有智的直觉”这一命题,康德本人给予了严厉的批评。

 

〔中国的哲人〕只要像是属于感性世界的理智居民,停留在感性界的内部就好了,不过他们却不这么做,总是想沉迷于妄想。〔…〕由此产生了将虚无视为最高善的老子教的奇怪体系。所谓虚无是指一种意识;这意识具有通过主观与神性的融合,从而又通过消灭自己的人格,而陷入在神性的深渊的一种感觉。*9

 

 康德在这里说的是,对于人类来说,理性(Vernunft,即不是知性 Verstand)的作用本来是经过在我们的心里起作用让我们进行实践,但是在像老子那样的中国思想中理性就超出这个作用,将理性的对象实在化(即将那对象看为能经验到的东西),并且感觉到人的思考和神性的一致,然而那是错误的妄想。因为康德讨论中国思想的地方非常有限,所以我们不知道他对中国思想的理解有多么正确,但是这个话不会仅限于对老子的批评。因为康德的批判哲学提出了人的知性认识的界限的目的之一就是以此遏制“人也能有智的直觉”这样的思维方式。我们能从《万物的终结》这个文本看出来,作为批判哲学应该遏制的对象,康德本人明显地意识到中国的哲学家以及他们的思维方式。

 牟宗三认为根据康德所说智的直觉只属于上帝,而人没有,可是在中国哲学中人也能有智的直觉。不过事实是相反的。也就是说,如果继续用康德的词来讲,首先中国的先贤们相信人能有智的直觉(甚至根据 Michael Puett 的研究,他们简直断言能够成为和上帝相同的存在((See Michael J. Puett, To Become a God: Cosmology, Sacrifice, and Self-Divinization in Early China, Harvard University Asia Center, 2002.),后来康德对这种思想说道智的直觉只属于上帝。那么,牟宗三的主张只不过是为了超越康德甚至整个西方哲学,在康德以后的时代将康德本人想要压制的思想形态再次拿出来而已吗? 更简单地说,牟宗三的讨论会不会只是将哲学的历史推翻过来而已?

 这不仅仅是牟宗三一个人的问题。井筒俊彦也为了表示“东西哲学的区别”,明确地提出了作为东方哲学的特点的“意识和存在的一致”。不过从康德的立场来说,这可能与其说是东西哲学的区别,不如说是近代和古代的区别? 如果是的话,那么今天我们如何能真正意义上进行东西哲学的比较呢? 或者如果这样的怀疑是不正确的话,那么到底是根据什么理由来否定它呢? 因此,为了探讨这些问题,首先我想从井筒俊彦和牟宗三的一些文章的分析开始讲我的论文的本论。

 

 目前我打算将本论分为两个部分。第一是分析井筒和牟宗三的文章。虽然今天我发表的内容有着相当粗略的地方,但在下面的第一部分我就会从如何实现“思考和存在的一致”或者思考和存在的关系是怎么样的等这样的角度出发,仔细探讨井筒俊彦和牟宗三的著作。第二是整理一下从两者的分析中得出的论点以及对两人进行对比。井筒和牟宗三之间有不少区别。我想明确那些区别的同时,最终能从两人的哲学中抽出我们能继承的一个或者几个共同问题就好了。关于本论的这些论点我还在思考和整理的过程中,希望在下一次发表的时候比较清楚地讲给大家。今天我的发表到此为止。谢谢大家!

 

*1:根据我的理解,虽然目前没有新儒家井筒俊彦的比较研究,但新儒家和京都学派的比较的话,已经有些前例。请参考朝仓友海《「东アジアに哲学はない」のか——京都学派と新儒家》(岩波书店、2014年) 、吴汝钧 《纯粹力动现象学》(台湾商务印书馆,2005年)、Yuk Hui, The Question Concerning Technology in China: An Essay on Cosmotechnics(Urbanomic, 2016)等。

*2:井筒俊彦《意识の形而上学——「大乘起信论」の哲学》、中央公论社、1993年、11-12页。

*3:井筒《意识と本质——精神的東洋を索めて》、岩波文库、1991年、82页。

*4:关于“意识和存在的统一”的讨论,除了《意识与本质》以外,也可以参考《イスラーム哲学の原像》(岩波新书、1980年)。

*5:请看若松英輔编《井筒俊彦ざんまい》(庆应义塾大学出版、2019年)、泽井义次・镰田繁编《井筒俊彦の東洋哲学》(庆应义塾大学出版、2018年)、若松・安藤礼二编《言语の根源と哲学の发生 增补新版》(河出书房新社、2017年)等。。这样我们不能不说他们的视野的确很狭窄。于是作为和井筒同一时代的另一个尝试,我想讨论牟宗三的思想体系的同时,将它作为井筒的比较对象。因为在所谓的新儒家里,牟宗三是在理论方面取得了最高成就的人物之一。

 

 牟宗三是来自于山东的哲学家。北京大学毕业后,他在大陆的几所大学里当逻辑学等学科的讲师。在1949年的初夏,他只身逃往台湾,后来在香港和台湾进行中国哲学的研究。虽然现在牟宗三被认为是新儒家的主要代表人物之一,但我们要注意在他活跃的时代新儒家作为学派和框架还不存在,牟宗三他们的历史地位也在80年代以后才被追溯而确定下来((See John Makeham, "The Retrospective Creation of New Confucianism", Makeham ed., New Confucianism: A Critical Examination, Palgrave Macmillan, 2003.

*6:牟宗三《现象与物自身》,台湾学生书局,1990年,页5。

*7:《现象与物自身》,页399。

*8:Hannah Arendt, "What Is Existential Philosophy?", ed., Jerome Kohn, Essays in Understanding: 1930-1954kindle edition), Schocken, 2011.

*9:カント《万物の終わり》,《启蒙とは何か》,篠田英雄译,岩波文库,1974年所収,页99。

ひとの目を気にしないで生きるために

 

※もしあなたがこの題にまつわるなんらかの教訓や有効な手段を求めるならば、ただちにこのページを消し去らねばならない。いますぐにだ。そして可能であるならば、いつもブラウザの閲覧履歴を消すような仕方で、この雑文にたどり着く数分前からの記憶を抹消するべきである。なぜなら、以下の議論は、あなたがひとの目を気にしないで生きることを完全に不可能としてしまうからだ。

 

ぼくはけっこう他人の目を気にする人間であるが、できれば他人の目を気にしないで生きていきたい。けれども、他人の目を気にしないでいることはきわめて困難だ。じつのところ、どうすればよいかまったく想像もつかない。もちろん、「自分を信じればいいんだよ!」とか「気持ちの持ちようだよ!」などといった助言は蔑むことすら惜しまれるなにかとしてただちに棄却される。それらは完全に無益であるばかりか、時と呼気の無駄であるという点においては有害ですらある。そのことを示すために、ここで少し抽象的に考えてみよう。

 

抽象的といったが、さほど難しいことではない。ぼくのあまり頑張ってない文章を読むひまなどない忙しいひとのために*1、以下に要点を示そう。

 

1、他人の目を気にしないひととは、およそ自分の言動が他人にたいしてどのような結果をもたらすか、またそれによって他人がどのように(とりわけ自分にたいして)思うかについてまったく無頓着なひとのことである。

 

2、他人の目を気にしないひとは、「私は他人の目など気にしない」といってはならない。

 

3、他人の目を気にしないひとは、「私は『私は他人の目など気にしない』などといってはならない」と考えてはならない(以下無限後退)。

 

4、ゆえに他人の目を気にしないひとは、自分が他人の目を気にしているかどうかという問いからまったく隔絶されていなければならない。

 

5、意味とはつねになんらかの心的作用であるのではなく、むしろ知覚可能なしるしの使われ方であると考えるならば、あなたはじつに計算深く「他人の目を気にしないひと」になることもできる。しかしながら、それはとりもなおさず、もっとも他人の目を気にする生き方のひとつである。

 

それではくわしくみていこう。
他人の目を気にしないでいるために必要なのは、なによりまず「他人の目を気にしないひと」とはなにかを知ることである。そこでひとまず以下のように定義する。

 

1、他人の目を気にしないひととは、およそ自分の言動が他人にたいしてどのような結果をもたらすか、またそれによって他人がどのように(とりわけ自分にたいして)思うかについてまったく無頓着なひとのことである。

 

とくに難しいことはないだろう。
多少文句があっても我慢していただきたい。ぼくもこんなトピックについてあまりまじめに考えたくはないからだ。とりあえずこれで定義されたことにしよう。

 

他人の目を気にしないひとがどういうものかはわかった。では、つぎにどうすればなれるかを考えよう。いったいどうすればいいのか?

 

たとえば自分は他人の目など気にしていないと考えているひとが、だれかに向かって「私は他人の目など気にしない」というとき、それはいわばひとつの立場の表明であり、かならず「私はあなた(という他者あるいはひろく他者一般)に自分が『他人の目を気にしない人間』であると見なしてほしい」という欲望を暗示している(話し手が欲望を自覚しているかは問題ではない、言葉を発するというのはそういうことだ)。そうであるならば、じつは「私は他人の目など気にしない」という文言は、つねに(本質的に)他人の目を気にするひとによってのみ宣言されなければならない。だから:

 

2、他人の目を気にしないひとは、「私は他人の目など気にしない」といってはならない。

 

したがって、もしも他人の目を気にしないで生きようと思ったら、なによりまず「私は他人の目など気にしない」と言うことだけは避けなければならない。そしてじつに困ったことに、上記の理由で「私は『私は他人の目など気にしない』と言ってはならない」と考えるとき、ひとはすでにその宣言が他人に与える意味や印象にもとづいて自分の行動を決定あるいは制限していることになる。つまり、他人の目を気にしてしまっているのだ。だから、他人の目を気にしないひとは「『私は他人の目など気にしない』と言ってはならない」と考えることすら許されないのである(ここから無限の入れ子構造が立ち現れる)。ゆえに:

 

3、他人の目を気にしないひとは「私は『私は他人の目など気にしない』などといってはならない」と考えてはならない(以下無限後退)。

 

したがって、他人の目を気にしないで生きている(と自覚の有無にかかわらず信じている)ひとにとって、「あなたは他人の目を気にするか」という問いほど厄介なものはない。なぜなら、それを否定しようが肯定しようが、回答するやいなやかならず他人の目を気にするひととなってしまうからである。だからこそ:

 

4、ゆえに他人の目を気にしないひとは、自分が他人の目を気にしているかどうかという問いからまったく隔絶されていなければならない。

 

ぼくは他人の目を気にしないで生きてみたい。だけれども、ぼくにはそれがいったいどのようにして可能なのか、まったく見当もつかない。

 

ここですこし角度を変えて考えてみよう。

 

たとえばなにやら奇抜な格好をして外を出歩き、ひとから「あなたは他人の目を気にするひとですか」と聞かれるやいなや、まったくなんの打算もためらいもなく、即座に「納豆!」と宣言してラジオ体操を始め、まったく恥じる気配のないようなひとは、はたして他人の目を気にしていないのだろうか。「他人の目を気にしないひと」という言葉の常識的な用法を考えれば、それはただしいように思える。詳しく考えるのは面倒だが、私たちは通常そうした奇妙キテレツな行ないをするひとは、たいてい他人が自分をどう思うかなど考えていないはずだと思う。

 

しかしこれを読んだあなたが、そうか、そうすればよいのかと思って街へ繰り出し、おもむろに「納豆」と言ってのけたところで、もはやそれはのぞむような効果をもたらさないばかりか、それは「納豆」と口にすることの可能な帰結(ひとから「他人の目を気にしないひと」とみなされること)をあらかじめ想起しているという点で、じつはとても強く他人の目を気にしていることになるのである。それゆえ:

 

5、意味とはつねになんらかの心的作用であるのではなく、むしろ知覚可能なしるしの使われ方であると考えるならば、あなたはじつに計算深く「他人の目を気にしないひと」になることもできる。しかしながら、それはとりもなおさず、もっとも他人の目を気にする生き方のひとつである。

 

ここまで考えると、他人の目を気にしないで生きることがいかに難しいかがよくわかるだろう。いやむしろ、この困難さは思考そのものに由来している。つまり他人の目を気にしないで生きるにはどうすればよいだろうかとか、私は他人の目を気にしているのだろうか、などと考えはじめたとたん、この課題は限りなく不可能に近いものとなってしまうのである。つまりこれは問題自体にある種の罠が仕掛けられた悪質な問いなのだ。したがって、この文章をここまで読んでしまったひとはもはや後戻りができないだろう。ぼくが勧められる唯一の選択肢は、せいぜいいさぎよくあきらめて、現実的な落とし所をさぐるくらいだ。なんと平凡な答えだろう!

 

だからもし、あなたの身のまわりでいかにも他人の目を気にしないで生きていそうなひとを見かけたら、まずこのように問いかけてみよう。たとえ相手がどんな精神的境地に身をおいていようとも、彼女/彼はたちどころにこの悲劇的な沼に引きずりおろされるに違いない。残念だが、それが論理的帰結というものである。

 

 

*1:かくいうぼくもいまはわりと忙しいのだーーこんなつまらない情報のためだけに注を踏んでくださったすべてのひとにぼくは申し訳ないとおもう……。

【試論】再考“文”與“風土性”

  

  去年我花了大量的时间对中国传统的“文”的概念的现代性转化的可能性进行考察,结果我发现自己在追求的问题实在太大了,用几年的时光根本不会得到一定的“成果”。于是我暂时放弃了这个研究,最后去年12月在一个与台湾大学的工作坊里关于这个话题做了一次发言(下面的文章之所以用繁体字是因为这个原因)。还好大家的反应还好,但因为这是一种笔记,而不是正规的论文,当然逻辑也不完整,所以应该没有一个地方可以发表。于是发在自己的博客了……。

  将来有足够的能力和时间去探讨这个问题的时候,我就想写一本关于新的"文"的哲学的著作。

 

***

 

 前言


  隨著認知神經科學等方面的發展,我們能從新的一個角度來思考所謂“克服西方現代的二元論”那種已經相當陳腐的問題。那麼,通過這樣的思考方式重新看現有的文本,我們能講些什麼呢? 本稿主要有兩個目的。第一是擴展“風土”的概念。法國當代的東方學者邊留久(Augustin Berque)用“風土”的概念分析人類與自然環境互相結合的過程。我們試圖根據認知科學家 Mark Changizi and Shinsuke Shimojo 的一個理論,從符號與環境的關係這個角度來進一步擴展邊留久的風土概念。第二是對“文”的概念的再思考。我們想用邊留久的理論以及關於符號與環境的討論,從與經典解釋學的框架不一樣的方向重新思考“文”的概念,以及在《文心雕龍・原道篇》裡展開的人類與自然環境的關係。


 1 《文心雕龍・原道篇》的文的概念


  首先我簡單地梳理一下《文心雕龍・原道篇》。關注《原道篇》理由是因為這個文章通過利用文的概念的多義性[★1] ,說明人類與自然環境的一種連續性。原道篇的開頭是這樣的。

  

文之為德也大矣,與天地并生者何哉? 夫玄黃色雜,方圓體分,日月疊璧,以垂麗天之象;山川煥綺,以鋪理地之形:此蓋道之文也。仰觀吐曜,俯察含章,高卑定位,故兩儀既生矣。惟人參之,性靈所鍾,是謂三才。為五行之秀,實天地之心。心生而言立,言立而文明,自然之道也。傍及萬品,動植皆文。[★2]

 

從下劃線的部分可以看出,“文”這個字在這裡出現了四次,我們將它們分為兩個意思。第一個意思是像在《說文解字》所說的“文,錯畫也”這樣的線條的交叉的意思,這可以包含自然物的花紋。“文之為德也大矣”、“此蓋道之文也”以及“動植皆文”這三個句子中的文,基本上都有這個含義。另外,在“心生而言立,言立而文明,自然之道也”的部分的“文”是指文章或者文學。這裡值得注意的是,不僅是“道之文”和動植物的文,人的文章也來源於“自然之道”。也就是說,自然之文和人之文都是由同一個原理產生出來的。

 

龍鳳以藻繪呈瑞,虎豹以炳蔚凝姿,雲霞雕色,有踰畫工之妙;草木賁華,無待錦匠之奇。夫豈外飾,蓋自然耳。至於林籟結響,調如竽瑟。泉石激韻,和若球鍠,故形立則章成矣,聲發則文生矣。夫以無識之物,鬱然有采,有心之器,其無文歟?[★3]

 

從這個部分也可以看出同樣的想法。在這裡劉勰經過描寫“無識之物”——也就是沒有心的動植物和雲霞等東西之中的“文”,再一次強調作為“有心之器”的人也必然擁有“文”。關於《原道篇》的“文”的字的這種用法,日本的漢學家興膳宏先生說“劉勰講他的文學原理論時,巧妙地運用漢字獨特的雙重性或多義性” [★4]。確實在這裡,“文”這個漢字表達了“自然的花紋”和“人類的文章”這兩個從字面上看完全不同的含義。這不僅僅表現了這兩個詞語的同源性,也顯示出了一種(詞語間的)連續性。可是這個連續性為什麼成立呢? 這與文的概念的“美”這個含義很有關係。許多學者都指出,不管是自然的還是人的,《文心雕龍》中的文都以“美”為其特色。

 

在動植物身上,風的聲音裡,水的細流中都普遍存在著美麗的自然之文,那麼擁有靈妙的心智的人如何没有文呢?[…] 就像美麗的雲霞,草木的色彩一樣,人的文章也應該具有自然之美[…][★5]

 

這是日本的漢學家目加田誠先生的評論。“就像美麗的雲霞,草木的色彩一樣,人的文章也應該具有自然之美”這句話表示,以“美”的含義為共同點,自然與人的兩種文之間存在一種類比性的連接關係。事實上,之前所引用的兩個部分也重複同一個說法,即先說明自然之文的存在以後,強調人之文的存在的必然性。
  但另一方面,根據語言的多義性和類比性的連接關係不同,現當代思想的研究更具體而詳細地表示人類與環境的連續性關係。邊留久是其中最具有代表性的一個思想家。


 2 風土性與符號的通態


  邊留久以中國的詩歌、繪畫以及西方和日本的關於風景的討論等為線索,分析了人類和自然環境的相互關係。對他來講,人和文化總是受到環境的影響,但環境也卻被人類不斷地改變。邊留久將這種相互關係以及人類所改變的環境本身稱作“風土”。“風土”這個詞是邊留久本人選擇的日文和中文的譯詞。他的“風土”概念有兩種含義的理由是作為環境的“風土”就是從人與環境的關係中產生出來的。
  邊留久的關於“風土”的討論主要有兩個目的。第一個是試圖解構人類與環境、主觀與客觀等二元論,而另一個是通過在人的“實存“的分析中引進環境和空間等要素,批判地繼承海德格爾的存在哲學與和辻哲郎的風土論。

 

風土是從通態的過程中產生出來的,而通過這個過程,人能將自己的身體功能投射到環境裡。我們的風物身體就是這樣形成的。此時人的存在分成兩個半球——即是我們的動物身體和風物身體——[…] 一個半球是風物身體,它被技術與符號嵌入在環境中。動物身體是另外一個半球。[…]儘管這兩個半球的性質不同,它們仍然屬於同一個存在。因此這個本體論結構,根據這兩個半球形成著充滿活力的統一性。[★6]

 

這是邊留久的風土理論的經典之作《風土學導論》的一部分。在這裡邊留久用“動物身體”和“風物身體”的統一這樣的說法說明的是,人一方面作為一種動物必須要符合於生理學的規律的同時,也能夠脫離於規律而用技術和符號對自然環境起作用。在邊留久的定義中,技術是將人的身體功能投影到環境中並對其產生影響,符號是將外部的環境表現在人的身上。也就是說,人類作為動物被自然環境界定的同時,也通過技術改變環境,通過符號描述環境。因此,人類總不是純粹的主體,而且作為純粹客體的自然環境也不存在。邊留久將這種相互結合的關係稱為“通態”。通態是風土性的本質。邊留久表示,通態是“兩個以上的系統的動態組合。主觀/客觀、自然/文化、偶然與界定的組合”[★7] 。根據我的分析,邊留久的通態概念有兩個階段,第一個階段是指人的動物性和風土性的結合,也就是生理學的界定和人類固有的性質的動態組合。第二個階段是人類固有的性質本身展開的跟環境之間的連續性。

 

在通態中,人類與非人類之間,並不存在可觸知的界限。的確,人類世界的技術與符號性拓展並不享有共通尺度,但原則上來說是同樣的[…]通過技術宇宙化的事物必然通過符號被身體化。[★8]

 

這是翻成中文的另外一篇文章。下劃線的部分可以看出,在邊留久的理論中,技術和符號被看作成人類與自然環境的通態關係的一個要素。反過來講,甚至在為了解構主體和客體的二元論而強調人類與環境的通態的邊留久的討論裡面,符號被認為是人類的文化產物,這是他討論的前。換句話說,他並沒有考慮符號本身的通態的可能性。
  當然,因為邊留久的分析基本上以人的實存為對象,所以我們可以說這也是沒有辦法的事情。但現在的科學研究提出了與這樣的符號觀不一樣的看法。根據美國的科學家 Mark Changizi 和日本的科學家下條信輔的理論[★9] ,包括漢字、拼音文字等幾乎所有的文字、符號系統之間存在著一個共同的結構傾向,而且這個傾向跟自然物的形狀和位置關係等信息有密切的關係。下面我簡單地介紹一下他們的研究。

 

 2-1 嵌入文字符號的自然性


  在分析文字符號的時候,Changizi 和下條注意到“拓撲性質(topological property)” 和 “幾何學性質(geometrical property)” 的區別。簡單地說,拓撲性質是指抽象的線條的交叉模式,幾何學性質是指各個線條的具體的形狀和角度。在他們的研究中,Changizi 和下條只有注重拓墣性質,而不關注幾何學性質。這是因為前者是不受各種條件影響的、更穩定的形狀概念。

 

This topological notion of shape has an advantage over more geometrically based notions, where the specific stroke/contour shape and orientation would matter: typically, any given human visual sign can undergo significant variability in its geometrical structure without losing its identity, but typically, its topology cannot vary.[★10]

 

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上圖[★11]表示了拓撲性質和幾何學性質的區別和關係。簡單地說,一個拓撲形狀能具有多樣的幾何學性質的變體。他們的實驗方法是:通過將文字、記號,還有自然物等東西看為拓撲性的“結構要素(configuration type)”的集合體,分析各種東西的結構的傾向性,即“結構分布(configuration distribution)”。結果他們發現,人類的幾乎所有的文字、符號之間有一種拓墣性質上的規律性,而且其規律性被自然物的存在方式所界定。

 

Our third and final result was that the signature configuration distribution for human visual signs closely matches that of natural scenes, in that their ranks are highly correlated. This serves to provide evidence for the ecological hypothesis that because we have evolved to be competent at processing the configuration types found in natural scenes, there has been cultural selection pressure for human visual signs to disproportionately possess the naturally common configuration types.[★12]

 

下劃線表示文字符號的結構要素的處理方式和空間的認知方式有對應關係。換個角度來講,各種文字、符號系統在其內部構造上模仿著自然環境的形狀。然而,值得注意的是,他們表明的文字符號的內部結構所擁有的跟自然環境的關係只限定於拓撲性質上。如上面所說,Changizi 和下條分別注意到拓撲性質和幾何學性質以後,又將後者故意地排除掉。

 

[T]he geometrical properties of such conglomerations will change substantially with the observer’s viewpoint (i.e., accidental properties), whereas the topological properties will be viewpoint invariant (non- accidental) to a much greater extent.[★13]

 

這是他們排除幾何學性質的理。因為幾何性是太多樣化的、有太多的偶然性的性質,根本無法導出一個一般性的規律。由此可見,實際上文字、符號是由兩個不同的系統的組合而形成的,第一個系統是非偶然的、和自然環境之間有一種連續性的拓撲性質,第二個系統是偶然的、根據觀察者的觀點而變化的幾何學性質。大膽地說,以多樣性和偶然性為特色的、無法與自然規律完全一致的幾何學性質是一種人類固有的文化性的源泉。
  正如上面所述,邊留久將通態定義為“兩個以上的系統的動態組合。主觀/客觀、自然/文化、偶然與界定的組合”。雖然邊留久考慮的是人類與環境的相互關係的形式以及人類的動物身體與風物身體的組合,但是如果將文字、符號的性質理解為從自然環境受到結構性界定的拓撲性質與作為文化的多樣性和偶然性之根源的幾何學性質的動態組合,那麼文字、符號之中是否也有一種通態性? 如是的話,我們就可以說,雖然在邊留久所提倡的風土性關係當中符號只是成立人類與環境的相互關係的一個構成要素,但實際上,符號本身就體現了一種通態性,也就是自然環境和人類的文化的連續性。我們暫時將它稱為“符號的本體論的通態”


 3 文字符號的幾何學性通態?——Changizi and Shimojo 的理論和“文”的區別


  現在回到“文”的問題吧。對我們來講,在上面所述的文字及符號的通態性讓人想起“文”的概念。確實,兩者之間就有表面上的類似性;“自然之文”的“文”本來意味著線條的交叉以及由其構成的花紋,而且Changizi 和下條所關注的拓撲性質也是指線條的交叉模式。然而,我們不應該將“文”和符號或文字直接連在一起。因為兩者之間存在著明顯的差異。
  首先,《原道篇》說的“人之文”不是文字與符號,而是文章或文學。除此之外,“文”的概念所表示的人類與自然環境的連續性是以美為關鍵,這與關於符號的拓撲性質的討論完全不同。因為與美這種強烈的體驗不同,拓撲性質幾乎不會被意識到。

 

The part of our brains that performs visual computations is arranged in a hierarchy. The lower areas of the hierarchy——the first place where visual processing takes place on the brains’s way to object recognition——deal with simpler parts like contours, slightly higher areas then deal with simple combinations of contours, and finally, the highest areas of the hierarchy recognize and perceive full objects[…][when you see a cube in front of a pyramid,] You don’t ‘see’ the dozen-plus contours the same way. Nor do you ‘see’ the many corners and junctions where those contours intersect.[★14]

 

正如從下劃線的部分可以看出,與美這種強烈的體驗相反,拓撲性質幾乎不會被意識到,可是 Changizi 和下條表明的就是在無法看見的線條交叉的層次上展開的符號與自然環境的連續性。順便說一下,根據 Changizi他們的看法,拓撲性質的分析離不開計算機技術的發展和合適的算法的選擇。
  然而,美的感知必須要“認識和知覺整個物體(recognize and perceive full objects)”的信息處理方式,因此,用 Changizi 和下條的話來講,《原道篇》的文的概念所表現的人類與自然環境的連續性總是在幾何學性質的層次上展開的。簡單地說,文的連續性從原理上講是能被體驗到的,而拓撲性質上的連續性卻不能被體驗到。這個差異表示“文”的連續性暗示著與最近的科學成果中發現的“符號的通態性”不同的通態性的存在。那麼,這種連續性具有什麼意義呢?這是我們的最後的論點。
  首先,我們回憶一下邊留久的通態概念的兩個階段。第一個階段是動物身體與風物身體的結合,而第二個階段是人類固有的風物身體本身與自然環境之間的關係。雖然我們這次提出了“符號的本體論的通態”這個概念,但它仍然停留在邊留久所說的“通態”的第一個階段上,即是必須符合自然規律的側面(動物身體/拓撲性質)和人類固有的側面(風物身體/幾何學性質)的動態的結合,但還沒有說明通態的第二個階段,也就是人類固有的側面本身能展開的跟自然環境的關係。儘管我們不應將“文”和符號或文字直接連在一起,我們還是可以說,為了思考文字符號的幾何學性質上的通態性,“文”的連續性的確有成為一個線索的可能性。


 總結 


  這次我們考察了兩個問題。第一個問題是,在認知科學等發展的背景下,是否能夠擴展“風土”概念? 關於這個問題,通過分析 Changizi and Shimojo,我們提倡“符號的本體論的通態”。這個概念可以描述在人與環境的風土性關係之中幾乎沒有被思考過的文字符號和自然環境之間的一種連續性。第二個問題是,使用邊留久的“風土”概念和“符號的本體論的通態”,在“文”的概念的豐富的可能性中能夠添加一個什麼樣的觀點? 我們在將符號的通態性與文的連續性加以比較的過程當中,注意到《原道篇》的文的概念表示的人類與自然環境的連續性的關鍵因素是“美”,以及將它理解為書寫的幾何學性質上的通態可能性。由此可見,為了補充“符號的本體論的通態”的概念,文的連續性有可能成為一個重要的線索。

 

 

1:關於《文心雕龍》的“文”的概念的多義性以及其解釋歷史,請看威良徳《中国文論話語的還原——以『文心雕龍』之 “文”為中心》,《〈文心雕龍〉與 21 世紀文論研究》,中國《文心雕龍》學會編,學苑出版社,2009 年等。
2:詹鉠《文心雕龍義証》上,上海戶籍出版社,1989 年,第 2~8 頁。
3:詹鉠,1989 年,9 頁。
4:興膳宏「『文心雕龍』の自然観照——その源流を求めて——」、『中國の文學理論』、221 頁
5:目加田誠『文心雕⻯』,龍渓書舎,1986 年,第 11 頁。
6:オギュスタン・ベルク中山元譯『風土學序説』筑摩書房,2002 年,第 223-224 頁。
7:ベルク,篠田勝英譯『風土の日本——自然と文化の通態』,ちくま學藝文庫,212 頁。
8:Berque, Y-a-t-il un tequnique naturelle? Research Network for Philosophy and Technology, 2018, p.20.(劉楠譯『論一種 自然技術的存在』,器道哲学与技術網絡,2018 年,第 7 頁。譯文略微改變了)
9:Mark A. Changizi and Shinsuke Shimojo, et al., “The Structures of Letters and Symbols throughout Human History Are Selected to Match Those Found in Objects in Natural Scenes”, American Naturalists, vol.167 (2006), pp.117-139.
10:Ibid., p.128.
11:Changizi, Shimojo, et al., (2006) p.118
12:Ibid., p.129.
13:Ibid., p.119.
14:Changizi, The Vision Revolution: How the Latest Research Overturns Everything We Thought We Knew About Human Vision, BenBella Books, 2010, pp.178-180.

 


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詹鉠《文心雕龍義証》上,上海戸籍出版社,1989年

真夏の猫

※「〳〵」はくりかえし記号

 

 昧爽既に山ぎはは真白、人の起きたるを待たで鳴きたる蟬の喧囂、高潔聡明の云はれも最早今は昔ぞかし。唐土が騒人處士の、かれを以て賢に見立てたるは、まこと暑さにお頭の厶りしゆゑならむと扇しならせ一人合點。絶へず枕の浮きて吾が袖濡れたるは、見ぬ目の憂きにも世を忍ぶるにもあらず、即ち獨り汗玉の高じて大河と爲るのみなり。褥を發つさへもの憂きに、輾轉二轉三轉の果てなきは三峡の河上り、夢郷の境、逍遥く刹那にぶん〳〵蚊の音、儚く破るるいたちごつこ。かくなる儘に、廻る廻るわ時計の大小、書生は即ち之れ人生の休暇、況や本日休暇は葉月の十日、朝寝の一、二何の論ずる處ぞや、そも書生はもとより暁を覺えて過ぐる者、天地に恥ずるは絶へて無用ぞかしと云ひてはうと〳〵、更に數刻黒甜郷裡に遊びたるもまた己には覺えざることなりき。

 

 扨々疾うに金烏は南中、蟬はいとゞ喧しきに吾やう〳〵驚きぬ。褥はしとゞに濡れて末の松山、體反して時計を見るに、南無三、二分過ぎたりお八つの時間、意はけつするもの、けすものは火なり。褥を發てば六畳一間にでんと陣取る丸机、上にはちり紙漱石急須に茶碗、更に立錐の遑だにもなし。机を除ければちり紙はら〳〵、洛陽城東なればをかしきものをと蹴散らし散らし、みだれ髪もそのまゝに蕎麦屋がり發ちぬ。

 

 下宿が軒下幅は五寸の日陰を選みて平地によろ〳〵綱渡り、寝ぼけゆゑに定まらぬ足遣ひ、云ふなれば素面の宿酔のをかしさぞかし。

 

 數丈目先の軒果つる端つこ、影はなきそこに猫の一匹あり。黄土の毛色にうつすら虎の縞模樣、耳裏稍傷ましく爛れて、吾に向くるは先の曲がれる鉤尾つぽなり。二三歩寄りても更に氣付かず、如何にと看るに腰高頭低のすべり臺、目先にしゆる〳〵蛇の鎌首、上がりたり五条大橋の幕。猫はずむぐり、蛇はさらぬ三尺ばかりの牛蒡縞、されど窮鼠の嚙むは猫の大腹、蛇の嚙むは之れ云ふもさらなり。寄ること更に二歩餘、フウと漏るる憤慨の氣に怒毛天を衝く勢ひ、鉤尾つぽもさながらぶわゝと膨れる仙人掌ぞかし。蛇はじつと腹這ひ、尾つぽは隠るとぐろの裡、絶へず動くは二叉の舌先、見れば根迄ぷつ〳〵、舌は血も滴る鮮紅なれば、暗き牛蒡に映えておぞましおそろし。やがてとぐろを解きて真白な鳩胸どゝん、鱗は竝べて菱形、歴歴と際立つ間隙に付着せる砂の粒粒、吾を見下ろす瞳は濁りて死んだ魚の冷冽さ。

 

 今に〳〵と睨むうちにしびれの切れてヤツと出したる弓手の爪、懶惰の内に昨日切りし鋭さの幸ひ、眼下に走るは一筋の傷、舌先に漏るゝは一層の怒、憤気朦朦として渦を爲しては體軀を囲繞してたゞならぬ氣色、猫の後の身にも危険はしられけり、知らず三歩の後ずさり。見るに、猫は變はらぬすべり臺、尾つぽの仙人掌もいよゝ膨れて毛毛の本白みたるまで手に取るが如し。見上ぐれば淺からぬ傷、血は頬を傳つて牙より雫と爲る。鱗は怒りに逆立ち半ば捲れて痛まし。血走つて飛出す眼、舌は出入り激しく今にぷちんと千切れんばかり、

 

(未完)

留学体験記が載らなかった

秋になって留学体験記を書いた。所属している大学の中文科の先生から書けといわれたものだ(留学事務所からいわれてたものは書くのをすっかり忘れていた。催促もなにも来なかったので、それほど重要じゃなかったらしい)。先生からは好きに書いてくれといわれたのだが、なかなかに困った。

 

このことについてはすでにいろいろ書いているので詳しくはいわないが、ようは「目標・努力・達成」の三点でばっちり整理できるような留学の体験記は、本来ある種の偶然性と軽薄さから逃れられないはずの留学(※1)という経験(それは観光に非常に近似している)を、きまじめで目的論的な虚構に落とし込んでしまう可能性を少なからず秘めており、それゆえ留学を志して体験記を手に取る人びとに無益な幻想を与えかねないのではないか、という懸念があったというわけだ。とはいえ、いっぽうで、おおくの人が(とりわけ体験記を書かせようとするような人が)帰国した留学生に求めるのは、責任ある主体として語られる努力と成長の物語なのであって、あえてその期待を裏切らないということもまた重要であるようにも思われた。ぼくにとって、この相反する要求を満たしつつ、1000字程度でまとまった経験の語りをすることはたいへん難しいことだった。

 

しばらくのあいだ、あれこれ考えてみたり試しに書いてみたりしたのだが、結局ぼくはこうした問題をすべて放棄して、単純に書きたいことを書くことにした。少なからず無責任だとは思ったが、べつに中文科からは留学の補助金奨学金をもらっていたわけでもないし、掲載されるのも紀要の附録というたいへん内輪な媒体だったからもうなんでもいいやと思った。それに、ぼくはもう留学について考えることにほとほと飽きていた。世の中にはもっと見るべきものがある。面白い本がある。考えるべきことがある。正直にいって、「留学とはなにか」といった問題などもはやどうでもよかった。

 

こうしてぼくは秋口に留学体験記を提出した。当時はそれでもう終わりだと思っていたのだが、数ヶ月たった年末になって突然原稿が返されてきた。「内容が留学体験記にふさわしくない」から年明けまでに書き直せとのことらしい。そうした反応があるのは分からなくもない。しかしなぜいまなのか。好きに書いていいのではなかったのか。ぼくはまったく気乗りしないまま修正して再送し、また返されては書き直した。しかしながら、その結果、やっぱり掲載を見送ることにしたという連絡が先日来たというわけだ。

 

内容がふさわしくない、という反応自体はそれなりに興味深いものではある。あるいはもう少し憤ってもいいのかもしれない(ぼくにも落ち度はあったのかもしれない)。とはいえ、自分のことであるにもかかわらず、ぼくはこの一件についてただただどうでもいい以外の感想を抱けないでいる。いまはやりたいこともやるべきこともたくさんあるし、むこうが掲載したくないとのことなら仕方がない。ただ、せっかく書いたのだから、お蔵入りになるくらいならブログの記事にでもしておこう。いまはそんな気分である。

 

長い前置きになった。以下にあるのが、くだんの留学体験記である。
あらかじめ簡単に補足すれば、ぼくはこの文章で北京大学の構内にある未名湖という湖について書いている。中国では美しい風景で有名であり、「美しい湖とボクの青春」的な世にもまぶしいエッセイが毎年量産されるような場所である。しかしいっぽうで、Googleで「未名湖」と検索をかけると、「自杀(自殺)」というキーワードがまっさきに候補として出てきたりもする。未名湖とはそういう場所だ。

 

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夜の湖畔の小さな死

 

ぼくは未名湖が好きだった。北京大学へ交換留学にいっていたとき、ぼくはよくあの湖の周りを散歩した。色んな国や世代の人と歩いた。女の子とも歩いた。だけど、ぼくは夜中にひとりきりであそこを走るのがなにより好きだった。
よく知られていることだが、あの湖はかつてカラカラに乾いていた場所に水を引いてつくりなおしたらしい。「未名湖」と名づけられるまえのことだ。つまり、あの湖はかつて死んでいた。渡中まもなくできた友人がくれた『精神的魅力』という本の中でそれを知った時、ぼくはむしょうに未名湖が好きになった。

ぼくは未名湖が好きだった。どうやら北京大生には、卒業までにあの湖でやるべきことがみっつあるらしい。ひとつは放尿、次にセックス、もうひとつは忘れてしまった。ぼくが忘れたのではない。向こうの友人三人に聞いて三人がそういったのだ。もちろん、もっと聞き込みを重ねて明らかにすることもできたが、ぼくはあえて深入りしなかった。
そして夜中に湖畔を走っていると、じつに色んな人が色んなことをやっているのを見かけた。いまこの文章を読んでいるあなたがなにを考えたかは分からないが、ぼくはどれも当たっていると思う。いかにも生きるのに疲れたという面持ちで、のっぺりとした闇に覆われた湖を眺める男。大きな岩の上で泥酔する学生。茂みの奥で愛を確かめている人びとも二、三度見かけた(この数の多寡はまったく読者に委ねられることになるだろう)。性交が小さな死の儀式だといったのは中沢新一だった。むろん、彼が最初ではないだろう。エロスとタナトス精神分析でも重要なテーマだ。だが、そんなのはどうでもいい。重要なのは、いまもあののっぺりとした闇の中で小さな死の儀式がおこなわれているかもしれないということだ。

ぼくは未名湖が好きだった。繰り返しになるが、とりわけ夜中に走るのが好きだった。あの湖の周りをぐるぐる走っている時、ぼくはしばしば、なぜ人は走るのかと問いかけた。走ることが移動手段としてはすっかり影を潜めて久しいこんにち、ぼくたちが走ることに健康維持以外の目的を見出すのは難しい。その試みはたいてい「走るために走る」という過剰なトートロジーに終始する。それは競技スポーツにおいて最も顕著だ。つまり、なぜ走るのかという問いそれこそが、じつは自己目的化した走りの過剰さと倒錯の象徴的な表現にほかならないのだ。ところで、競技スポーツとしてのマラソンが、その制度的な基礎づけにマラトン丘の故事を必要としたのはじつに興味深い。というのも、それはまさに人間が自己目的化した走りを最も過剰な形式において制度化するにあたって、そこに根源的な死を要請したことを意味しているからだ。死とは過剰さのもっともありふれた帰結であり、ゆえに走るために走るとき、人はつねにすでに少しずつ死んでいる。少なくとも、走り終わって疲労困憊する走者たちは、だれもがマラトン丘の故事を反復/再演しているように見える(それゆえ、劉慈欣の短編「光栄与夢想」にとって少女の死は必然であったといわざるをえない)。

 

根源的な名づけのまえに死を刻み込まれた湖。夜ごとに反復される小さな死の儀式。岩の上で泥酔する学生。この奇妙に魅惑的な空間を満喫するには、やはり自らも過剰で自己目的化した走りを、マラトン丘の死の物語を反復/再演してみせるよりほかにない。ぼくは一度だけ、夜の湖畔の灯りのしたで漱石の『夢十夜』を読んだことがある。読むならこれしかないと思ったのだが、やはりやたらに走ってみるのには及ばなかった。

 

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※1 ここでは学部生の一年程度の留学(さらに細かくいうと交換留学という制度)を意味している。